半坪ビオトープの日記

「吉備の大古墳展」

造山古墳の模型
先ほど現地に行って登ってみた造山古墳の模型も展示されていた。全長350mの巨大な前方後円墳で、墳丘の規模は全国4位。自由に立ち入れる古墳としては全国1位である。後円部3段、前方部3段、北西(向こう側)くびれ部に造り出しがある。前方部にある荒(こう)神社の傍にある石棺の作り方は九州的だが、形状はヤマト王権の石棺と類似である。九州ともヤマト王権とも深い繋がりがあった吉備の立場をよく表している。造成時期は古墳時代中期(5世紀後半)とされる。

造山古墳出土と伝わる円筒埴輪
こちらの円筒埴輪は、造山古墳出土と伝わる古墳時代中期前半(400-450年頃)の出土品。上の写真の左列縦2枚は、後円部の埴輪列の発掘状況。残りの中央と右の4枚は、前方部の葺石の発掘状況。

造山古墳出土の円筒埴輪と蓋形埴輪
左の円筒埴輪も右の蓋形埴輪も、古墳時代中期前半(400-450年頃)造山古墳出土品。蓋(きぬがさ)とは、貴人に差し掛ける日傘のこと。造山古墳の蓋形埴輪は、「立ち飾り」と呼ばれる上部の飾り板を持たないタイプの蓋形埴輪で、このタイプは岡山県内で初の出土例である。

造山第4号古墳出土の短甲形埴輪の草摺と後胴
左の短甲形埴輪の草摺も右の後胴も、古墳時代中期前半(400-450年頃)造山第4号古墳の出土品である。造山第4号古墳は直径約35mの円墳だが、調査の結果、墳頂約55mの帆立貝形前方後円墳もしくは前方後円墳に復元できると考えられている。周溝の底から円筒・朝顔形・短甲形・蓋形・家形と多種類の埴輪片が見つかった。

造山第4号古墳出土の建物形埴輪
こちらの建物形埴輪も古墳時代中期前半(400-450年頃)造山第4号古墳の出土品である。「吉備の大古墳展」の展示品の多くは、岡山県立博物館あるいは岡山市埋蔵文化財センター所蔵である。

千足古墳出土と伝えられる巴形銅器とだ龍鏡
こちらの巴形銅器もだ龍鏡も、千足古墳出土と伝えられる古墳時代中期前半(400-450年頃)の出土品である。巴形銅器は飾り用の金具で、盾や矢を入れる靭に取り付けていたと考えられている。鼉龍鏡とは、中国製の環状乳神獣鏡をモデルに日本で製作された鏡である。名称は鏡背に描かれた文様をだ龍(ワニに似た中国の空想上の獣)と解したことに因むが、現在では漢鏡の画文帯神獣鏡を模倣した倭製鏡とされる。

千足古墳出土と伝えられる管玉、ガラス小玉、勾玉、棗玉
左から管玉、ガラス小玉、勾玉、棗玉。どれも千足古墳出土と伝えられる古墳時代中期前半(400-450年頃)の出土品である。

金蔵山古墳出土の剣形石製品、刀子形石製品、変形二神二獣鏡、管玉
 
左手前の剣形石製品、刀子形石製品、右手前の変形二神二獣鏡も、向こうに見える管玉も、古墳時代前期末(350-380年頃)金蔵山古墳の出土品である。

金蔵山古墳出土の柄頭形石製品
こちらの柄頭形石製品も、古墳時代前期末(350-380年頃)金蔵山古墳の出土品である。柄頭に取り付けた環状の部品を碧玉で模したと考えられている。

千足古墳の石室模型
こちらは千足古墳の実寸大の石室模型。玄室へ墳丘の横からトンネル状の羨道を通って入る、横穴式石室である。日本では4世紀後半に九州で最初に取り入れられた構造で、5世紀前半とされる千足古墳の石室は、九州以外では最古級の例である。玄室の壁は赤く塗られ、肥後地方特有の石室の作り方がみられる。壁の玄武岩香川県安山岩で、仕切り石や屍床には天草砂岩が使われるなど、石室築造技術者、あるいは被葬者と九州との深い関係が窺われる。

出土地不明の馬形帯鉤
こちらの馬形帯鉤は、古墳時代中期(400-500年頃)出土地不明の出土品である。帯鉤(たいこう)とは、帯の留め金具で、ベルトのバックルにあたる。これとそっくりの馬形帯鉤が、伝榊山古墳(造山第一号古墳)出土品として宮内庁に保管されている。

