半坪ビオトープの日記

奴国の丘歴史資料館③須玖岡本遺跡、甕棺墓

須玖岡本遺跡、奴国の青銅器・ガラス製品生産工房跡

須玖岡本遺跡の中心・奴国王墓のすぐ北側一帯には、青銅器やガラス製品を生産していた工房跡が集中して発見されている。当時の先進技術が結集したこの地は、弥生時代のテクノポリス(高度技術集積都市)と呼ぶに相応しい。①須玖五反田遺跡は平成2年(1990)、ガラス工房跡と推定される特殊な竪穴建物跡の内外から、ガラス勾玉鋳型や勾玉の未製品、玉砥石などガラス製品の生産に関連した多数の遺物が出土した。全国初の発見とされる。②須玖坂本B遺跡は銅矛鋳型、銅矛中型、銅滓、坩堝、鞴送風管など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土し、青銅器工房跡とされる。③須玖岡本遺跡坂本地区は銅矛や鏡など青銅器の鋳型、銅矛中型、銅滓、坩堝など青銅器生産に関連したとりわけ多数の遺物が出土し、青銅器工房跡の特徴である周囲に溝を巡らせた掘立柱建物跡が密集し、ガラス勾玉鋳型も出土し、奴国の官営工房、国内最大級の弥生時代のテクノポリスともいえる。④須玖タカウタ遺跡は、竪穴建物跡の内外から、多種の青銅器鋳型が出土した。土製と石製の鋳型があり、それらは奴国の青銅器生産遺跡の中でも時期が古いものである。⑤須玖永田A遺跡は昭和60年(1985)、全国で初めて、鏡・銅矛鋳型、銅矛中型など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土した。周囲に溝が巡る特殊な掘立柱建物跡の青銅器工房跡である。⑥須玖黒田遺跡からは、青銅器の鋳型や銅矛中型など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土した。須玖永田A遺跡と同時期で、遺物の内容も類似しており、青銅器工房跡の可能性が高い。⑦須玖尾花町遺跡からは、銅矛鋳型、銅戈鋳型、銅矛中型、坩堝など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土し、青銅器工房跡の可能性が高い。⑧須玖盤石遺跡からは、銅矛鋳型、銅矛中型が出土し、青銅器工房跡の可能性が高い。⑨赤井手遺跡の弥生時代中期の鍛治遺構である33号竪穴建物跡の床面からは、かなり使用された炉が発見され、鉄器の未製品や鉄素材などが多数出土して、赤井手遺跡は鉄器工房跡とされる。また、青銅器鋳型やガラス勾玉鋳型も出土している。

青銅器鋳型など

ここには各種青銅器鋳型など関連遺物が並ぶ。左手には中広形銅矛と銅矛の石製の鋳型(外型、そとがた)、右手には様々な銅矛の中型が並ぶ。銅矛は、木や竹の柄を差し込んで使う武器のため、根本の部分(袋部など)が中空の筒状になっていなければならない。中型(なかご)とは、その内部の空洞を作るための土製の芯型である。

青銅器鋳型出土分布図、鋳型

青銅器鋳型の出土は北部九州と関西地方に集中する。その中でも須玖岡本遺跡周辺の出土数は突出しており、鋳型(外型)に限っても全国の3割以上を占めている。鋳型(外型)は北部九州の場合、ほとんど石型に限られていたが、関西では石型から土型へとかわる。北部九州の鋳型石材としては、滑石片岩や石英-長石班岩などが使用された。中期には両者とも用いられているが、後期になると後者に限定されていく。右上の青銅器鋳型出土分布図は、北部九州と春日市周辺を示している。分布図の左に見えるのは、大南A遺跡出土の銅戈鋳型である。手前には左から、銅剣鋳型、連鋳式銅鏃鋳型、筒状銅製品の鋳型などが並ぶ。

大型の甕棺

甕棺墓は北部九州を中心として展開した独特の埋葬法で、大型の甕棺は壺の形態から発達して、大きさを増し甕形へと変化していく。埋葬例としては、甕を2個合わせたものや、上甕に壺や鉢を用いたもの、単独の甕に木蓋を施したものなどがある。小形棺には日常容器や祭祀容器などが用いられたが、大形の甕は埋葬専用に作られた。手前の小さめの甕は、弥生時代前期中頃(紀元前3世紀頃)の甕棺である。左の大形甕棺は、春日市寺田池北遺跡出土の弥生時代中期末(紀元前1世紀終わり頃)の甕棺である。胴部上位に鹿と想定される線刻絵画が残っている。なお寺田池北遺跡23号出土の甕棺内からは、全長30cmほどの鉄鉾が発見された。形態的な特徴から見ると朝鮮半島北部の龍淵洞(ヨンヨンドン)遺跡出土資料と類似することから、楽浪郡付近で製作され、日本へもたらされた可能性が高いとされる。

甕棺

左の甕棺は、春日市豆塚山遺跡出土の弥生時代中期後半(紀元前1世紀)の甕棺である。

 

