半坪ビオトープの日記

天神多久頭魂神社

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ユッカラン

記紀神話で原初の神は、アメノミナカヌシ、タカミムスビカミムスビの3神であり、対馬固有の神であるタクズダマは、タカミムスビカミムスビ両神の子神とされている。タカミムスビとタクズダマは前日に訪れた南部の豆酘に鎮座していたが、北西部の佐護にも、カミムスビとタクズダマが鎮座している。豆酘は龍良山(たてらさん)、佐護は天道山を御神体として社殿がなく、それぞれ天道法師と霊山を信仰する対馬固有の天道信仰の聖地である。佐護の神御魂(カミムスビ)神社の祭神は女房神と記されるが、日の神の女房となった女神、すなわち天道法師の母神を祀った神社とされる。ここでは佐護川の河口部に鎮座する天神多久頭魂神社を訪ねる。境内入り口に咲いていた白い花は、ユッカラン(Yucca gloriosa)の園芸品種と思われるが、細かいことはわからない。

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天神多久頭魂神社

豆酘と佐護は河口の平野部に位置する集落で、遺跡・由緒ある神社が多く、古代の占いの技術・亀卜(きぼく)をそれぞれ伝承していた。豆酘は対九州の、佐護は対朝鮮半島の港として古くから開けていた。佐護川は対馬で一番大きな川で、長崎県でも二位だといわれる。8つの集落からなる対馬最大の山村である佐護は、対馬有数の穀倉地帯で、弥生時代の遺跡が多く、楽浪郡の青銅器も出土している。天神多久頭魂(アマツカミあるいはアメノカミタクズタマ)神社は、延喜式神名帳では、対馬上県郡の「天神多久頭多麻命神社」とあり、「天神(アマツカミ)」と冠した例は全国の式内社中4座しかない貴重なものとされる。

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磐境と天道山

鳥居の両脇には、モンゴル草原の石積みであるオボのような石積みがある。聖地を結界する磐境(イワサカ)である。対馬の古い神社の大半は神籬磐境式だったといわれるが、ここに原型が残されている。ここに二つの石積みで磐境=結界を作り、神が降臨する依代としての神籬である天道山を御神体として遥拝する所としている。

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奥の鳥居の奥

奥の鳥居の奥は竹垣で囲まれた石段があり、石板のような何かが置かれている。

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石板と鏡

その下には鏡が祀られているらしいが、立ち入れないので詳しい事はわからない。単なる遥拝所かもしれない。

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鳥居と磐境、社殿のない境内

苔むした鳥居と磐境、社殿のない境内の先には御神体である天道山が小さくもどっしりと構えていて、古代の宗教形態を偲ばせる景観にいろいろな想いを巡らす。対馬固有の神、タクズタマのタクズとはなんだろうか。一説では、タクとは「高」「貴」「卓」などを表し、「ツ」は助詞として、高貴な卓越した神ではないかという。記紀神話の原初の神々と対馬固有の神々の関連を考えると、想像や空想が広がるばかりだ。原初の3神のうちアメノミナカヌシは古事記では最初に登場する神で、別天津神にして造化三神の一つだが、日本書紀の正伝には記述がなく、異伝に記述があるだけである。そして記紀ともにその事績は何も記述されていない。延喜式神名帳にはアメノミナカヌシを祀る神社は一つもなく、一般の信仰の対象になったのは、近世において天の中央の神ということから、北極星の神格化である妙見菩薩と集合されるようになってからと考えられている。現在アメノミナカヌシを祀る神社の多くは、妙見社が明治期の神仏分離廃仏毀釈運動の際に、アメノミナカヌシを祭神とする神社になったものである。つまり、アメノミナカヌシという神は、古事記の編者がある意図を持って組み入れたもので、古代の具体的な伝承にはなかった可能性が強いと思われる。ひょっとしたら、タクズタマがその位置にあったのかもしれない、と空想が広がるばかりだ。