塚段古墳出土の装飾付須恵器、壺、台付鉢
左上の装飾付須恵器、右上の壺(須恵器)、手前の台付鉢(須恵器)のどれも、古墳時代後期後半(500-600年頃)塚段古墳の出土品である。塚段古墳は残存状態が悪く、石室石材の大半を抜かれた横穴式石室2基が見つかったが、須恵器など副葬品は多く出土した。

塚段古墳出土の玉類、首飾り、耳環
左の玉類、右の耳環(じかん)もともに、古墳時代後期後半(500-600年頃)塚段古墳の出土品である。中央の首飾りにある緑色の丸いガラス玉は、金箔や銀箔を挟んだ重層ガラス玉で、玉はくびれを入れただけで繋がる、「連珠法」と呼ばれる方法で作られている。起源は紀元前3世紀〜紀元前後の東部地中海沿岸と黒海沿岸にあり、ローマ地域でも1〜3世紀頃まで盛んに作られた。朝鮮半島での出土例も多く、日本にも朝鮮半島経由でもたらされたと考えられている。

宮山遺跡出土の特殊器台(レプリカ)

こちらの特殊器台はレプリカだが、弥生時代後期(1-250年頃)宮山遺跡出土品。国の重要文化財に指定されている。特殊器台の変遷を辿ると、基本形は筒形で、上下端が外側に広がる。縦分割の文様と横に走る文様の二種があり、文様帯には透かし穴が開けられている。特殊器台前期は立坂型で、立坂遺跡、楯築遺跡などがある。後期は向木見型で、向木見遺跡他30数遺跡から出土する。終末型は宮山型で、吉備では宮山遺跡からのみ、大和で4遺跡から出土。口縁部が特別で文様も非常に複雑である。

以上のように吉備古墳群は、古墳時代を通して数が多く、超巨大古墳の造山古墳や巨大古墳の金蔵山古墳など、ヤマト王権と拮抗する勢力を示す遺跡が多いことが最大の特徴である。中でも古墳時代前期(3世紀中頃)とされる浦間茶臼山古墳は、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ともされている奈良県桜井市箸墓古墳の二分の一の相似形であり、同様の古墳の中では畿内以外で最大の古墳であるなど、魏志倭人伝にて邪馬台国に次ぐ大国・投馬国(つまこく)を吉備国に比定する説を提唱する人もいる。

ここで、『新訂倭の五王の秘密』で崇神天皇が初代前期百済倭国王であったとする説を提唱する、石渡信一郎氏による吉備国の位置付けを見てみよう。

320年代後半頃に伯済国(パクチェ、百済)の辰王は、次男(崇神=旨=首露=脱解の父)に弁韓辰韓倭国を征服してその王になることを命じた。崇神(旨=首露=脱解)の父は、伯済国の水軍を率い、弁韓辰韓を征服した後、北部九州に渡来し、抵抗した倭国邪馬台国を征服し、倭国王となった。彼は中国に対して邪馬台国を征服したことを隠すために、旧邪馬台国王に特別自治区を支配させ、国王と後継者たちを、死後、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓に埋葬させた。新倭国王崇神の父)は、都を岡水門(おかのみなと、遠賀川河口付近)に置き、後に安芸国の多理宮(たけりのみや)に移し、330年代には吉備国の高島宮に遷宮し、近畿・中部地方まで征服した。この時期に彼の勢力が第2次高地性環濠集落を造ったが、その分布は中部九州から中部地方にまで広がっている。伯済国の辰王は、330年代初め頃、崇神(旨=首露・脱解)を弁韓辰韓の王とし、崇神の父には倭国の完全征服に専念させた。『三国遺事』巻1にあるように、337年(丁酉年)に、崇神の父が高島宮で死去したので、弁韓辰韓の王になっていた崇神(旨=首露・脱解)が倭国に渡来し、倭国王にもなった。342年(壬寅年)に、伯済国の辰王余句が国名を百済と改めて初代百済王となり、崇神(旨=首露・脱解)が加羅新羅倭国を支配する初代前期百済倭国王になったと推定する。崇神(旨=首露・脱解)の王都は纏向で、陵墓は箸墓古墳とする。以上のように、石渡信一郎氏は、吉備国高島宮に崇神(旨=首露・脱解)の父が住んだとする。