奴国の丘歴史資料館①須玖岡本遺跡

奴国の丘歴史資料館

今回は吉野ヶ里遺跡を主目的に北九州(福岡・佐賀)の古代遺跡・古墳を巡る旅だが、予備知識を得るために九州歴史資料館・小郡市埋蔵文化財調査センター・築紫野市歴史博物館を見てきたが、いよいよ『後漢書』や『魏志倭人伝』に登場する「奴国」の王都とも称される「須玖岡本遺跡」に関する福岡県春日市岡本の奴国の丘歴史資料館を訪れた。奴国の丘歴史公園は、春日丘陵の北部、弥生時代の遺跡密集地である須玖遺跡群内の東西にのびた支丘上に位置している。弥生時代中期の甕棺墓や土壙墓・木棺墓などの埋葬遺跡からなる墓地、及び祭祀遺構の遺跡が、公園頂上部に設けられた2棟の覆屋の中に発掘時のままの状態で保存されている。

須玖岡本遺跡

須玖岡本遺跡は、弥生時代中期から後期の、奴国の首長層の墓地(王墓・王族墓)である。甕棺墓からは、中国製の鏡や青銅製の武器など多くの副葬品が出土している。

須玖岡本遺跡群のジオラマ

福岡平野に突き出す春日丘陵北側の低台地上の、南北2km、東西1km内の弥生時代中期から後期の、大規模遺跡群が総括して須玖岡本遺跡群と呼ばれ、須玖岡本遺跡は当遺跡群内の北端部に位置する。須玖岡本遺跡群のジオラマの北西部、諸岡川の東側に墳丘墓(王族墓)と王墓がある。

古代中国の歴史書『漢書』地理誌には、「楽浪海中に、倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云う。」と記され、紀元前1世紀頃の倭国は100余りの小国に分かれ、一部の国が漢に使いを送っていたことがわかる。「奴国」が歴史に初めて登場するのは、『後漢書』倭伝である。そこには「建武中元二年(西暦57)、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。」とある。この印綬が天明四年(1784)に志賀島で発見された「漢委奴国王」と刻まれた金印と考えられる。さらに、3世紀の倭国、邪馬台国や卑弥呼のことが記された『魏志』倭人伝にも奴国は登場する。倭人伝には、邪馬台国までの道のりなどが記され、奴国は「(伊都国から)東南奴国に至る百里。官を兕馬觚と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸あり。」とあり、家が2万件(8〜10万人)あったと記されている。

奴国の王墓

明治32年に巨石の下から甕棺墓が発見された。甕棺の内外から中国銅鏡30面以上、銅剣・銅矛などの武器が約10本、ガラス製品の勾玉・管玉・璧(中国の宝器)など多数の副葬品が大量の朱とともに出土した。この甕棺墓は墳丘を有していた可能性が高く、集団墓から離れて独立しており、棺の上には長さ3.3m、幅1.8m、厚さ30cm、重さ4tの巨石が設置されていた。独立した特定個人墓であることや副葬品の質・量が他の墳墓より卓越していることから、この甕棺墓は奴国の王墓とされる。王墓の副葬品と他の遺跡の副葬品と比較するとその格差が分かる。須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡からは大・中・小型鏡が20〜30面、立岩遺跡からは中型鏡6面、東小田峯、門田遺跡からは中・小型鏡2面、隅・西小田遺跡からは小・中型鏡1面・・・と、副葬品には差が認められる。

奴国王墓副葬品の再現模型

奴国王墓副葬品の再現模型が下に展示されている。実物では、約30面の大・中・小型鏡は、280を超える破片で出土している。

須玖岡本遺跡の甕棺墓

明治32年に発見された奴国王墓とされる須玖岡本遺跡の甕棺墓は、他の甕棺墓に比べて、甕棺の入っていた墓壙の規模が一際大きい。奴国王墓の周辺には数百基からなる甕棺墓群があり、中国製の鏡、青銅製の武器など、多数の副葬品が出土している。須玖岡本遺跡は、昭和61年には国の史跡に指定され、平成2年には墳丘墓も確認されている。

須玖岡本遺跡群の王墓と王族墓からの出土品

王と王族の宝物。左端には、須玖岡本遺跡岡本地区20次調査で、4号甕棺墓から出土した銅剣と銅剣に付ける飾りの青銅製把頭飾が並ぶ。奴国の中心的遺跡である須玖岡本遺跡群の初期首長層の墳墓(王族墓)からの出土品であり、青銅製把頭飾は福岡平野で初出土の貴重なものである。その右に並ぶ、銅剣・銅矛・銅戈などの武器は王墓あるいは王族墓の甕棺の内外にて発見されたものである。特に右端の手前のガラス勾玉は、奴国王墓(巨石下)の合口甕棺の中から前漢鏡30面以上や青銅器と共に出土したものである。

