2015-01-01から1年間の記事一覧
第二鳥居をくぐった所で右に折れると、風日祈宮に通じる風日祈宮橋を渡る。 宇治橋に似た橋の両側には、神明鳥居が建っている。向こう側の南端の擬宝珠に「太神宮風宮 五十鈴川御橋明応七年戌午本願観阿弥 敬白」の名が刻まれていて、明応7年(1498)に勧進…
神苑に入るとすぐ右に折れ、広い参道を南に進む。内宮は東にある神宮林の神路山と島路山の麓にあるが、五十鈴川の西には鼓ヶ岳(355m)が控えている。この鼓ヶ岳はそれほど高くないが、伊勢市街地のどこからでも見えるし、山頂からは伊勢市街が見渡せる。 内…
五十鈴川のほとりにある皇大神宮は、伊勢神宮の二つの正宮のうちの一つで、一般には内宮と呼ばれる。伊勢信仰の中心となる神社で、日本全国の神社で授与される神宮大麻はこの皇大神宮の神札である。社地の面積は外宮の10倍ほどあり、外宮と異なり右側通行で…
英虞湾の南に東西に長く横たわる先志摩半島の東の付け根辺りに、英虞湾に張り出す半島状の丘陵がある。丘陵の各所で旧石器時代や縄文時代の遺跡が見つかり、古くから人が住んでいたことがわかる。英虞郡の地名は天武天皇時代(680年頃)の木簡にも見ることが…
和具から4kmほど西へ進んだ先志摩半島の太平洋岸に、白浜がきれいなあづり浜(阿津里浜)がある。あづり浜には、おあつらえ向きの小島・すずめ島が入江の真ん中にあって、打ち寄せる波しぶきとあいまって、絶景となっている。すずめ島の周囲の岩礁が堤防の…
大王崎から西南に4kmほど進むと、志摩市大王町船越と志摩町片田の境にある深谷水道を通過する。深谷水道は、太平洋と英虞湾を結ぶ長さ約550m、幅約20mの運河で、英虞湾内の真珠養殖に必要な新しい海水を送り込む目的で、昭和7年(1932)に完成した。 深谷…
安乗崎から海岸線を一気に南下して、次の大きな岬、大王町波切にある大王崎に向かう。大王崎とは、大王埼灯台のある城山から、波切神社のある宮山までを指す。暗礁・岩礁が多く、「伊勢の神崎、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」と唄われたほどの航海の難所…
志摩国分寺の東北方約3kmの所に安乗集落がある。的矢湾の入り口に位置し、江戸時代、大坂と江戸を往来する廻船などの風待港として栄え、漁業が盛んだったが、東西の文化の影響も受けた。安乗文楽人形芝居でも知られる。武将九鬼嘉隆が武功をたて安乗神社に…
横山から鵜方に戻り、なおも東に進んで安乗崎に向かうと、志摩市阿児町国府に天台宗の護国山国分寺がある。この周辺一帯が、志摩国分寺跡に指定されている。 がっしりとした山門の正面に本堂が見渡せる。 天平13年(741)聖武天皇は国家鎮護のため、各国に国…
伊雑宮は、志摩市の北にある磯部町の中心部にあるが、志摩半島東部の細長い的矢湾の西、伊雑ノ浦の最奥に位置している。海辺に近く緑豊かな景色に囲まれるこの辺りを眺めると、志摩国が古くから朝廷や神宮の「御食つ(みけつ)国」とされていたことが頷ける…
外宮参観の後、内宮は帰りがけに寄ることにして、伊勢道路を南東に進み、伊雜宮(いざわのみや)を訪れた。「いぞうぐう」とも呼ばれ、一般に伊雑宮と雜の常用漢字体を雑の新字体で表すことが多い。皇大神宮(内宮)の別宮で、内宮背後の島路山を越えた志摩…
別宮3つの後は、神楽殿と九丈殿の間を北に裏参道を進む。五丈殿を過ぎると鬱蒼とした杜となり、やがて左手に切妻造二重板葺きの忌火屋殿が垣間見える。ここでの「忌火」とは、不吉な意味ではなく清浄な火を意味し、御火鑚具(みひきりぐ)を用いて清浄な火…
細長い御池に掛かる平たい「亀石」という石橋を渡ると、多賀宮をはじめとする別宮がある。別宮(べつぐう)とは、正宮の「わけみや」という意味で、正宮の次に位置付けられている。外宮の4つの別宮のうち神域内に3つある。はじめに左手(東)に風宮が建っ…
大庭を過ぎると右手に広大な石原が注連で囲まれている。ここは平成25年まで以前の正宮があった場所で、御敷地で古殿地とも称する。奥の方に小さな真新しい覆屋があるが、そこが御正殿の中心で、心御柱(しんのみはしら)が建てられる場所という。心御柱とは…
伊勢神宮は、太陽を神格化した天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)との2つの正宮(しょうぐう)を中心に、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の…