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佐護湾の西の棹崎公園

佐護湾の西には棹崎公園があり、戦時中に築かれた砲台跡や対馬野生生物保護センター、日本最北西端の碑、せせらぎ園地、キャンプ場などが整備されている。

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寸断された道路

海岸近くまで行こうと思ったら、残念ながら道路が崩落して先がなくなっていた。今回の台風の大雨で崩落したかどうかわからないが危ないところだった。

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せせらぎ園地

ここがせせらぎ園地だが、雨上がりのためか人影はなくひっそりとしていた。

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対馬野生生物保護センター

近くに対馬野生生物保護センターがあったが、新型コロナの影響で7月末から休館していた。ツシマヤマネコを是非とも間近に見てみたいと対馬まで来たのに、残念至極であった。

 

小茂田濱神社

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小茂田濱神社

対馬下島の中心地厳原から西に向かう県道44号線が、西海岸を北上する県道24号線にぶつかる小茂田の海岸沿いに、小茂田濱神社が鎮座している。元寇文永の役)の際に、元・高麗連合軍が上陸した地にあたる。

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元寇奮戦図」

神社近くに「元寇奮戦図」が掲げられている。文永11年(127410月5日午後対馬の西の海は蒙古の軍船に覆われた。元軍2万、高麗軍1万、船は900艘ともいわれる。対馬の地頭で守護少弐景資の代官でもある宗助国(資国)は、80余騎を率いて岩山の夜道を佐須浦へ向かった。翌朝、上陸した蒙古軍と激しい戦いとなったが、宗助国をはじめ、子の右馬次郎、養子の弥次郎ほか全員が戦死した。蒙古軍は佐須浦に火をかけて焼き払った。小太郎と兵衛次郎の二人が博多へ船を走らせ、事の顛末を知らせた。

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宗助国の騎馬像

宗助国の墓と伝えられる「お首塚」が下原に、「お胴塚」が樫根にある。2024年に元寇750年を迎えるため、68歳で戦死した宗助国の青銅製の騎馬像の除幕式が、訪れた日の数日前に執り行われたばかりだった。騎馬像は「元寇奮戦図」を参考に造られたという。

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二の鳥居と拝殿

正平二年(1347)宗助国の後裔・宗経茂が現在地に遷し、神領を寄進して宗家の祭祀とし、改めて帥大明神社と称した。元禄年間、宗義真はその勲功を欽仰して神門及び石碑を建立した。寛政七年(1795)より毎年宗氏が祭典を執行した。二の鳥居の先に拝殿がある。

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小茂田濱神社の拝殿

元軍は対馬を侵攻した後、壱岐にも侵攻し、多くの男女を捕虜とした。その後、肥前沿岸に襲来し、博多湾に上陸した。戦いは日本軍が劣勢だったが、元軍は大風に見舞われて敗走した。

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拝殿内の元寇絵馬

拝殿内には、「元寇奮戦図」などの元寇絵馬がいくつか奉納されている。

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小茂田濱神社の本殿

小茂田濱神社の主祭神は、宗右馬允助国(宗助国)だが、元寇で戦死した将士の霊も祀っている。「国難事変に際して神威を顕し命を賭して戦い、平時においては国家の平和を護り給う神」とされる。拝殿の後ろに続く本殿は、全体の姿が見え難い。

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元寇記念碑

昭和49年(1974)、元寇700年記念の平和の碑を建立した。左には大正13年(1924)の元寇650周年記念碑が建つ。

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助国忌之碑?

