半坪ビオトープの日記

ラム肉・ナス・じゃがいも・トマトのカレー

ラム肉・ナス・じゃがいも・トマトのカレー
ラム肉料理は色々試しているが、今回、札幌のカレー屋「ミルチ」のマトンベイガン(ラム肉とナスのカレー)を真似したレシピを見つけたので試してみた。ラム肉600gを一口大に切る。

ラム肉にヨーグルトとターメリック

ボールにヨーグルト大匙3を入れ、ターメリック小1/2を足して、ラム肉を混ぜ込む。

ナス、じゃがいもを一口大に切り、玉ねぎをみじん切り

ナス4本、じゃがいも1個を一口大に切り、玉ねぎ1個をみじん切りしておく。生姜1片をおろし、ニンニク4片をみじん切りしておく。

ナスを炒める
鍋にオリーブオイル大3を温め、一口大のナスを入れて炒める。ナスに焼き色が少しついたら、取り出しておく。

フェンネルシードとクミンシードを加熱する

鍋にオリーブオイル大1を足し、フェンネルシードとクミンシード各小1を入れて加熱し、弾けるのを待つ。

玉ねぎを炒める
シードが弾け出したら、おろし生姜、みじん切りニンニク、玉ねぎを入れて炒める。

コリアンダーターメリックガラムマサラ・シナモンなどを加える
玉ねぎが透き通ったら、コリアンダー小2、ターメリック小2、チリパウダー・ガラムマサラ・カイエンペッパー・シナモン各小1を加える。

じゃがいもを加え、炒める
スパイスの香りが立ち始めたら、一口大のじゃがいもを加え、少し火が通るまで炒める。

トマト缶を加えてさらに炒める
トマト缶1缶を加えてさらに炒める。

ベイリーフ、ライムリーフを入れる
グツグツしてきたら、ベイリーフ、ライムリーフ各2枚を入れる。

ナスを加え、炒める
分けておいたナスを加え、さらに炒める。

野菜カレー鍋の様子
これが炒め終えた野菜カレー鍋の様子。

ラム肉を炒める
別の鍋にオリーブオイル大2を温め、漬け込んでいたラム肉を炒める。

野菜カレーを加える
肉の色が変わり、焼き色がつく前に、野菜カレーを加える。

塩胡椒で味を整える
弱火で煮込み、最後に塩胡椒で味を整える。

盛り付けて出来上がり
バスマティ米にクミンシードを加えて炊いたクミンライスとマトンベイガンを盛り付け、コリアンダーパクチー)の葉を添えて出来上がり。
 
 

興神社、兵主神社

ステゴドン象の復元模型
豪ノ浦町にある壱岐文化ホールの中庭に、ステゴドン象の復元模型が展示されている。このステゴドンは鮮新世後期から更新世にかけて(約100万年〜500万年前)アジアに広く分布していて、大陸から渡ってきて小型化している。1971年に勝本町湯ノ本浦の海食崖で化石が発見され、現在、一支国博物館に収蔵されている。

タイワンリス

勝本町立石の道路脇でタイワンリスが動いているのを見かけた。20年ほど前に「壱岐リス村」が閉園した後、逃げ出し繁殖したものと考えられているが、3年前には年間捕獲数が2万匹を大幅に超えて増加し続けている。

興神社

芦辺町の湯岳に興神社がある。付近はかつて壱岐国府があった所と考えられており、社名の「興(こう)」は「国府(こふ、こう)」の意味とされる。国府の蔵の鍵である「印鑰(いんにゃく)」を保管していたことから、近世には「印鑰神社」とも呼ばれていた。

興神社

延宝4年(1676)神道家橘三喜が壱岐式内社を調査した際、当社を式内小社「興神社」に比定した。しかし、これは興と與(与)を見誤ったためと考えられており、近年の研究では、式内名神大社の「天手長男神社」が当社であり、壱岐国一宮であったとする説が有力となっている。