一方、『日本書紀』や『古事記』では、神武天皇が日向から大和への東征途上で吉備国に数年間営んだとされる行宮(かりみや)が高島宮、高嶋宮とされる。

さらに付け加えるならば、先ほどにも取り上げた特殊器台・特殊壺は、弥生時代後期後葉の盛り土した首長墓からしか出土せず、備中南部に現れ、吉備中に広がっていった。特に最終期の宮山型特殊器台は吉備で1遺跡、大和で4遺跡から出土しているが、どう考えても吉備から大和へ伝わったと考えるしかない。出現期古墳の一つである箸墓古墳は3世紀の築造と考えられているが、そこからも宮山式特殊器台が出土している。

つまり、古墳時代の始期は、終末型特殊器台・特殊壺が現れた頃と考えられ、大和で比較的大型で前方部が撥形で最古式の前方後円墳に吉備の技術が伝えられたと考えられる。

すると、崇神天皇の父が吉備に住んでそこで死去し、崇神天皇が大和で倭王となり箸墓古墳に葬られたとする、石渡信一郎氏の説に齟齬はないと考えられる。つまり、神武天皇が初代天皇神話だとすると、崇神天皇が初代天皇だった可能性が高くなる。

以上、「吉備の大古墳展」を見て、吉備国から初期大和政権への推移に関する考えが深まり、非常に有意義だったと思う。

 
 
 

「吉備の大古墳展」

 

「吉備の大古墳展」、吉備の古墳
岡山シティミュージアムにて「吉備の大古墳展」が開催されていたので見学した。岡山県全域と広島県の東半は、かつて吉備と呼ばれていた。今から約18001400年前の、昔の備前国備中国備後国美作国の範囲が該当する。集落遺跡や古墳が集中する岡山平野には全長100mを超す大型古墳が集まり、吉備の中心地だったと考えられている。先ほど訪れた造山古墳や金蔵山古墳などで発掘調査が行われ、その様相が明らかになってきた。当展では大和王権に匹敵する古墳を築き、大王へ反乱した伝承を有する吉備の実力を考古資料から辿る。

吉備の弥生時代古墳時代
吉備の古墳時代は、金蔵山古墳や造山古墳など最盛期の400年頃を中心に前期から後期まで400年ほど続くが、その前に吉備にも弥生時代があって、中期の南方遺跡や後期の経塚墳丘墓や楯築墳丘墓などがあり発掘品も多い。

南方(釜田)遺跡出土品
岡山市北区の南方(釜田)遺跡は、県下有数の複合遺跡として知られ、弥生時代前期から中期にかけて岡山県を代表する大規模集落遺跡としても有名である。左の朝鮮半島系土器は縄文晩期から弥生時代前期の北部九州に朝鮮半島から持ち込まれた無文土器とみられ、さらに岡山まで運ばれたようだ。右の須玖式土器は、北部九州特有の土器で、交易によって岡山に運ばれたようだ。どちらも南方(釜田)遺跡出土品。同遺跡からは青銅器の細形銅剣も出土している。

南方(釜田)遺跡出土品
こちらの2点も南方(釜田)遺跡出土品である。左のゴウホラ貝は、奄美以南のサンゴ礁に生息する巻貝で、南九州との交流が想定される。右の中国系銅鏃は、中国戦国時代(紀元前500-221年)のものと考えられ、中国から南九州を経て岡山まで運ばれたとされる。2点とも弥生時代中期(紀元前400-1年頃)のもの。弥生時代中期から後期にかけて、吉備に南方や朝鮮半島、中国由来の交易品が数多く出土することから、大きな力を持った首長がすでに大きな集落を作っていたことがわかる。

弥生土偶、鯨面(入れ墨)土偶、鳥装絵画土器
右の小さな弥生土偶は、弥生時代中期(紀元前400-1年頃)南方遺跡出土品。中央の鯨面(入れ墨)土偶は、弥生時代後期(1-250年頃)津寺(加茂小)遺跡出土品。左の鳥装絵画土器は、弥生時代中期後葉(紀元前400-1年頃)新庄尾上遺跡出土品。

銅鐸形土製品、弓弭(ゆはず)形骨角器、刻骨
左の銅鐸形土製品は、弥生時代中期(紀元前400-1年頃)上伊福九ノ坪遺跡出土品。右の弓弭(ゆはず)形骨角器も同時代、同遺跡出土品。中央の刻骨は、弥生時代後期後半(200-250年頃)東山遺跡出土品。刻骨(こっこつ)とは、刻みの部分を棒状のもので擦って音を出した祭祀的な楽器と考えられている。