境内には他に助国忌之碑があるはずだが、これであろうと思ったが、確かめることができなかった。

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小茂田浜

佐須浦で全滅した宗助国と家臣団の魂を沈めるため、鎧武者を先頭にした武者行列が小茂田浜まで歩き(海幸式)、神主が海に向かって鏑矢を放つ「鳴弦の儀」が行われている。

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佐須浦と佐須川

佐須浦が元寇古戦場跡というけれども、当時は、この砂州に囲まれて佐須浦は佐須川に沿って約500mほど南に入り込んでいた深い入江だったので、実際の戦場は矢立山古墳や現在の金田小学校の辺りだったと推測されている。

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伝教大師入唐帰国着船之地」の顕彰碑

小茂田からさらに北上すると阿連(あれ)に着く。そこには「伝教大師入唐帰国着船之地」の顕彰碑がある。延暦24年(805)に留学僧最澄が乗っていたとされる船が阿連に着いたという記録があり、これを記念して昭和48年(1973)に建てられたものである。なお、阿連には式内社の雷命神社があり、そこから阿連川を遡った山中に対馬の太陽神「オヒデリサマ」の祠がある。雷命神社の祭神・雷命(イカツオミ)は旧9月29日に出雲に旅立って不在となるため、川上に鎮座するオヒデリを里に迎える。11月1日に雷命が戻り、1週間オヒデリとともに暮らし、11月8日に大祭、9日に住民総出でオヒデリを川上に送る神事(本山送り)が行われる。この時オヒデリは懐妊しているとされ、雷神・水神・男神である雷命と、太陽神・女神であるオヒデリが和合し、里に豊穣がもたらされるという古くからの言い伝えがある。

 

椎根の石屋根、銀山神社

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椎根の石屋根

久根田舎から西海岸を北上して椎根の集落に入ると、ここにも対馬特有の石屋根が見られる。石屋根を葺いている板石は、頁岩と呼ばれる石材で、美津島町浅茅湾の奥にある島山から船や牛で運ばれたものである。この石屋根の習俗が何時頃から始まったか不明だが、現時点で残されているのは、この西海岸の久根浜から久根田舎、上槻、椎根だけであり、椎根が最も多い。

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椎根の石屋根倉庫

椎根の石屋根倉庫は高床式だが人家には使用せず、米麦等の穀物と衣類、什器などが格納され、軒下は農作物や農漁具修繕の作業場として利用されている。母屋から離れた場所に設置されたのは母屋が火災に遭っても倉庫だけは残す配慮からである。

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椎根の石屋根

石の組み方は単純に大きい石の上に小さい石を積み重ねたもので、繋ぎは一切使われていない。倉庫も釘は使用せず、木と木の組み合わせのみで建築されている。高床にして大雨の浸水を防ぎ、虫除け効果もあるという。現在残っているほとんどが大正時代の建造で、県の重要有形文化財に指定されている。

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モンキアゲハ

石屋根を見学していた時、目の前の道路に一匹の蝶が舞い降りた。後翅に黄白色の大きな斑紋があるので、一目でモンキアゲハPapilio helenus)と分かる。黒色の羽が普通、裏では多少薄くなるが、この蝶は裏も黒々として色が鮮やかである。日本に分布する蝶としては、オオゴマダラナガサキアゲハと並ぶ最大級の種である。関東以西に生息する。

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銀山神社の一の鳥居

椎根の佐須川と集落の間に銀山神社が鎮座している。細長い参道には明神鳥居がいくつも並び建っている。石造の一の鳥居の額束には何も書かれていないようだ。

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銀山神社

木造の二の鳥居には銀山神社と書かれている。三の鳥居も木造である。

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銀山神社

石造の四の鳥居の神額にははっきりと銀山神社と彫られている。

 

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銀山神社の拝殿

式内社の銀山神社の論社で、社名は延喜式写本では「カナヤマ」「シロカネ」等があり、現在は「ギンザン」が普通となっている。両部神道の時代には六所大明神とも呼ばれたが、明治になって現社号に戻したという。一般に六所神社とは、令制国の総社の中で、管内の神社を統括して総社となったものを指す場合が多い。