興神社の社殿
延宝4年の調査の際、天手長男神社は郷ノ浦町田中触の若宮社に比定され、壱岐国一宮の称もその神社に移ったが(現 天手長男神社)、それ以降も当社を「一宮」とよぶ通称は残った。摂社の壱岐総社神社は、壱岐国の総社にあたる。

興神社の拝殿内
境内案内によると、主祭神足仲彦尊息長足姫尊で、相殿に應神天皇仁徳天皇天手力男命八意思兼神住吉大神を祀る。芦辺町史によれば、仁徳天皇大鷦鷯天皇
應神天皇は誉田別天皇日本書紀の名で記され、足仲彦尊は帯仲彦天皇古事記の名で記されている

興神社の本殿
本殿は木鼻、蟇股など彩色が施されていたことがわかるが、かなり古くて痛んでいて、覆屋で風雨から保護されている。

兵主神社
芦辺町深江川北に兵主(ひょうず)神社がある。境内案内によれば、壱岐国式内名神大社で、別名、日吉山王権現という。

兵主神社の社殿

境内案内によれば、兵主神社弘仁2年(811)創建、仁寿元年(851)正六位に叙せられたとあり、式内名神大社となっている。嵯峨天皇の御代(809-823)山城国日吉山王を勧請し、古号は日吉山王権現とされる。勧請の伝説では、比叡山より村の卯辰の海辺一の瀬に着御し、谷山(今の京徳の丘)に鎮座となった。勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で社家となった。延宝4年(1676)の橘三喜の式内社調査では、当社を聖母神社、現聖母神社を兵主神社とした。その後、延宝7年(1679)箱崎八幡宮祠官吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、聖母神社を正しく聖母神社と戻したが、当社(日吉山王権現)は、そのまま兵主神社となってしまった。

兵主神社の社殿

兵主神社の祭神は、素戔嗚尊大己貴神事代主神である。兵主の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載があるが、その中で名神大社は、大和国穴師坐兵主神社桜井市)と近江国にある兵主大社滋賀県野洲市)と、壱岐国兵主神社のみである。穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇八千矛神大国主)を兵主大神として祀ったともいう。神社では兵主神御食津神とするが、他に天鈿女命、素戔嗚尊、天富貴命などとする説がある。兵主大社の社伝によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師に八千矛神大国主神)を祀らせ、これを兵主大神と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、穴太に遷座し、欽明天皇の時代に再び遷座して現在地に鎮座したという。ともかく、壱岐兵主神社兵主神八千矛神という武神に関連があると思われる。中国の『史記』「封禅書」では、中国神話に登場する「蚩尤」という凶暴な神は八神のうちの「兵主神」に相当し、戦の神と考えられている。戦争で必要になる戦斧、楯、弓矢などの武器を発明したのは蚩尤であると伝承されている。因みに「封禅書」に説かれている八神は、天主神・地主神・兵主神・陰主神・陽主神・月主神・日主神・四時主神である。

本殿には覆屋
本殿には新しく覆屋が架けられ、風雨から保護されているが、下から覗けるように配慮されている。境内案内では、昭和53年拝殿改築なる、昭和62年神殿上屋、屋根替改修とある。

兵主神社の本殿
そこから本殿を覗いてみると、すっかり風に削られてしまった随身2名に守られ、青くなっているが高欄も設けられ、掠れてはいるが虹梁・木鼻・扉などにも彩色が施され、かなり丁寧に造られていたことがわかる。

兵主神社の本殿
本殿の板壁には、獅子、梅、鶴などさまざまな壁画が描かれている。特に右手奥の壁画には、「朱買臣」の姿が認められる。朱買臣は前漢の人で、貧しくも薪を売りながら独学し、50歳を過ぎてから武帝に見出され、出世したといわれる。二宮金次郎の薪を背負いながら読書をしている姿は、この朱買臣をモデルにしたとの説もあるという。