特殊器台、特殊壺(長坂古墳群出土品)
今からおよそ1,800年前の弥生時代後期、邪馬台国の女王卑弥呼の生まれる前、首長など特別な人のために大きなお墓「弥生墳丘墓」が築かれるようになる。倉敷市の楯築墳丘墓はその代表格である。立派な埋葬施設が作られ、墳丘上にはお供え用の特殊器台・特殊壺が置かれた。やがて畿内では前方後円墳が誕生し、古墳時代が始まる。初期の古墳に並べられた埴輪は、吉備の弥生墳丘墓に置かれた特殊器台や特殊壺に類似しており、そのルーツを吉備にみることができる。特殊器台・特殊壺ともに大型化して刻線文で装飾され、赤色に塗られていた。特殊器台は円筒埴輪の起源と考えられ、特殊壺を載せた特殊器台は朝顔形埴輪の原型と考えられている。右の特殊器台、左の特殊壺ともに、弥生時代後期後半(200-250年頃)長坂古墳群出土品。

宮山型特殊器台
こちらの総社市宮山遺跡出土の特殊器台は、特殊器台後期(1-250)の特殊器台で、吉備では宮山遺跡からのみ出土し、宮山型特殊器台として国宝に指定されている(これはレプリカ)。口縁が分厚く、先が内に傾き、特別な口縁部をしている。文様も特殊で複雑、新しい文様である。宮山型特殊器台は吉備で1遺跡、奈良(大和)で箸墓古墳など4遺跡から出土している。弥生墳丘墓から古墳時代への移行過程を示すものなので、吉備から奈良へ伝わったのは明らかであり、箸墓古墳の被葬者が吉備出身の大王だった可能性が考えられる。

三角縁神獣鏡
こちらの三角縁神獣鏡は、出土地不明だが、弥生時代後期(1-250年頃)の出土品である。

囲形埴輪
こちらの囲形埴輪も、古墳時代前期末(350-380年頃)金蔵山古墳出土品。出入り口もあり、壁の上部には三角形の突起がついている。

建物形埴輪
こちらの建物形埴輪も、古墳時代前期末(350-380年頃)金蔵山古墳出土品。建物形埴輪は囲形埴輪の中に配置されていたと考えられ、床面に水槽や樋が彫られているものもある。

円筒埴輪、朝顔形埴輪
こちらの円筒埴輪や朝顔形埴輪も、古墳時代前期末(350-380年頃)の金蔵山古墳出土品である。
 
 

岡山後楽園

岡山後楽園
倉敷と吉備の古墳を見た後、岡山市の後楽園を訪ねる。岡山後楽園は、岡山藩主・池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみた。その後も藩主の好みで手が加えられたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきた。

岡山後楽園
名称は岡山城の後ろに作られた園と言う意味で後園と呼ばれていたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと考えられることから、明治4年(1871)後楽園と改められた。江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることができる、江戸時代を代表する地方では稀な大名庭園であり、「特別名勝」に指定されている。

築山、唯心山
庭園の真ん中に位置する一番大きな池・沢の池の南に唯心山がある。池田綱政の子・継政が造らせた約6mの築山で、園内が見晴らせる。南に岡山城がある。

沢の池、砂利島

唯心山の北に広がる沢の池の向こうには小さな砂利島が見え、左手には寒翠細響軒が建ち、右手には五十三次腰掛茶屋、さらに右手に慈眼堂が垣間見える。

御野島、中の島
唯心山から池に沿って北に進むと、松の木の先に島がある。左手にあるのは御野島、右手にあるのは橋が掛かり島茶屋のある中の島である。それぞれ趣向が凝らされている。

慈眼堂、烏帽子岩
沢の池の北側に建つ慈眼堂は、元禄10年(1697)池田綱政が藩内の平安と池田家の安泰を願って観音像2体を祀り建立した観音堂である。今は空堂となっているが、江戸時代には歴代藩主が篤く信仰していた。脇には稲荷宮や由加神社もある。門の右手に見える巨岩は、烏帽子岩という陰陽石で、高さ4.1m、周囲17mあり、30数個に割って運びここで元通りに組み立てたという。石は瀬戸内の犬島産の花崗岩で、園内には大立石など随所に使われている自然石である。

唯心山の右手奥に岡山城
慈眼堂の先の砂利島の近くに来ると、砂利島の向こう、左手には唯心山、右手奥には岡山城が垣間見える。

岡山城

今の岡山城の付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があった。その石山にあった城を手に入れた宇喜多直家は岡山の地を戦国の表舞台に立たせた。その子の秀家は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(1597天守完成)。その後城主となった小早川秀秋池田氏により城と城下町は拡張され今に至る。岡山城天守の外壁は、黒塗りの下見板で覆われていて、烏城の別名がある。築城時には城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、金烏城とも呼ばれる。天守は4重6階の複合式望楼型で、戦災で焼失したが、昭和41年(1966)に再建された。