甕棺墓と副葬品

北部九州の弥生時代の代表的な墓制である甕棺墓は、脊振山地周辺の平野に分布が著しく、数百基からなる墓地もある。しかし、副葬品をもつ例は極めて少なく、全く副葬品を伴わないことがむしろ一般的である。奴国の中心部とされる春日丘陵周辺では、須玖岡本遺跡をはじめ、宮下遺跡や立石遺跡など副葬品を出土する墓地が近接して分布する。弥生時代の埋葬法には支石墓、木棺墓、土壙墓、甕棺墓、方形周溝墓などの種類があり、地域や時期により異なる。北部九州の場合、前期は土壙墓、木棺墓が多いが、中期になると甕棺墓が最盛期を迎え、墓制の主流となる。後期に入ると甕棺墓は急速に衰退して、石棺墓や土壙墓などへと変わっていく。最近では、墳丘を有する甕棺墓群や土壙墓群の発見例が増加しつつある。

王墓出土品

ここには王墓出土の銅鏡やその破片などが並ぶ。左から連弧文銘帯鏡、星雲文鏡の破片、草葉文鏡の復元品、草葉文鏡の破片2面分。連弧文銘帯鏡とは、連続した美しい弧の文様の内側に多様な銘文が刻まれている。連弧文青白鏡、連弧文昭明鏡などがある。

 

五郎山古墳・装飾古墳

五郎山古墳

標高72mの小高い丘に佇む五郎山古墳は、築紫野市原田にある墳丘の径約32mの円墳である。麦わら帽子のような形をした2段築成で、墳丘の裾には幅2mの溝が巡る。装飾壁画を有するいわゆる装飾古墳として有名である。

五郎山古墳の横穴式石室の可動式石室模型

五郎山古墳の埋葬施設は、玄室が前後の2室からなる複室式の横穴式石室で、南西に開口する。石室の全長11.2m。羨道は長さ3.6m、幅1mで、高さは前室側で1.4m、入口側が0.9mと羨道の中程から入り口に向かって天井が低くなっている。羨道を抜けると幅2m、奥行き1.6mほどの前室がある。高さは約2m。玄室の後室は幅3m、奥行4.2m、高さ3.5m。6世紀後半の築造とみられる。原寸大の可動式石室模型が設置されていて、間近で壁画を観察することができる。

五郎山古墳の後室の壁画模型

五郎山古墳の壁画は80点あまりの文様からなり、前室と後室に描かれているが、後室奥壁に最も多くの絵が描かれている。赤・緑・黒の3色の顔料を用いて、人物、動物、武具などの具象的モチーフを中心に描く点が特色とされる。西側奥の腰石には船と16個の小さな丸が描かれ、東側奥の腰石や全室奥壁の両方の袖石にも船が見られる。

五郎山古墳の後室の壁画模型

中央の腰石(最下部の石)下部には船を描き、右方には同心円文と、鞆や靭、弓などの弓に関する道具が描かれている。画面左方には、霊屋と思われる建物とそれに向かって祈る人物、弓に矢をつがえた人物、馬上の人物とそれを先導する犬らしき動物などが描かれる。中央上部に「Y」字状のものは、従来「鳥」とされてきたが、考古学者の甲元眞之はこれを蓋(きぬがさ)の表現か蕨手文ではないかとしている。腰石の上方の石には、馬上で矢をいる人物、片手をあげて踊っているらしい人物、同心円文などを描く。

五郎山古墳の壁画見取り図

五郎山古墳の壁画見取り図を見ると、文様は人物系=騎馬人物・祈る人・その他多様な人物、動物系=馬・猪・犬・鳥など、器物系=靭・鞆・弓・旗・建物・船など、文様系=同心円文・円文・三日月文・珠文などに分けられる。船には棺と思われる四角い箱が乗っている。同心円文は日月星辰を表し、他界を象徴するものである。馬も船同様に魂の乗り物とされる。

五郎山古墳の壁画のタッチパネル

五郎山古墳の壁画の大きなタッチパネルを前にして、モデルになった人物・動物や船・建物などの模型(大きさは壁画の大きさに準じている)を眺めてみると、考古学者の甲元眞之が、霊屋に祈る人物の存在も合わせ、葬送儀礼の様子を表現した壁画と考えているのもわかる。

壁画の顔料と出土した副葬品

壁画には赤・緑・黒の3色の顔料が用いられているが、赤はベンガラと呼ばれる赤鉄鉱(代謝石)、緑は緑土、黒は煤や炭を粉末にしたものを、膠などで溶いて描かれたと考えられている。五郎山古墳の副葬品は、以前に盗掘されたり、行方不明になったりして全体はよくわかっていない。しかし、調査時の記録によれば次のような出土資料がわかっている。ガラス製勾玉・小玉、碧玉製管玉、金環・銀環などの装飾品、鉄鏃・刀子・刀装具などの武具、馬具の心葉形杏葉(鉄地金金銅張)、坏蓋・坏身・高坏・長脚高坏(有蓋・無蓋)・盤・椀・甑・甕などの須恵器、土師器の椀、砥石。

 

築紫野市歴史博物館⑤、太宰府、中世の墨書土器と渡来銭

大宰府の守り

663年、百済復興の最後の戦いである白村江の海戦で、百済と日本軍は新羅と唐の連合軍に大敗し、百済は滅亡してしまう。そのため日本は直接、軍事的脅威にさらされることになった。日本ではこの敗戦からわずか4年の間に、北部九州の防人の派遣との設置、水城や大野城、基肄城(きいじょう)をはじめ6ヶ所の山城が作られ、百済からの亡命者の指揮によって防衛体制が強化された。