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拝殿内

拝殿内は細長くなっていて、奉納された額などが掲げられている。

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金比羅神社

拝殿の左手には金比羅神社の細長い参道がある。

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銀山神社の本殿

銀山神社の祭神は、諸黒神とされ、地祇神が合祀されている。諸黒神対馬固有の神で、銀山上神社のところでも触れたが、坑道や鉱山に関連すると思われる。「特撰神名牒」によると金山彦命が祭神となっているが、カナヤマヒコ記紀神話の神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし、病み苦しんだ際、その嘔吐物(たぐり)から化生した神であり、鉱山や鍛冶の神とされる。

拝殿奥には流造銅板葺の本殿が続いていて、その左には小さな金比羅神社がある。金比羅神社は、香川県琴平町金刀比羅神社総本宮とする、大物主神を祀る神社である。農地が極端に少ない対馬では、穀物神としての稲荷が祀られることが少なく、代わりに漁業・海上交通の神である恵比須・金比羅が多く祀られている。

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宗助国の太刀塚

境内には「宗助国の太刀塚」がある。宗助国は宗家初代の島主で、元寇の際、激しく交戦し戦死した武将。この後訪れる小茂田濱神社に祀られている。

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立山古墳群

銀山神社から小茂田の集落に向かう途中に、矢立山古墳群がある。丘陵の稜線上に横穴式石室を具えた2基の円墳があり、約20mの間隔で南北に並んでいる。南の1号墳は早くに開口されていたが、金銅装太刀片が発見されている。墳丘の大半を流失している2号墳は、中央に平面T字形を呈する極めて特異な横穴式石室を設けていて、金銅装太刀、銅碗、須恵器の長頸壺などが出土している。1・2号墳は7世紀前半から終末にかけて営まれたとされ、新たに見つかった積石塚の3号墳はその後の築造とされ様相を異にするという。近くには銀山の坑道もあり、銀山との関連も指摘されている。

 

雷神社、銀山上神社

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雷神社の鳥居

豆酘(つつ)の集落の西を流れる乱川横の小道を北上すると、左側の森に小さな鳥居が見える。亀卜神事で知られる雷神社の鳥居である。

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雷神社の拝殿

さらに進むと小さな川向こうに小さな拝殿がある。式内社である雷(イカズチ)神社の祭神は、イカツオミ(雷大臣命)である。日本書紀によれば、仲哀天皇の死に際し、神功皇后は自ら祭主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を、神意を解釈する審神者(さにわ)とした。対馬の伝承では、神功皇后の外征を支えた有能な家臣のイカツオミ(雷大臣)は、神功皇后の凱旋後に対馬県主となって対馬に留まり、まず豆酘に館を構え、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされる。次に阿連(あれ)に移り、加志で生涯を終え、加志の太祝詞神社横に墳墓(中世の宝篋印塔)がある。豆酘には亀卜が残り、加志の太祝詞神社名神大社であり、阿連は「対馬神道」の著者・鈴木棠三から「対馬神道エルサレム」と称されるなど、イカツオミの痕跡が色濃く残されている。名称に「雷」「能理刀(のりと)」がつく神社では亀卜が行われていたケースが多く、対馬全島に分布している。亀の甲羅を用いる亀卜の起源は約3000年前に滅亡した中国最古の王朝・殷とされ、現在でも旧暦の1月3日、雷神社で神事が行われている。神事の奏上の言葉から、俗に「サンゾーロー祭り」とも呼ばれている。

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美女塚

対馬南端の豆酘の集落から北上をはじめて山深い峠に近づいた所に美女塚なる石碑が建っていた。美女塚には花が供えられ、右手には美女塚物語を伝える石碑がある。『昔、豆酘に鶴王という美しい娘が住んでいた。賢く親孝行な彼女はある時、采女として都へ召喚されることになった。年老いた母を残していく悲しみに耐えられず、都へ上る日、この場所で自らの命を断った。「美しく生まれたために、二人が哀しみに会うのなら、これからはこの里に美女が生まれませんように・・・」との言葉を残して世を去ったという。』