延養亭
沢の池の周りを大きく回り終えて正門近くの建物群を眺める。この茅葺きの建物は延養亭という。貞享3年(1686岡山藩主池田綱政が、家臣の津田永忠に命じて、後楽園の築庭に着手し、要の建物として最初に建てられたのがこの延養亭だった。完成後は藩主の静養や賓客の接待、藩校の儒学者の講義場として使われた。後楽園の中でここからの眺望が最も素晴らしく、園内の景勝のほとんどがここに集まるよう設計されている。この建物も戦災で焼失したが、昭和32年の復元工事では正徳2年(1712)の絵図に基づき建築当時の姿に復元された。左手に見える建物は栄唱の間という。その右奥にある能舞台の正面にあり、能を鑑賞する際の見所(けんじょ)となっている。

花葉の池
栄唱の間の南側正面に花葉の池がある。南西岸には元禄時代初期に巨岩を九十数個に割って運び、元の形に組み立てた「大立石」がある。12月も半ば近くなのに赤い紅葉が輝いて美しい。

八幡大塚2号墳出土の石棺、朱千駄古墳出土の石棺

岡山後楽園の正門の向かいに県立博物館があり、その入り口脇に石棺が二つ安置されている。赤い石棺は八幡大塚2号墳出土の古墳時代後期の石棺である。八幡大塚2号墳は児島半島北東部の児島湾に向かった台地上に立地し、墳丘径は約35mで、児島半島東部最大の円墳である。横穴式石室の奥壁近くに安置されていた長持形石棺の伝統を引いた組合せ式家形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部は赤色に塗られ、風化した人骨とともに金製の付耳飾り、銀製の鍍金した空玉、太刀などが納められていた。左奥の灰色っぽい石棺は、朱千駄古墳出土の古墳時代前期の石棺である。朱千駄古墳は赤磐市穂崎、両宮山古墳の南西の平野部の西端に位置する全長約65mの前方後円墳である。後円部中央に埋められていたこの石棺は、6枚の石で組み立てられた長持形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部から多量の赤色顔料と勾玉、管玉など多数の小玉や、鉄槍、蛇行状鉄器とともに銅鏡2面が発見されたという。

 

造山古墳

ビジターセンターより造山古墳を見る
倉敷から岡山へ戻る途中、北回りで吉備の南西にある造山古墳を訪れた。吉備は7年前にも同じく大原美術館の後に、吉備津神社吉備津彦神社、総社宮などを巡ったが、造山古墳は見逃した。造山古墳の駐車場には造山古墳ビジターセンターがあり、造山古墳と周辺の中小規模の6基の古墳を合わせた造山古墳群や、日本遺産に認定された「桃太郎伝説」を紹介している。立ち入りできる古墳としては日本最大であり、世界最大の登れる墓といっても過言ではない。駐車場から眺めても前方後円墳の大きさがよくわかる。左が前方部、右が後円部である。

造山古墳
吉備には古墳時代前期から大型古墳が築かれ、古墳時代中期には巨大古墳も築かれたが、造山古墳は全長約350mと全国4位の超巨大古墳である。エジプトのクフ王のピラミッド本体より長く、始皇帝陵の墳丘と同じくらいである。手前には田んぼと民家が並んでいる。

右手が後円墳
民家の間を抜けると、黄色いセイタカアワダチソウの群落の向こうになだらかな丘が横たわっている。右手が後円墳で左手の前方墳との境目あたりが、崩落地のように土が削れて抜き出しになっている。

古墳の周りには石垣
よく見ると古墳の周りには新しく石垣が組まれていて、古墳の崩落を防いでいるのがわかる。

後円部の手前のくびれ部
崩落地の左手に登り口があり、上がると後円部の手前のくびれ部が平らに整備されていた。この平坦部は安土桃山時代羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために平らにしたことによるという。その時、後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭を2カ所、縦堀を3カ所設けている。

平坦部から後円部
後円部からは讃岐の安山岩でできた板石が発見され、前方部の上には阿蘇山の溶岩でできた石棺や、陪塚の千足古墳には天草千穂の砂岩で作られた石障がある。熊本県香川県からはるばる運ばれてきたもので、造山古墳に葬られた王は、吉備だけでなく、九州、四国まで影響を及ぼすことができた大王だったことがわかる。

三段築成の後円部
墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設け、墳丘表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪が巡らされていた。ほかに盾・靭・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪も発見されている。