「大宰府の守り」図では、中央に大宰府政庁があり、その上()に大野城がある。右手上部に「大野城復元図」があり、その下に「大宰府政庁復元図がある。中央の大宰府政庁の左手に水城が点在している。

大宰府で「都」を思う万葉歌

大宰府で「都」を思う万葉歌が4首紹介されている。左上の歌は、「やすみししわご大君の食(おす)國は倭も此処も同じとそ思ふ」(帥大伴卿の和(こた)ふる歌:万葉集:巻第六大宰府長官:大伴旅人956)。意味:「わが大君がお治めになる国は、大和もこの大宰府も同じだと思う」。帥(そち)大伴卿とは、大宰府長官:大伴旅人である。写真は大宰府政庁跡。右上の歌は、「大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ちわたる」(筑前國守山上憶良:巻五799)。意味:「大野山に霧が立ち渡っている。私が亡き妻を想って吐く深い深い溜息で霧が立ちわたっている」。赴任後まもなく妻を亡くした大宰府長官:大伴旅人になりかわり憶良が詠んだとされる。写真は大野城跡。左下の歌は、「大夫(ますらを)と思へるわれや水茎の水城の上に涙拭はむ」(大納言大伴卿の和ふる歌:巻第六968)。意味:「ますらおと自認していたこの私が、多年住み慣れた筑紫を後に帰京する悲しさに、水城の上で不覚にも涙を流すとは」。写真は水城跡。右下の歌は、「梅の花散らくは何処しかすがに此の城の山に雪は降りつつ」(大監伴氏百代:巻第五823)。意味:「梅の花が散るとはどこのことでしょうか。そうはいうもののこの筑紫の城山には雪(梅の花)が降り続いていますね」。大伴旅人主催の梅花の宴で、旅人の歌を受けて詠んだ、大伴百代の歌。写真は基山に築かれた古代山城:基肆城跡。

大宰府の条坊制

古代の大宰府は、大宰府政庁を中心に、周辺に官衙域、東側に学校院、観世音寺を配し、政庁を北辺の中心として、約2km四方にわたって方形の条坊制を敷いていたと考えられている。条坊制とは中国・朝鮮半島に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路()と東西の大路()を碁盤の目状に組み合わせて左右対称の方形プランを形成するものである。古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されていた。8世紀代に成立し、12世紀前半に廃絶したようだが、全容解明には至っていない。

大宰府周辺の出土品

左のショーケース:上段左の軒丸瓦は、奈良時代の大宰府条坊跡出土の軒丸瓦である。その右の軒丸瓦は、奈良時代の杉塚廃寺跡出土の軒丸瓦である。下段中央の石帯は、奈良時代の束帯装束の儀式に用いられる黒革製の飾り金具である。円形の石は円鞆と呼ぶ杉塚廃寺跡出土品、方形の石は巡方と呼ぶ岡田地区遺跡出土品である。下段右の銅銭は、奈良時代の大宰府条坊跡出土の皇朝十二銭である。皇朝十二銭とは、日本最古の流通銭である和銅開珎をはじめとする、律令政府が発行した12種類の銅銭の総称であり、708年から963年までの約250年間に、中国の唐の銭貨を真似て作られた。

右のショーケース:上段の石鍋は、鎌倉時代の岡田遺跡出土の滑石製の石の鍋である。下段左にある白磁の碗は、鎌倉時代の西小田遺跡出土品である。白磁とは、白色の胎土に無色の釉薬をかけた中国製磁器である。下段右にある青磁の小皿は、鎌倉時代の西小田遺跡出土品である。見込みに鯉の絵が入る龍泉窯系の青磁である。

各地の文物の通過点

筑紫野市の北にある博多は、古代は筑紫館、後の鴻臚館を中心に大宰府の外港として貿易や外交を一手に担っていた。中世には貿易港としてさらに発展し隆盛を極める。この博多と九州内陸部を最も平坦なルートの拠点となる築紫野市では、国内外から各地の文物が行き交った。

中国の磁器の産地としては、北部の白磁(河北省産)、長江(揚子江)中流域の長沙窯青磁、長江河口の南沿岸に越州窯系青磁、龍泉窯系青磁、同安窯系青磁、その奥に白磁(江南産)、南に白磁(広東省産)と続く。

各地の白磁や青磁

小さな展示ケースの中には、左から江南産白磁、越州窯系青磁、龍泉窯系青磁、同安窯系青磁と磁器が並ぶ。

墨書土器

古代から中世にかけての遺跡から、墨で文字などが書かれた土器が発見されている。これを墨書土器という。こうした土器によって、その遺跡のことや当時の社会、生活について詳しく知ることができる。また土器以外にも、刀剣や仏像、仏具などの金属製品や、石塔、石碑などの石製品、木簡などの木製品、そして紙類なども残されている。

さまざまな墨書土器

ここにはさまざまな文字の書かれた墨書土器が並ぶ。右手前には「井田」と書かれた大宰府条坊跡出土品が、右奥には「藤太郎」と名前の書かれた西小田地区遺跡の井戸から出土した白磁が並ぶ。