本居宣長記念館のすぐ北側の松坂城跡は松阪公園として整備され、本居宣長の旧宅「鈴屋」もある。現在、松坂城跡に櫓など建物は一切残っていないが、広大な曲輪や石垣が残っている。ここは曲輪の一つである隠居丸跡で、この門の向こうに宣長の旧宅がある。 松…
7月下旬に松阪と伊勢志摩を巡った。松阪商人で知られる松阪は、近江国日野出身の戦国武将・蒲生氏郷により築城された松坂城を中心に開かれた城下町である。四五百森(よいほのもり)という丘陵上の松坂城跡に、本居宣長記念館および本居宣長の旧宅「鈴屋」…
ヨーグルトで寝かしたトマト入りチキンカレーを作った(4人前)。 ① 鳥モモ肉500gを一口大に切り、ヨーグルト200gとカレー粉小1で揉み込み、冷蔵庫で半日以上寝かしておく。 ② ニンニクとショウガ各1片をすりおろし、生唐辛子2本を輪切りにしておく。鍋…
美味しそうなサバを買い求めたので、オイスターソースあんで絡めた(3人前)。 ① 大き目のサバの3枚おろし2切れ(400g)の腹骨を削ぎとり、3〜4cm幅に切ってボールに入れ、牛乳大2と塩小1/2を絡ませ、15分以上おく。 ② 万能ネギ3本を4cm幅に切り、…
境内に入ると拝殿の手前に能舞台が建っている。明治32年(1899)の能舞台改築の際、日牟禮八幡宮の能楽「ひむれもうで」が完成し、この舞台で初演されたという。観世流の能楽で、久しく演じられていなかったが、平成5年以来、近江八幡薪能として演じられる…
琵琶湖に面する近江八幡市は、陸上と湖上の交通の要所として、中世以降多くの城が築かれ、豊臣秀次が築いた城下町を基礎とし、近江商人の活躍する商業都市として発展した。市内には小高い山が平野に浮かぶように点在するが、八幡山(283.8m)の南麓には日牟…
長寿寺は、貞観年中(859~77)に焼失したが、同年間に復元され、現在に至ると伝わる。正確な建築年代は不詳だが、藤原時代の名残をとどめつつも、建築様式や手法により、鎌倉時代前期に建てられたものと考えられている。桁行5間、梁間5間の方5間、一重寄…
湖南三山の最後は、常楽寺のすぐ南東にある長寿寺である。常楽寺と同じく阿星山の麓に位置し、山号は同じ阿星山である。同じ地区にある常楽寺の「西寺」に対して、「東寺」と呼ばれている。「長寿」というめでたい名のこのお寺は、湖南三山の中でも歴史が最…
善水寺の西に、湖南三山の長寿寺と常楽寺がある。常楽寺の境内に入るとすぐ正面に本堂が建っている。阿星山の北麓に位置し、山号は阿星山、同じ地区にある長寿寺の「東寺」に対して、「西寺」と呼ばれている。創建等については不詳だが、寺伝では、和銅年間…
苗村神社のある竜王町の南、湖南市に点在する国宝級の名刹、善水寺・常楽寺・長寿寺は「湖南三山」と呼ばれている。三山の中で一番北にある天台宗の善水寺は、標高405mの岩根山の中腹にあり、山号を岩根山、院号は医王院という。 長い参道の脇には観音堂や地…
苗村神社西本殿の大きな楼門の右手には、祭りで唱えられる掛け声の大きな石碑と由来碑が立っている。祭の掛け声「雲生井戸掛 大穂生 惣禮詣與下露」(うんしょう いどかけ おおぼしょう それもよかろう)を書き表した石碑は、平成25年に楼門横に建立されてい…
翌朝、湖南三山を巡る前に、竜王町にある苗村神社を訪ねた。創祀は不詳だが、付近に古墳群が多く、祖霊信仰に始まる神社とされる。延喜式神名帳に、地名の那牟羅と同音の長寸(なむら、長は最高位、寸は村の古字)神社として列座する式内社。近郷の33ヶ村に…
東本宮の正面入り口に建つ楼門は、信長焼き討ちの後、天正年間から文禄2年(1573~93)頃に建てられた。3間1戸、2層の楼門で、屋根は入母屋造桧皮葺。軒廻り、腰組の組物は、格式の高い三手先で、一階部分は高く、二階部分が低いためスラリとした均整のと…
日吉大社について文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近江海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである。日枝の山とは後の比叡山のことである。日吉大社は崇…
比叡山の麓、大津市坂本に日吉大社がある。全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社であり、通称として山王権現とも呼ばれる。西本宮と東本宮を中心に40万㎡の境内は、国の史跡に指定されている。 西本宮の駐車場から境内の参観を始めると、右手に白…