整備工事中の後円部
令和5年から後円部の崩れた部分を修理する整備工事に着手している。最近の発掘調査では、後円部の中心には大王の埋葬施設が保存されていることがわかってきている。

後円部の上から前方部を眺める
後円部の上から前方部を眺めると後円部の方が若干高いように見える。

後円部の彼方には吉備の平野
振り返って後円部の彼方を眺めると、吉備の平野が広がっているのがわかる。大王が大きな墓を作れたのは広い平野からの収穫も必要だったに違いない。

前方部には石の鳥居
今度はくびれ部を通り越して南西方向にある造山古墳の前方部に向かうと、石の鳥居が建っている。
 

前方部に建つ荒(こう)神社
つまり、前方部の墳丘は破壊されて、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。ちなみに墳丘全体の長さは約350mだが、前方部の幅は約215m、高さは約25m、後円部の復元直径は約190m、高さは約29m。造山古墳と荒神社の主軸方向は一致していて、荒神社の拝礼方向は北西にある雲南市や奥出雲になっている。荒神社の前面方向の南東には直島近くの鬼ヶ島伝説のある女木島・男木島がある。
 

荒神社の鐘撞堂の向こうに石棺
荒神社の鐘撞堂の向こうにある手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜式の長持型石棺の身部分であり、随分風に晒されている。
 

荒神社の右横後ろに石棺の蓋
荒神社の右横側後ろの杉の木の根元に、石棺の蓋の破片が放置されている。

石棺の蓋
石棺の蓋の表面に直弧文の線刻があり、内側には赤色顔料が明確に残る。大正時代に国指定史跡に指定されている。
 

倉敷、大原美術館

岡山、西川緑道公園で「西川イルミ2023」というイベント
アートの島・直島を1日かけて見て回った後、フェリーで岡山県玉野市にある宇野港まで行き、電車に乗り換え岡山駅に着いた。夕食のため街中を歩くと、西川緑道公園で「西川イルミ2023」というイベントが行われていた。

「西川イルミ2023」の「スターライトトンネル」
街中のオアシス「西川緑道公園」が、約25万球のイルミネーションの光に包まれる。この年のテーマは「光のウィンターフェスティバル」。全長約300mのシャンパンカラーに輝く光のトンネルや、木々を照らし出すライトアップ、水面にきらめく光など、幻想的な空間を創出している。この辺りがメインの「スターライトトンネル」。

大原美術館前の倉敷川

三日目は大原美術館を見に倉敷市に向かった。大原美術館前の倉敷川に沿って、倉敷美観地区が広がる。白壁の蔵屋敷、なまこ壁、柳並木など趣ある景観が楽しめる。

「くらしき川舟流し」
美しい白壁の街並みを倉敷川から観光できるのが「くらしき川舟流し」。はっぴ姿に菅笠を被った船頭さんが、白壁のいわれなど観光案内をしてくれる。

旧大原家住宅
ちょうど大原美術館の向かい辺りに、国指定重要文化財の旧大原家住宅がある。大原美術館、倉敷絹織(現、クラレ)の創設者・大原孫三郎、大原家代々が暮らした家。

倉敷川の白鳥
天領」と呼ばれる江戸幕府の直轄地であり、物資の集積地として栄えた白壁の町、倉敷。その倉敷川には白鳥がよく似合う。

茶店エル・グレコ
大原美術館の隣にある喫茶店エル・グレコ。創業1959年。大正末期の洋風建築をリノベーションして喫茶店として営業している。

大原美術館
大原美術館は、日本初の私立西洋美術館として知られる。倉敷の実業家・大原孫三郎が、自身がパトロンとして援助していた洋画家・児島虎次郎に託して収集した西洋美術、古代エジプト美術・中近東美術、中国美術などの作品を展示するため1930年に開館した。展示館は、薬師寺主計の設計による、イオニア式柱を有する古典様式の本館のほかに、1961年に藤島武二青木繁岸田劉生など近代日本の洋画家作品や、現代美術の作品を展示する分館、同年に河井寛次郎バーナード・リーチ、宮本健吉などの作品を展示する陶器館が開館。その後も工芸館、東洋館などが開館した。本館の玄関右側に立つ彫刻は、ロダンの「カレーの市民ジャン・ダール」(1890)。