渡来銭

室町時代を中心に、日本は中国から多くの銭を輸入している。当時、貨幣による流通条件は成熟していたが、政府に独自の貨幣を流通させるだけの信用がなかったためと考えられている。1975年に韓国の新安沖海底で、中国浙江省寧波(上海市付近)から博多へ向かう途中の沈没船が発見された。その積荷に高麗製の青磁や紫檀木などとともに約800万枚の中国銭が見つかっている。このことからも当時輸入された中国銭がいかに多かったかがわかる。写真のように、複数の銭を中央孔に紐を通してひとまとめにしたものを差し銭という。

渡来銭

上段には渡来銭が出土した時の塊が2点並び、下段には左から皇宋通宝(1038)、嘉祐通宝(1056)、3点の元豊通宝(1078)、永楽通宝(1408)が並ぶ。

以上で、築紫野市歴史博物館での縄文時代から中世の途中までの展示を終了する。

 

築紫野市歴史博物館④、古墳時代

三角縁神獣鏡の分布

三角縁神獣鏡は銅鏡の一種で、縁部の断面形状が三角状となった大型神獣鏡である。銅鏡は弥生時代中期後半の遺跡から古墳時代の墳墓に至るまで約4000面以上が発掘され、三角縁神獣鏡とされる銅鏡は330面を超えて、日本で出土した鏡の中では最も数が多い。中国で出土例はなく、畿内を中心に広範囲から出土し、主に古墳時代前期の古墳から出土するため、ヤマトから各地の有力首長に配られたと考えられている。九州では、瀬戸内海の西端にあたる大分県宇佐市の赤塚古墳から5面、関門の出入口にあたる福岡県刈田町の石塚山古墳から7面以上、福岡平野と九州内陸部への交通の要衝にあたる築紫野市の原口古墳から3面が出土している。築紫野市一帯(旧筑前国)では、14の古墳から三角縁神獣鏡が出土しているが、原口古墳以外は1面または破片の出土である。

原口古墳出土の三角縁神獣鏡

原口古墳(築紫野市武蔵)からは古墳時代(4世紀)に作られた出土の三角縁神獣鏡が3面出土している(うち2面は東京国立博物館蔵)。細かくいうと、天王日月・獣文帯三神三獣鏡、天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡、長宜子孫・獣文帯三神三獣鏡の三つ。これらは原口古墳の後円部の中央付近から下層にあった弥生時代の甕棺墓とともに粘土や朱に包まれて発見された青銅製の鏡である。原口古墳は長い間円墳と考えられてきたが、改めて墳丘を測量した結果、全長約80m、後円部径約56m、前方部幅約25mの前方後円墳とわかった。墳形や出土遺物から、九州地方では最も古い時期に造られた大型の古墳と考えられる。主な出土品は、三角縁神獣鏡3面、直刀3振、鉄斧4個、管玉・丸玉5個である。なお、大分県宇佐市の赤塚古墳出土の三角縁神獣鏡は、築紫野市歴史博物館保管の鏡と同じ鋳型で作られている(文化庁)。

初期前方後円墳の分布

前方後円墳は古墳の形式の一つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。主に日本列島で3世紀後期から7世紀初頭ごろ(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造された。前方後円墳は墓という役割のほかに、儀式を行う場所として築造されたともいえる。造られた広がりを見ると、全国の有力な首長のまつりが一定のルールのもとに広い範囲で行われていたことがわかる。共通の墓の形や墓前で権力を継承する儀式を持つことになった有力首長をはじめとする諸集団の広い範囲での結合は、かつてない出来事であった。北部九州の初期前方後円墳の主な古墳は、福岡県八女市の岩戸山古墳(全長約135m、北部九州最大)、福岡県苅田町の石塚山古墳(全長約110130m、北部九州最古・最大級)、大分県宇佐市の赤塚古墳(全長約57.5m)及び上述の原口古墳などである。

筑紫野市周辺の首長墓

有力首長が前方後円墳を築き始めた頃に造られた中小の首長の墓が、筑紫野市周辺でも発見されている。前方後円()墳や円墳もあるが、台状の方墳が大半を占める。古墳の形や古墳群の形成、埋葬施設、副葬品などから、見渡せる程度の平野を統治範囲とした首長、複数の小集団を統治した首長、さらに上位の有力首長に準ずる地位の首長がいたと想定され、当時の階層社会の一端を垣間見ることができる。

築紫野市の主な古墳は、五郎山古墳、原口古墳、仙道古墳とされる。左上には、那珂川市の妙法寺古墳出土の三角縁神獣鏡が、右上には、大野城市の御陵古墳群全景写真が、左下には、妙法寺古墳出土の木棺が、右下には、小郡市の津古生掛古墳出土の鶏形土製品(埴輪)が示されている。妙法寺古墳は、九州では珍しい前方後方墳(2号墳)である。御陵古墳群では、古墳時代前期と後期の古墳や木棺墓や土壙墓などから、割竹形木棺や箱式石棺などが見つかっている。津古生掛古墳は、中国製の方格規矩鳥文鏡が出土した古墳時代前期の重要な古墳である。