境内社
社殿の右手後ろに建つ境内社。小さいがしっかりした覆屋の中に可愛らしい社殿が納められている。

石祠
社殿左手の後ろに古びた石祠が祀られている。しめ縄が大き過ぎて祠がよく見えない。

稲荷大明神

社殿の右手には、正一位稲荷大明神が祀られている。これで昨夏の壱岐の島巡りは終わった。

前年の対馬に続き、古代の世界を垣間見るような、記紀の記述を証拠立てるような史跡や資料があればと思って壱岐を訪れた。壱岐古墳群や原の辻一支国王都復元公園、一支国博物館などはたいへん興味深かったが、古い神社には由緒が怪しいものが多かったように思う。殊に月讀神社、國片主神社、天手長男神社、興神社、兵主神社など、延宝4年(1676)の神道家橘三喜の式内社調査での比定が誤っていた事例が多すぎるので、一度、一支国博物館などが中心となって、今のうちに誤りを正しておいた方が良いのにと思った。

 

 

 

壱岐島での最後の晩餐

創作会席料理の先付
壱岐島での最後の晩餐は、湯の本温泉発祥の地といわれる平山旅館の創作会席料理。先付は、チーズ豆腐、新もずく、活赤雲丹。どれも美味しい。

お造り盛り合わせ
お造り盛り合わせには、メインのキジハタに、鯛、鰹のたたき、栄螺の刺身と盛りだくさんだ。

ヤリイカの刺身
ヤリイカの刺身は別皿で、刺身を食べた残りは、あとで天ぷらとなる。

夏野菜サラダ
夏野菜サラダは、焼き野菜が主体。

小烏賊の旨煮と南京スープ
煮物は、小烏賊の旨煮。右は吸口の南京スープ。

ひと口そば
ひと口そばで一休み。

アワビのソテー
鮑料理は、アワビの肝のソースにアワビのソテー、天草添え。

栄螺の壺焼きと焼き魚
焼き物は、栄螺の壺焼きに焼き魚。味わい深い肴が多く、麦焼酎が足りなくなる。

ヤリイカの天ぷら
揚げ物は、ヤリイカの天ぷら。刺身の残りである。

蛸と胡瓜の酢の物と豆乳蒸し
こちらは、蛸と胡瓜の酢の物に豆乳蒸し。

鯛飯と鯛のお椀
最後の食事は、鯛飯と鯛のお椀。その後のデザートはプリン。壱岐の海鮮料理をたっぷり味わった。
 

白沙八幡神社

白沙八幡神社の巨大な鳥居
壱岐空港および壱岐随一のビーチ筒城浜の近くに、白沙八幡神社がある。巨大な鳥居の扁額の上部には、八幡神の使いである鳩が鎮座している。ブラジルに移住した人々によって奉献されたという。

二の鳥居
道路の海側には目新しい巨大な鳥居があったが、山側には元和7年(1621)年建立の島内最古という古めかしい二の鳥居がある。こちらが最初に建てられた鳥居で、当初は高かったが、風が当たるとのことで土の中に一部埋められて低くなったという。この石鳥居には、大旦那松浦豊後守源信実立之の銘が刻まれている。松浦信実豊後守は、平戸家の壱岐における代官として壱岐亀岡城代に任じられている。

白沙八幡神社の社殿
白沙八幡神社の社殿は、宇佐の方向(辰、東南東)を向いていると言われる。最初の創建は奈良時代とも平安時代とも言われるが、大分県宇佐神宮から勧請したからその方向を向いているという。平安時代にこの周辺は筒城庄と呼ばれ、宇佐弥勒寺の寺領だった。昔は地方の社寺が、領地を力の強い社寺に寄進して守ってもらうことが行われていて、そこから宇佐八幡宮と関係ができている。『壱岐神社誌』によれば、石清水からの勧請で、八幡勧請以前は筒城宮あるいは管城(つつき)社と呼ばれ、玉依姫命を祭神とする海神社だったという。延宝の橘三喜による式内社調査によれば、近くの現・海神社が式内社・海神社に比定されているが、その後の諸説では、当社が式内社・海神社とされている。壱岐七社参拝の一社でもある。