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久根田舎の石屋根

西海岸を北上して、対馬で一番高い山・矢立山649m)の西麓に位置する集落・久根田舎に着く。昔、多くの銀を産出した所で、安徳天皇陵墓(参考地)もある。ここにも石屋根の小屋がいくつか残されている。この後訪れる椎根の石屋根ほど立派ではないが、かえって素朴な雰囲気が漂っている。

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銀山上神社

久根田舎の県道から東にそれて細い道を山に向かうと、森の中に銀山上(ぎんざんじょう)神社が鎮座している。日本書紀天武天皇三年(674)に、対馬で銀が産出されたのが日本で銀を産した始まりと記されている。その銀山にゆかりのある神社である。

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銀山上神社

銀山上神社がある久根地区は、銀を朝廷に献上したことから、古代には大調(おおつき)と呼ばれていたという。律令制下での租税制度である租庸調の祖は米、庸は労役、調は絹や布の繊維製品を収めるものだが、地方特産品での代納も認められていた。大調とは、銀が調の中でも価値が高かったため、大いなる調(みつぎ)のことを指す。「延喜式」で対馬の調は銀と定められ、太宰府に毎年、調銀890両を納めるよう命じられていた。

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銀山上神社

対馬銀山のことは昔から外国にも知られていたらしく、寛仁三年(1019)に刀伊の入寇満洲女真族が賊船503000人で対馬壱岐・博多を襲った)の際に、銀山が襲われ損害を受けたと『小右記』に記録されている。その際、対馬で殺害されたのは36人だが、壱岐では百人以上が虐殺されている。

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銀山上神社の参道

続日本後紀』にある大調神に比定され、平安時代前期の承和四年(837)二月、従五位下を授けられた。

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銀山上神社の参道

苔むした鳥居をいくつもくぐり抜けて参道を進む。両側には木々やシダが茂り、昼間でも薄暗く感じる。

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銀山上神社の社殿

 銀山上神社の創建年代は不詳だが、宝物として、弥生時代後期の銅鏡六面、中世の銅鏡七面、弥生時代後期の広形銅矛の一部がある。祭神は諸黒神であり、式内二社の論社である樫根の銀山神社と同じ神。諸黒神対馬固有の神で、坑道の漆黒の闇を意味する、あるいは矢立山の別称・室黒岳に由来するとされるが、鉱山(かなやま)の神として異国から来た神だという伝承もある。室黒神とも呼ばれ、鉱山の開発にあたって、朝鮮半島から渡来した技術者がもたらした神だとも考えられる。近くの樫根や阿連には古代鉱山の坑道跡が残っている。

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銀山上神社の拝殿

相殿に安徳天皇を祀る。伝承では、安徳天皇は壇ノ浦にて源氏の包囲を脱出し、英彦山に潜伏して成人した。その後、島津氏の女との間に重尚、助国の二子をもうけた。二人は対馬に渡って宗氏となり、対馬の領主となった。安徳天皇対馬に迎えられ、久根田舎に皇居を定め、七十四歳で崩御したという。この近くに宮内庁が管理する安徳天皇御陵墓参考地がある。

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銀山上神社の本殿

江戸時代は御所大明神とも呼ばれ、寛永十二年(1635)の棟札には、「御所大明神 対馬島主平朝臣拾遺宗義成」とある。

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都々地神社

本殿右手に摂社の都々地神社があり、祭神として建彌己己命を祀る。建弥己己命(たけみここのみこと)とは、国造本記(先代旧事本紀)によると神武天皇の時代、高魂尊(たかみむすびのみこと)の5世孫である建彌己己命を津島(対馬)縣主としたとある。都々地神社は式内社「都々智神社」の論社の一つ。当地は矢立山の西麓で、この社は矢立山の遥拝所と考えられている。矢立山山頂には祭祀場跡が残る。矢立山は昔、都々智山と呼ばれていたが、後、垂仁天皇の后・狭穂姫を加祭して矢立山と称するようになった。狭穂姫は、古事記日本書紀にも語られているが、古事記によれば、兄の狭穂彦の反乱に巻き込まれ兄に殉じてしまうが、ここ対馬の伝承では、対馬に逃れて佐須川に忍び隠れ住んでいた。しかしある時、狩人が誤って狭穂姫の胸を射抜いてしまい、死んでしまった。その後祟りがあったので、これを祀り矢立山と呼ぶようになったという。