阿志岐古墳群出土品

奥の上段には、阿志岐古墳群B26号古墳出土の鉄剣2振、砥石1点が、手前の下段中央から左には、20数本の銅鏃・鉄鏃が、右奥に鉄鋸、右手前に鉄斧が並ぶ。築紫野市大字阿志岐にある阿志岐古墳群周辺には、阿志岐A群・B群・C群・D群のほか、御笠地区遺跡AG地点、杉の谷古墳群、脇道古墳群、老松神社古墳群、天山古墳群、常松遺跡、峠山遺跡、野黒坂遺跡、大曲遺跡、菖蒲古墳群などの古墳や遺跡が集まっている。築紫野市東部には筑後川の支流である宝満川が流れる。その中流東側の宮地岳の西麓の尾根先端の最高位に築造された阿志岐古墳群B26号古墳からは、阿志岐周辺の平野が一望される。墳丘からは坪谷高坏などの土器が多量に出土し、墳頂部下の割竹形木棺内からは鉄剣2振、銅鏃29本、鉄鏃13本などが出土した。

前方後円墳の終焉

5世紀に入ると、特定の人を埋葬する竪穴式石室にかわって、複数の人を順番に埋葬できる横穴式石室をもつ古墳が北部九州に現れる。朝鮮半島から伝わったと考えられている。6世紀までにはヤマト政権の仕組みも整い、古墳の形や祭祀を共有する意識が薄れてきた。そうした理由から、築紫野市の首長墓は、6世紀初めといわれる剣塚古墳を最後に前方後円墳が作られなくなり、巡り尾Ⅰ遺跡23号墳や五郎山古墳のような大型の円墳にかわっていった。左上の剣塚古墳・右上の日拝塚古墳などの前方後円墳から、左下の大振山古墳・五郎山古墳(内部)などの円墳へと移行していった。

阿志岐古墳群・八隅遺跡・原田地区遺跡出土品

奥の上段左には、古墳時代中期の阿志岐古墳群A群3号出土の小玉(ガラス製首飾り)が、上段右には、古墳時代の八隅遺跡出土の銀環(銅環を銀で包んだ耳飾り)が、下段左には、古墳時代後期の原田地区遺跡9地点6号墳出土の勾玉(水晶製)と管玉(碧玉製の耳飾り)が、下段右には、古墳時代の八隅遺跡出土の金環(銅環を金で包んだ耳飾り)が並ぶ。

古墳時代の武人

古墳時代、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の間で武力衝突が繰り返されていた。最新の技術と物資を求める日本は、特に百済と親しい関係にあり、5世紀以降663年に百済が滅亡するまで、朝鮮半島の動乱に介入していた。戦いは、当初弓矢によって遠距離から攻撃し、刀剣で白兵戦を展開したと考えられる。5世紀以降になると、騎馬による戦闘の比重が大きくなったようだ。

原田地区遺跡出土品

ここには古墳時代の武器が展示されている。上段左には、古墳時代後期の原田地区遺跡23号墳出土の鉄鉾、その右には、古墳時代後期の原田地区遺跡出土の鉄鏃、下段には、古墳時代後期の原田地区遺跡3号墳出土の圭頭大刀が並ぶ。圭頭大刀とは、古墳時代に作られた装飾大刀の一種で、柄の先端(柄頭)が中国の玉器「圭」の形に似る特徴の、当時の豪族たちの権威を象徴する貴重な遺物である。

様々な形の須恵器

須恵器は、今から1,600年ほど前に朝鮮半島から伝わった土器である。形を作るためにロクロを使い、登り窯で焼く技術により、均整がとれた堅い土器になった。左から、大きな壺、壺、はそう(脚付・有蓋)、蓋坏・坏身、その奥に器台、壺、高坏などが並ぶ。

 

築紫野市歴史博物館③、弥生時代

隅・西小田遺跡や二日市峰畑遺跡出土品

右手の土器は隅・西小田遺跡出土の朝鮮半島系後期無文土器である。隅・西小田遺跡からは朝鮮系無文土器が3点ほど出土している。右の後期無文土器は第5地点138号ピット出土の小型の甕で、弥生土器とは形や作りが全く異なっている。口には断面円形の粘土帯を貼り付け(水石里式)、回転台は用いずに指ナデや押さえで作るため凹凸が著しくてハケ目はみられず、胴部には薄く長く重ねた粘土帯の継ぎ目が明瞭で、後期無文土器の甕を忠実に再現している。無文土器の左には峰畑遺跡出土の弥生時代中期の青銅製鉇(ヤリガンナ)、その左には隅・西小田遺跡出土の弥生時代の銅鏃(青銅製のやじり)が並ぶ。二日市峰畑遺跡は、築紫野市二日市北にある、弥生時代中期後半の首長墓を中心とした遺跡である。