拝殿内の韓櫃石
白沙八幡神社の祭神は、三韓出兵にゆかりのある仲哀天皇神功皇后応神天皇、および中比売命、仁徳天皇玉依姫命、武内大臣である。天井絵は、昭和天皇の大典を記念して昭和4年に氏子有志が奉納したもので、それぞれの絵に奉納者の名が記されている。拝殿中央の案の下に横たわる石は韓櫃石(からひついし)といい、言い伝えでは、昔、拝殿を立て替えようとしてこの石を取り除こうとしたが、石から血水のようなものが流れ出したので人々は恐れて取りやめたという。

拝殿内の三十六歌仙の板絵
拝殿内には、天井絵の他にも、江戸時代に肥前国平戸藩主・平戸松浦氏第29代・松浦鎮信(まつらしげのぶ)が奉納した、三十六歌仙の板絵が掲げられている。36歌仙とは、平安時代藤原公任の「36撰」に選ばれた歌人のことで、柿本人麻呂紀貫之小野小町などがいる。

拝殿内の三十六歌仙の奉納絵
拝殿内の三十六歌仙の奉納絵は、画は片山尚景(狩野派の御用絵師)が描き、歌は松浦鎮信の直筆である。縦43cm、横27cmの檜の板に描かれている。

白沙八幡神社の本殿
本殿は重厚に造られているが、建立時期は不明。神紋は左三つ巴。

壱岐の銘木・巨樹、イチョウ
白沙八幡神社の社叢は、壱岐に昔から遺る鎮守の森で、以前は禁足の地だったため、鬱蒼とした樹林が残る自然暖帯林で、県指定天然記念物となっている。スダジイが優占し、ヤブニッケイタブノキイヌマキホルトノキ・イスノキ・クスノキなどの高木が林冠を形成する。林内にはヤブツバキ・イヌガシ・ハマビワ・ネズミモチコショウノキ・ハクサンボク・クチナシヒサカキなどの常緑低木が生育し、林床にはアリドウシ・ホソバカナワラビ・フウトウカズラ・テイカカズラ・キジョラン・ツワブキ・ムサシアブミが繁茂する。このイチョウは、目通り幹囲4.27m、樹高約21m、島内4位との標識があるが、よく見ると、途中で折れているようだ。

本殿左手前の大石
本殿の左手前には、何やら曰くありげな大石があったが、謂れは不明。

本殿左手の末社
本殿の左手に小さな石祠が二つ祀られていた。末社と思われるが、詳細は不明。

壱岐の銘木・巨樹、イヌマキ
こちらのイヌマキも幹周3.5mで、壱岐の銘木・巨樹になっている。

壱岐の銘木・巨樹、ホルトノキ
こちらのホルトノキも、幹周1.98m、樹高20mで、壱岐の銘木・巨樹になっている。

ノゲイトウ
細長い参道脇の空き地に群生していたこの花は、ヒユ科ケイトウ属のノゲイトウ(Celosia argentea)という一年草。熱帯アジア、インド原産で、日本の暖地に野生化している。花の色は赤・ピンクから次第に銀色へと変化する。花穂は槍のように尖り、水分が少なくカサカサしている。

筒城浜
白沙八幡神社の近くにある筒城浜は、壱岐でも有名な白砂の海水浴場だが、そのすぐ南にある壱岐空港の南端の東側にある大浜海水浴場も、眩しいほどに輝く白砂の美しい遠浅の海岸で、海辺の端には岩場もあって磯遊びも楽しめる。
 