 

高御魂神社

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多久頭魂神社の社殿

あらためて参道突き当たりの多久頭魂神社の社殿を見ると、左側面で拝殿の入口ではないことが確認できる。多久頭魂神社は前に述べたように、古くは龍良山を御神体として社殿はなく、本来の祭神は対馬固有のタクズタマ=多久頭魂であるが、それは紀国造の祖神である多久頭神であるともいわれる。どちらにしても天神・天孫系の神々より古いと推測される。奥の鬱蒼たる原生林である龍良山全体が立ち入り禁止の天道信仰の聖地であり、禁足地であることも、原始的な宗教形態を今に残している貴重な遺産であることを示している。日本古来の自然崇拝ないし神霊崇拝の原初的な様相を感じられる極めて特異な場所である。

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五王神社

多久頭魂神社社殿の右側面の向かいに五王神社があり、その左に大楠が聳えている。五王神社は、國本神社の相殿に祀られていた神社で、元の鎮座地・伽藍原は、護法原とも呼び、牛王原と書くようになって、五王と変化したとされる。

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多久頭魂神社の大楠

多久頭魂神社の大楠は、幹周7.1m、樹高20m対馬最大といわれ、「お堂のクス」とも呼ばれる。おそらく神木であろう。

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神住居(かみずまい)神社

境内最奥の大楠から戻りながら、参道の東側を見て回る。左の森の中に二つ建物が見える。左の社殿が神住居(かみずまい)神社である。神功皇后の行宮として一時的な宮殿だった場所。ここに伝わる豆酘の船浮(ふなうかし)神事は、別名カンカン祭りと呼ばれ、赤船と白船に分かれて子供たちを捕まえる祭り。神功皇后新羅の軍勢を捕虜にした伝承に因むと言われる。

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姫神

神住居神社の参道脇の木の根本に名札が見えるが、正面に見えるのは神住居神社の右手の淀姫神社である。淀姫神社の祭神は神功皇后の妹と言われる淀姫である。三韓征伐に出かけた神功皇后に、妹の淀姫・豊姫も同行していたのではといわれている。

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高御魂神社への参道

元の大きな参道を下っていくと、左手に石段が続く参道が分かれ、なおもまた左右に分かれている。鳥居が並ぶ左側の参道が高御魂神社に向かう。

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高御魂(タカミムスビ)神社

高御魂(タカミムスビ)神社の祭神は、タカミムスビで、『古事記』では高御産巣日神と書かれ、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる。また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神、高木大神の名で登場する。産霊(むすひ)は生産・生成を意味し、『古事記』によれば、天地開闢の時最初に天之御中主神が現れ、その次に神産巣日神とともに高天原に出現し、造化の三神と呼ばれる。中でもタカミムスビ天皇家の祖先神とされるアマテラスに天孫降臨を指示したり、初代天皇とされる神武天皇の東征を助けたりするなど、天皇家・朝廷にとって重要な神である。原初の神々のうちでも重要なタカミムスビが、対馬南部の厳原町豆酘の海沿いに鎮座し、『日本書紀』によれば5世紀、遣任那使の神託により、対馬から大和の磐余に遷座している。磐余は神武天皇の名・カムヤマトイワレビコ(大和の磐余の尊い日子)に表れているように、大和朝廷の起源とされる土地であり、対馬古神道の源流の一つとされる所以である。