古代中国の歴史書によると、紀元前1世紀(弥生時代中期)頃には北部九州に「国」が成立していて王が君臨していたことが知られる。そのうち対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国の5国については、すでに所在地が明らかにされている。すなわち、末盧国は唐津平野の宇木汲田遺跡・桜馬場遺跡(唐津市)に、伊都国は糸島平野の三雲遺跡(前原町)に、奴国は福岡平野の須久岡本遺跡(春日市)に中心地が比定されている。その中で王墓とみられる甕棺には、多数の前漢鏡や青銅武器、玉類などが副葬されており、中国と交渉力をもった強大な王がいたことが窺える。ところで、当時の北部九州には代表的な5国のほか、記録にその名が見えない中小規模のクニも数多く存在していた。『魏志倭人伝』にいう「旧百余国」がそれである。筑紫野域に限ってみれば、これまでに二日市峰畑遺跡、道場山遺跡、隅・西小田遺跡(築紫野市)、峯遺跡、吹田遺跡(夜須町)など首長クラスの墓地が発見されており、これらが「百余国」を構成していたクニの一部であると思われる。福岡平野で30面前後の前漢鏡を持った強大な奴国に隣接する築紫野域のクニグニの一つとして、隅・西小田遺跡や二日市峰畑遺跡などをみていきたい。

隅・西小田遺跡出土の磨製石剣、石鏃
上部には隅・西小田遺跡出土の弥生時代の磨製石剣6点、下部には隅・西小田遺跡出土の弥生時代の石鏃25点が並ぶ。

隅・西小田遺跡出土の磨製石鏃、石戈
上部には隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の磨製石鏃12点、下部には隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の石戈(石で銅戈を模したもの)が並ぶ。

隅・西小田遺跡出土の甕棺副葬のゴホウラ貝製腕輪
こちらの腕輪は、隅・西小田遺跡第13地点出土の弥生時代中期後半の第23号甕棺副葬の貝輪(右腕に21個)。ゴホウラ貝製の腕輪で「立岩型」と呼ばれる型式である。ゴホウラ貝は、琉球列島以南の珊瑚礁に生息している大型の巻貝である。遠く離れた南海にしか産しないこの貝の腕輪が、弥生時代の、特に北部九州の首長たちには好まれたようだ。この甕棺の被葬者はこの貝輪を41個も装着していたが、知られている最多例である。

隅・西小田遺跡の甕棺出土の鉄剣、鉄戈など
右の展示ケースには、隅・西小田遺跡第13地点出土の弥生時代中期後半の第23号甕棺副葬の貝輪(左腕に20個)の一部。左の展示ケースの左の鉄剣は、隅・西小田遺跡第13地点第23号甕棺出土の弥生時代中期後半の鉄剣、右の鉄戈は、同甕棺出土の弥生時代中期後半の鉄戈、中央の青銅鏡は、隅・西小田遺跡第13地点第23号甕棺出土の弥生時代中期後半の重圏「昭明」銘鏡である。前漢時代の宣帝(BC7449)、元帝(BC4933)時代に鋳造された鏡であり、甕棺の埋葬年代の上限を知る上で重要な資料である。おそらくこの鏡は中国の皇帝から直接下賜されたものではなく、奴国王を通じて与えられたものであろう。冊封体制(中国の皇帝が周辺諸国の王に称号を授けることによって生まれる主従関係)の原型をみることができる。

隅・西小田遺跡出土の銅戈
こちらは隅・西小田遺跡第7地点出土の弥生時代中期末〜後期初頭の銅戈7点。一括埋納された23本の中細形銅戈。

隅・西小田遺跡出土の銅戈
こちらも隅・西小田遺跡出土の銅戈7点。戈は、本来は武器であるが、これらの銅戈は祭祀を目的に作られたと思われる。

隅・西小田遺跡出土の銅戈、祭祀土器

手前には隅・西小田遺跡第7地点に一括埋納された23本の中細形銅戈の一部。上段には、一括埋納された23本の中細形銅戈と一緒に発見された、祭祀土器である。

隅・西小田遺跡出土の祭祀土器
こちらも隅・西小田遺跡第7地点に一括埋納された23本の中細形銅戈と一緒に発見された、祭祀土器である。弥生時代の井戸や溝、墓地など、いろいろな場所から祭祀に使った土器が発見される。その多くは、土器の表面に丹と呼ばれる赤色顔料を塗っている。

隅・西小田遺跡出土の銅戈、御笠地区遺跡出土の「長宣子孫」銘鏡など
左手には、隅・西小田遺跡第7地点に一括埋納された23本の中細形銅戈の一部。茎に鹿の絵が陽刻されているものがあり、最初から祭器とすることを目的として製作されたことを示している。その右には御笠地区遺跡から出土した弥生時代後期の「長宣子孫」銘鏡が、その右には御笠地区遺跡G地区から出土した弥生時代後期の小さな仿製鏡が、その右には隅・西小田遺跡第10地点5号墳出土の弥生時代後期の仿製鏡が並ぶ。仿製鏡とは、中国で作られた本物の鏡(中国鏡・舶載鏡)を手本にして、日本や朝鮮半島などの周辺地域で模倣し鋳造した古代の銅鏡である。