大原美術館
本館の主な収蔵品は、エル・グレコ「受胎告知」(1599-1603頃)、ドガ「赤い衣装をつけた三人の踊り子」(1896)、モネ「睡蓮」(1906頃)、ルノワール「泉による女」(1914)、ゴーギャン「かぐしき大地」(1892)、セガンチーニ「アルプスの真昼」(1892)、モディリアーニ「ジャンヌ・エビュテリヌの肖像」1919)など、教科書でよく見たような有名な作品が多い。だが、残念ながら館内撮影禁止だった。玄関の巨大な柱は、一見大理石に見えるが実はコンクリート製で、石の粉をモルタルに混ぜて、左官技術により施されている。

エルグレコの受胎告知

撮影禁止だったのでパンフから一枚だけ取り込んでみた。これがエル・グレコの「受胎告知」である。

大原美術館の中庭
工芸・東洋館は、江戸時代の米蔵だった建物を染色家の芹沢銈介のデザインで改装したもの。倉敷ならではの白壁の蔵が中庭を囲む一角に、赤い壁の蔵が建つのがなんともおしゃれである。
 

「杉本博司ギャラリー 時の回廊」、家プロジェクト

杉本博司ギャラリー 時の回廊」、杉本博司の「苔の観念」
杉本博司ギャラリー時の回廊」は、ベネッセハウスパークにおける杉本博司作品の展示空間を周辺のラウンジやボードルーム、屋外にまで拡げ、杉本の多様な作品群を継続的かつ本格的に鑑賞できる世界的にも例を見ないギャラリーである。ベネッセアートサイト直島の黎明期より様々な形でアート計画に参加してきた杉本の当地との関わりを背景に、既存の「松林図」や「観念の形003オンデュロイド:平均曲率が0でない定数となる回転面」などに、「ジオラマ」や「Opticks」といった主要な写真シリーズなどが新たに加わった。ちょっとした中庭には苔がびっしりと生えている。その中に大きな水滴が数珠つなぎのように立っている。この作品は、杉本博司の「苔の観念」。まさに苔の思いが凝縮されているようだ。

杉本博司の「ハイエナ、ジャッカル、コンドル」
地下1階の展示室では、既存の「カリブ海、ジャマイカ」(1980)や「カボット・ストリート・シネマ、マサチューセッツ」(1976)に加え、杉本がアメリカ自然史博物館に展示されている古生物などを再現したジオラマを撮影した「ジオラマ」シリーズより「ハイエナ、ジャッカル、コンドル」(1976)が新たに展示された。これにより「劇場」「海景」を含めた杉本の初期の代表3シリーズが同じ空間に集うことになったという。

ガラスの茶室「聞鳥庵」
屋外では、ヴェニスヴェルサイユ、京都で展示され人々を魅了してきたガラスの茶室「聞鳥庵」(2014)が設置されている。掛け軸や花の代わりに周囲の環境そのものを取り込むことにより外に開かれながら、内省的な空間を実現している。また、単なる彫刻作品だけでなく、実際に茶室として使えるということも、この作品の重要なポイントである。水と自然を生かした安藤忠雄の建築に呼応するかのように佇む。

庭に太い古木
時の回廊」は、杉本の創作活動の原点の一つである直島と、建築や作庭を中心としたプロジェクトの集大成である小田原の「江之浦測候所」を繋ぐものとして作られたという。杉本が探究し続ける「時間」や「光」、そして「自然」を体感できる場所がまた一つ生まれたのである。「聞鳥庵」の少し海側の庭に太く大きな古木がまだ生き生きと枝を広げていて、自然の力を十分に感じさせる。

ニキ・ド・サンファールの「腰掛」

「時の回廊」の南側(海側)、ベネッセハウスパークの芝生エリアに、ニキ・ド・サンファールの屋外作品群が展開する。テラスレストラン前には、「腰掛」(1989)という作品があり、隣に座って記念撮影する人が多い。

ニキ・ド・サンファールの「らくだ」
左手前の作品は、ニキ・ド・サンファールの「らくだ」(1991)であり、右奥の作品はカレル・アペルの「かえると猫」(1990)である。ニキ・ド・サンファールの作品は他にも「猫」(1991)、「象」(1991)があり、「らくだ」同様、鉢植えとなっている。

カレル・アペルの「かえると猫」
カレル・アペルの「かえると猫」も近づいてよく見ると、カエルが猫を持ち上げている姿が、なんともにぎやかで面白い。何枚ものカラフルな分厚い板を重ね合わせて不思議な造形作品になっている。