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師殿(いくさどの)神社

古事記』では神武天皇の本名を若御毛沼(ワカミケヌ)命とし、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ)を別名とするが、『日本書紀』ではこれを本名とする。九州で生まれたのになぜ大和地名を名前にしたのか。欠史八代と呼ばれ、系譜だけしかない記・紀の綏靖(すいぜい)天皇から開化天皇までと神武天皇の時代の伝承は、後で付加されたとする説が有力である。イワレヒコの名が定まったのも磐余に宮を設けた継体天皇時代以降であろう。地方から大和に入って即位した天皇神武天皇の他に応神天皇継体天皇がある。継体天皇応神天皇の五世の孫で、武烈天皇で絶えた血統を守ろうとする大伴金村に求められて、越前から大和入りし即位した。神武天皇応神天皇の大和入りの物語は、史実としての継体天皇の大和入りをモデルとして形成されたという説が興味深い。

話が広がってしまったが、「『日本書紀』によれば5世紀、遣任那使の神託により、対馬から大和の磐余に遷座している、」との説明については、またの機会に検討を加えたい。

豆酘は亀卜など独特の民俗が伝わる古い集落であり、高御魂神社の近くには古代米・赤米の神田がある。もともとは現在の豆酘中学校の所に位置していたが、学校建設に伴い現在地に遷座したという。しかし、本来の場所に戻ったのではないかという地元の人もいるという。延喜式神名帳に記載される対馬に6つある名神大社の一つである。

高御魂神社の社殿のすぐ右手にある小さな社は、師殿(いくさどの)神社という。祭神として、豆酘郡主であった兵部少輔宗盛世を祀っている。

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現在の観音堂

観音堂は昭和31年(1956)に焼失したので、現在の観音堂はその後再建されたもの。

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毘沙門、普陀山、瑠璃堂

堂内には、毘沙門、普陀山、瑠璃堂の名札が見える。普陀山は、中国仏教の聖地の一つで、観音菩薩が祀られている。

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地蔵堂

観音堂の左隣には地蔵堂が建つ。はっきり見えないが地蔵菩薩が安置されていると思われる。

 

多久頭魂神社

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多久頭魂神社、参道入口

二日目の午後から台風のため風雨が激しくなった。三日目も天気は不安定だったが、厳原から時計回りで対馬下島を一周する予定で出掛けた。県道24号厳原豆酘美津島線は、照葉樹の深い森の中を南へ南へと進む。対馬下島の東側はリアス式海岸なので、湾内ごとに散在する集落には県道から分岐する道を下るので、県道沿いには人家は極めて少ない。スダジイ、イスノキなどの樹木が林立し、下島で2番目に高い龍良山(たてらさん、558m)原始林は、霊山としても島民に崇められている。その龍良山の南西の麓、対馬の南端に位置する豆酘(つつ)の集落のはずれ、鬱蒼たる森の中に、多久頭魂(タクズダマ)神社他の神社が鎮座している。参道入口脇にはソテツが植えられ、鳥居がいくつも並んでいる。

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参道の鳥居

対馬固有とされる天道信仰は、天道法師という超人と霊山・龍良山を中心に、太陽信仰・母子神信仰・修験道古神道などが複雑に絡み合って、平安時代頃に成立したと考えられている。7世紀後半、豆酘内院に高貴な女性が虚船(うつろぶね)に乗って漂着し、太陽に感精して子を生んだ。「太陽の子」は天道法師と呼ばれ、嵐をまとって空を飛び、天皇の病気を治すなどの奇跡を起こす。豆酘の北東に広がる龍良山中の八丁角という石積みは、天道法師とその母の墓所とされ、多久頭魂神社境内の不入坪(イラヌツボ)と合わせて「オソロシドコロ」と呼ばれ、龍良山という聖域の結界を構成している。

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石段の参道を進む

豆酘は対馬の南端に位置し、陸路による交流が少ない反面、航路の拠点として国内外の文化が流入する地域であり、亀卜や天道信仰、赤米神事など独自の文化・歴史が形成されてきた。神功皇后三韓征伐に際して神々を祀ったと伝えられ、出兵の様子を紅白の小船で再現する「カンカン祭り」が伝承されている。