立明寺遺跡出土の生活・祭祀用土器など
これらの土器は筑紫野市にある立明寺遺跡出土の約1900年前の弥生時代後期の土器である。壺や甕、高坏などの生活・祭祀用土器のほか、土器片を利用した土製円盤なども見つかっている。立明寺遺跡は、弥生時代中〜後期の集落・墓地遺跡で、朝鮮半島から伝わったとされる典型的な小銅鐸の出土で全国的に知られ、交易の拠点として重要視されている。中期の遺構から列状に埋葬された甕棺墓も検出されている。立明寺地区遺跡としては、弥生時代から奈良・平安・鎌倉時代の掘立柱建物や竪穴建物、柵、道路などの遺構も見つかっている。
 

築紫野市歴史博物館②、弥生時代

 

隅・西小田遺跡の弥生時代中期の出土品
右手奥には、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の投弾(狩猟や戦闘に使う投げ玉)、その手前には、隅・西小田遺跡出土の紡錘車(糸を紡ぐために使うはずみ車)、一番手前には、大島遺跡出土の弥生時代中期の土製円盤(割れた土器片を利用した円盤上の土製品)が並ぶ。左手には、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の砥石が2点並ぶ。

隅・西小田遺跡の弥生時代中期の出土品
右手には、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の太型蛤刃石斧(伐採などに用いる大型の石斧)が2点並ぶ。左手奥には、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の抉入柱状片刃石斧(木材の加工などに用いる石斧)が3点、手前には、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の石斧(伐採や木材の加工に用いる石斧)が2点並ぶ。

隅・西小田遺跡の弥生時代中期の出土品

右手奥には、扁平片刃石斧(木材加工用の石斧)が3点、その手前には、小型方柱状片刃石斧(木材加工などノミのように用いた石斧)が3点並ぶ。中央奥には、削器(削り具やナイフとして使用)が3点、その手前には、錐器(穴をあける道具)が4点並ぶ。左手には、石包丁(稲の穂を摘む道具)3点が並ぶ。これら全てが、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期のものである。

弥生時代の甕棺墓
甕棺墓は弥生時代の北部九州を代表する墓制である。遺体の手足を折り曲げて下甕に納め、さらにもう一つの甕で蓋をした合口甕棺が多く見られる。中期も終わり頃になると、一つの甕に石や板で蓋をした単式甕棺が増え、新たに笠型の甕専用の土器も考案された。

隅・西小田遺跡の首長墓から出土した合口甕棺(第13地点第23号)
この甕棺は、隅・西小田遺跡・弥生時代中期後半の首長墓から出土した合口甕棺(13地点第23)で、被葬者は30代男性とされる。合口(あわせぐち)甕棺とは、2個の甕を開口部で合わせ、中に被葬者を入れて、粘土で塞ぎ葬る埋葬法。北部九州で多く行われた。

隅・西小田遺跡の首長墓から出土した23号甕棺内の様子
昭和62年、隅・西小田遺跡第13地点で弥生時代の甕棺群が発見された。そこは標高3548mの丘陵上にあり、24基の甕棺群の中の最頂部で、一際大きな墓壙をもつ中期後半の甕棺(23)が検出された。棺内からは35歳前後と推定される男性の人骨とともに、重圏昭明鏡、鉄戈、鉄剣、ゴホウラ貝製の腕輪41(右腕21個、左腕20)が出土した。この地域を治める首長と思われる人物である。同調査区内の第3地点では、戦死者を含むと思われる弥生時代の墓地の中で中期前半の首長墓が発見されており、王の交代があったことがわかる。その王位交代が世襲的になされたかあるいは武力の行使によるものかは明らかではないが、副葬品から見る限り、新しい首長はより強大な権力を持っていたようだ。

隅・西小田遺跡の甕棺(第3地点第109号)
こちらは隅・西小田遺跡の甕棺(第3地点第109)弥生時代中期前半の首長墓から出土。被葬者は40代の男性、人骨とともにゴホウラ貝製の腕輪8個と細型銅剣が出土している。

隅・西小田遺跡の甕棺(第3地点第109号)
こちらの二つの甕が、第3地点第109号の合口甕棺である。

隅・西小田遺跡第10地点180号甕棺出土の男性人骨
こちらの人骨は、隅・西小田遺跡第10地点180号甕棺出土の男性人骨である。弥生時代中期後半の中国大陸や朝鮮半島から渡来してきた人々の骨で、半島系人骨とされる。

隅・西小田遺跡第7地点53号甕棺出土の女性人骨
こちらの人骨も半島系人骨とされる、隅・西小田遺跡第7地点53号甕棺出土の女性の人骨である。

隅・西小田遺跡と大島遺跡から出土した農耕具
こちらにはさまざまな農耕具が並ぶ。一番左には、隅・西小田遺跡出土の弥生時代中期の石包丁が3点、その右には隅・西小田遺跡出土の弥生時代後期の石鎌が2点、さらに右には隅・西小田遺跡出土の弥生時代後期の鉄鎌(一方の端を折り曲げ、柄に挟んで使用する)が2点、一番右上には大島遺跡出土の弥生時代中期の鉄斧2点、右下には大島遺跡出土の弥生時代中期の青銅製鋤先が1点並ぶ。大島遺跡は築紫野市大字山家にある、弥生時代や奈良時代を中心とした複合遺跡群である。