
須玖岡本遺跡の中心・奴国王墓のすぐ北側一帯には、青銅器やガラス製品を生産していた工房跡が集中して発見されている。当時の先進技術が結集したこの地は、弥生時代のテクノポリス(高度技術集積都市)と呼ぶに相応しい。①須玖五反田遺跡は平成2年(1990)、ガラス工房跡と推定される特殊な竪穴建物跡の内外から、ガラス勾玉鋳型や勾玉の未製品、玉砥石などガラス製品の生産に関連した多数の遺物が出土した。全国初の発見とされる。②須玖坂本B遺跡は銅矛鋳型、銅矛中型、銅滓、坩堝、鞴送風管など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土し、青銅器工房跡とされる。③須玖岡本遺跡坂本地区は銅矛や鏡など青銅器の鋳型、銅矛中型、銅滓、坩堝など青銅器生産に関連したとりわけ多数の遺物が出土し、青銅器工房跡の特徴である周囲に溝を巡らせた掘立柱建物跡が密集し、ガラス勾玉鋳型も出土し、奴国の官営工房、国内最大級の弥生時代のテクノポリスともいえる。④須玖タカウタ遺跡は、竪穴建物跡の内外から、多種の青銅器鋳型が出土した。土製と石製の鋳型があり、それらは奴国の青銅器生産遺跡の中でも時期が古いものである。⑤須玖永田A遺跡は昭和60年(1985)、全国で初めて、鏡・銅矛鋳型、銅矛中型など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土した。周囲に溝が巡る特殊な掘立柱建物跡の青銅器工房跡である。⑥須玖黒田遺跡からは、青銅器の鋳型や銅矛中型など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土した。須玖永田A遺跡と同時期で、遺物の内容も類似しており、青銅器工房跡の可能性が高い。⑦須玖尾花町遺跡からは、銅矛鋳型、銅戈鋳型、銅矛中型、坩堝など青銅器生産に関連した多数の遺物が出土し、青銅器工房跡の可能性が高い。⑧須玖盤石遺跡からは、銅矛鋳型、銅矛中型が出土し、青銅器工房跡の可能性が高い。⑨赤井手遺跡の弥生時代中期の鍛治遺構である33号竪穴建物跡の床面からは、かなり使用された炉が発見され、鉄器の未製品や鉄素材などが多数出土して、赤井手遺跡は鉄器工房跡とされる。また、青銅器鋳型やガラス勾玉鋳型も出土している。

ここには各種青銅器鋳型など関連遺物が並ぶ。左手には中広形銅矛と銅矛の石製の鋳型(外型、そとがた)、右手には様々な銅矛の中型が並ぶ。銅矛は、木や竹の柄を差し込んで使う武器のため、根本の部分(袋部など)が中空の筒状になっていなければならない。中型(なかご)とは、その内部の空洞を作るための土製の芯型である。

青銅器鋳型の出土は北部九州と関西地方に集中する。その中でも須玖岡本遺跡周辺の出土数は突出しており、鋳型(外型)に限っても全国の3割以上を占めている。鋳型(外型)は北部九州の場合、ほとんど石型に限られていたが、関西では石型から土型へとかわる。北部九州の鋳型石材としては、滑石片岩や石英-長石班岩などが使用された。中期には両者とも用いられているが、後期になると後者に限定されていく。右上の青銅器鋳型出土分布図は、北部九州と春日市周辺を示している。分布図の左に見えるのは、大南A遺跡出土の銅戈鋳型である。手前には左から、銅剣鋳型、連鋳式銅鏃鋳型、筒状銅製品の鋳型などが並ぶ。

甕棺墓は北部九州を中心として展開した独特の埋葬法で、大型の甕棺は壺の形態から発達して、大きさを増し甕形へと変化していく。埋葬例としては、甕を2個合わせたものや、上甕に壺や鉢を用いたもの、単独の甕に木蓋を施したものなどがある。小形棺には日常容器や祭祀容器などが用いられたが、大形の甕は埋葬専用に作られた。手前の小さめの甕は、弥生時代前期中頃(紀元前3世紀頃)の甕棺である。左の大形甕棺は、春日市寺田池北遺跡出土の弥生時代中期末(紀元前1世紀終わり頃)の甕棺である。胴部上位に鹿と想定される線刻絵画が残っている。なお寺田池北遺跡23号出土の甕棺内からは、全長30cmほどの鉄鉾が発見された。形態的な特徴から見ると朝鮮半島北部の龍淵洞(ヨンヨンドン)遺跡出土資料と類似することから、楽浪郡付近で製作され、日本へもたらされた可能性が高いとされる。

左の甕棺は、春日市豆塚山遺跡出土の弥生時代中期後半(紀元前1世紀)の甕棺である。

























