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鐘楼と梵鐘

多久頭魂神社の梵鐘は、旧豆酘御寺の所蔵で初鋳は寛弘5年(1008)阿比留宿禰良家が奉献。仁平3年(1153)に増鋳、さらに康永3年(1344)再増鋳している。国指定重要文化財である。他にも多久頭魂神社が所有する金鼓(日本の鰐口)も国指定重要文化財である。日本に例がない高麗時代の大型金鼓で、総径81cm、面径78cm、制作は高麗国前高宗32年(1245)とされる。

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境内案内図

三つ目の二の鳥居のところに案内板があったが、まだ入口近くだ。多久頭魂神社の境内は原生林の中に広がっていて、高御魂神社他多くの神社が散在している。左に鐘楼、右には高御魂神社への参道が分かれる。高御魂(タカミムスビ)とは、古事記の冒頭で、原初の神々の誕生の最初に現れる、アメノミナカヌシ、タカミムスビカミムスビの三柱の神が現れる時のタカミムスビである。詳しいことは、後ほど高御魂神社のところで述べる。

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長い坂道の参道

長い坂道の参道の奥に神門が見える。対馬北西部の上県町佐護には神御魂神社があって、カミムスビが鎮座しているが、対馬固有の神である多久頭魂(タクズダマ)は、タカミムスビカミムスビ両神の子神とされている。

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神門手前の鳥居

神門の手前から石段があり、鳥居も手前にある。古くは「魂」字を付さずに多久頭神社と称し、延喜式神名帳に収録される対馬国下県郡13座のうちの多久頭神社に比定されている。

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神門

神門の中を覗くと、左手に境内社が見え、中央奥には多久頭魂神社の社殿が認められた。

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國本神社

左手の境内社は國本神社という。祭神として廰神(庁神)を祀る神社。聖武天皇701756)の勅により斎祀された古社で、政所の神という。対馬には他にも上県町瀬田にも國本神社があり翌日には訪れたのだが、そこの祭神は天乃佐手依姫命である。古事記では、国生みで大八島の6番目に生まれた対馬の別名がアメノサデヨリヒメという女神であるから、多久頭魂神社の境内にある國本神社の祭神も、元は天乃佐手依姫命であった可能性が高いと思われる。國本神社の右手の建物は神庫である。

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下宮神社

神庫のさらに左手先の境内社は下宮神社という。海神を祀る神社で、祭神・豊玉姫は別名を淀姫玉妃命と称し、神功皇后三韓征伐の折、干珠・満珠を皇后に奉ったという。

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多久頭魂神社の社殿

ようやく多久頭魂神社の社殿の左側面にたどり着いた。祭神として天照大神天忍穂耳命、日子穂穂出見尊、彦火能邇邇芸尊、鵜茅草葺不合尊の五柱を祀るが、古くは龍良山を御神体として社殿はなく、本来の祭神は対馬固有のタクズタマ=多久頭魂である。『続日本後紀』承和4年(837)2月5日条に多久頭神を無位から従五位下に叙する旨の記述があり、当社の祭神を指すものとされる。平安中期以降、神仏習合により豆酘御寺と称し、タクズタマは天道法師とされたが、明治の神仏分離により多久頭魂神社を復した際に、現在の天神・天孫系の五柱に変更されたようだ。

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社殿の右手に不入坪

社殿の右側に拝殿入口があるが、その正面、いくつも並ぶ灯篭群の右手奥の鬱蒼たる原生林が、いわゆる不入坪(イラヌツボ)である。「オソロシドコロ」と呼ばれる石積みの祭祀場で、禁足地でもある。

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拝殿正面

拝殿正面に回ると、建物の形にちょっと違和感を覚える。龍良山全体が立ち入り禁止の天道信仰の聖地であり、ここが多久頭魂の遥拝所だったため、明治の神仏分離により多久頭魂神社を復した際に、神仏習合時代の旧豆酘寺の観音堂を社殿としたのである。やはり神社の拝殿とは違った印象を受ける。

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拝殿内

拝殿内には本殿入口の格子扉がある。