ANDOU MUSEUM

ベネッセハウス周辺をあらかた見て回った後に、直島の東側にある本村エリアに向かう。この本村地区には、古い民家や歴史ある神社をアーティストが改修し、空間そのものを作品化する、家プロジェクトという企画が実施されている。このANDOU MUSEUMは、安藤忠雄の設計による打ち放しコンクリートの空間が、本村地区に残る木造民家の中に新しい命を吹き込んでいる。安藤の活動や直島の歴史を伝える写真、スケッチ、模型だけではなく、新たに生まれ変わった建物と空間そのものを展示する美術館である。古民家の内部に入れ子状に組み込まれたコンクリートボックスは、母屋の木造屋根部分に設けられたトップライトからの光が館内を照らし、過去と現在、木とコンクリート、光と闇といった対立する要素がぶつかり合いつつ重奏する、奥行きに富んだ空間を演出している。しかし、残念ながら内部は撮影禁止だった。

極楽寺
ANDOU MUSEUMの真向かいには、高野山真言宗極楽寺がある。本尊は阿弥陀如来山号八幡山。伝承によれば、貞観年間(859-876)に聖宝(理源大師)がこの地に草庵を結んだのが起源とされる。後に崇徳院(讃岐院)の直島への来島の際、寺号を改めた。また、至徳年間(1384-86)に来島した増吽僧正が海中より引き上げた阿弥陀如来像を安置され、それが現在の本尊であるという。境内は広く、八幡神社護王神社がある。ANDOU MUSEUMのすぐ南には、家プロジェクトの「南寺」がある。

草間彌生の「赤かぼちゃ」
宮浦港には、草間彌生の「赤かぼちゃ」が屋外展示されている。『太陽の「赤い光」を宇宙の果てまで探してきて、それは直島の海の中で赤かぼちゃに変身してしまった』と草間自身が語ったという作品。水玉のいくつかはくり抜かれていて、内部に入ることができる。宮浦港には、他にも約250枚のステンレス網で構成された、藤本壮介の直島パヴィリオンが屋外展示されている。
 

 

ベネッセハウスミュージアム

ベネッセハウスミュージアム
直島のベネッセハウスミュージアムは、「自然・建築・アートの共生」をコンセプトに、美術館とホテルが一体となった施設として1992年に開館した。瀬戸内海を望む高台に建ち、大きな開口部から島の自然を内部へと導き入れる構造の建物は、安藤忠雄の設計による。絵画、彫刻、写真、インスタレーションなどの収蔵作品に加え、アーティストたちがその場所のために制作したサイトスペシフィック・ワークが恒久設置されている。

セザールの「モナコを讃えてMC12」
作品は展示スペースにとどまらず、館内の至る所に設置され、施設を取り巻く海岸線や林の中にも点在している。この作品は一階に展示されている、セザールの「モナコを讃えてMC12」(1994)。ポットが押しつぶされている。モナコはポットの生産で有名なことから作品のタイトルになったそうだ。

リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」と「瀬戸内海の流木の円」
後ろの壁に掛かる二つの輪は、リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」(1997)。ロングの故郷のイギリスの川の泥が塗ってある。手前にあるのは、リチャード・ロング「瀬戸内海の流木の円」。19975月、ロングが作品制作のために直島に数日間滞在し、集めた流木で作った作品である。

リチャード・ロング「十五夜の石の円」
窓の外のバルコニーに展示されているのも、リチャード・ロング「十五夜の石の円」。タイトルは制作した日が満月だったからだそうだ。

ジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」
こちらの作品は、ジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」(1986)。3人は常に喋り続けている。

柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」
こちらの作品は、柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」。たくさんの国旗が飾られているが、どれもボロボロに見える。

「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」の一部
近づいて見ると、国旗が砂でできていて、その中に蟻を入れて巣を作らせているからだ。国旗同士はチューブで結ばれていて、そこを通ってアリが自由に移動できる。世界各国を回ったこの作品は、現地のアリを大量に捕まえて作品の中に入れ、他の国に移動する前に全てのアリを逃すことを繰り返したという。

ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」
こちらの作品は、ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」(1985)。大きな三連のキャンバスに、海と砂浜、打ち寄せられた黄色と黒のボートが描かれ、その2艘のボートは画面の手前にそのまま立体としても置かれている。そして同様のボートが、振り返った先の窓から見える実際の砂浜にも置かれているそうだが、そこまで気が付かなかった。

ヤニス・クネリスの「無題」
こちらの作品は、ヤニス・クネリスの「無題」(1983)。直島のために作られた初めての作品で、設置場所も選んでもらったという。クネリスが直島とその周辺で集めた木材や茶碗、布などを鉛でぐるっと巻いている。かなりの重量で当初より重さで沈んでいるという。