壱岐神社、はらほげ地蔵、小島神社

壱岐神社の大鳥居
壱岐の東の玄関口、芦辺港を囲む湾の入口にある少弐公園の手前に壱岐神社が建っている。少弐公園には、元寇の遺跡や当時の壱岐守護代少弐資時の墓や狼煙台などがある。

壱岐神社の拝殿
壱岐神社の祭神として、弘安の役にて19歳で戦死した少弐資時のほか、元寇の役の際に国家安泰を祈願した亀山天皇後宇多天皇も祀っている。

拝殿内
文永の役1274)では、3万数千人の元・高麗軍が博多に来襲し、激戦になったが夜に前代未聞の暴風雨が博多湾を襲い、翌日、元軍の姿は消えていたという。弘安の役1281)で元軍は、太宰府を落とすために最も便利な良港であった、ここ瀬戸浦を占領せんと襲ってきた。壱岐の守護を勤めていた少弐資時は一軍の将として勇敢に戦ったが、激戦の末、壱岐の守備隊は全滅した。その後、またもや暴風雨が博多湾を襲い、元軍は壊滅した。

元寇碇石
拝殿内に元寇碇石が保存展示されている。芦辺港周辺だけで5本の碇石が確認されているという。

本殿
昭和19年(1944)に本殿が建設された。壱岐で一番新しい神社である。

左京鼻

芦辺港の南を東に向かい、壱岐の島東部に突き出た八幡半島の先端に左京鼻がある。玄界灘の荒波に削られた断崖と草原が約1kmにわたり続き、沖には玄武岩の柱状節理の石柱を束ねたような奇岩が聳り立つ。海の向こうには男岳や女岳、魚釣崎などの壱岐島北東部が眺められる。

玄武岩の柱状節理
ここも猿岩と並ぶ、壱岐の八本柱(折柱)の一つである。観音岩や夫婦岩とも呼ばれる。左京鼻という名の由来にはいくつか説があるという。江戸時代前期に旱魃が続き、陰陽師の後藤左京らがこの場所で雨乞いを行うと大雨が降り出し、村人が救われたという伝説が残っている。

はらほげ地蔵
八幡半島の付け根の南側、海女漁で知られる八幡浦に面して、「はらほげ地蔵」と呼ばれる六地蔵が祀られている。胸に丸い穴が空いていることからこの名で呼ばれる。潮が満ちると頭まで海中に没してしまう。

金刀比羅神社
内海湾に浮かぶ青嶋に架かる青嶋大橋の付け根に小さな金刀比羅神社がある。別名、箱島金刀比羅宮とも呼ばれる。祭神は不詳だが、大物主命と推定される。

青島神社
全長315m、壱岐最長の青嶋大橋を渡ると、青嶋公園があり、そこに小さな青島神社がある。祭神など詳細はわからない。

小島神社
干潮時には海が割れ、約150mの砂浜の参道が姿を表す、トンボロ現象で知られる小島に、島全体が神域の小島神社がある。内海湾(うちめわん)は、『魏志倭人伝』に記載される「一支国」の王都・原の辻を訪れる古代船が往来した玄関口である。内海湾に入港した古代船は、小島にある船着場で小舟に荷を積み替えて、幡鉾川を通って原の辻へと向かったと考えられている。文久元年(1861)の『壱岐名勝図誌』にも内海湾の様子が挿絵で描かれ、内海湾に多くの船が往来していたことが記録されている。

小島神社
小島神社の社殿へは、鳥居の裏側から参道を回り込んで山頂に着く。祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)。内海湾には清浄な山の水が注がれ、美味しい牡蠣が養殖されている。ここにはカブトガニが棲み、アマモも自生している。小島神社は野鳥の楽園としても知られていて、この島の別名は「カラス島」という。
 

男嶽神社

男嶽神社
女嶽神社の先、壱岐島の鬼門・男岳山(168m)の山頂付近に男嶽(おんだけ)神社がある。明治時代まで山全体が神体とされ、一般人の入山が禁止されていた霊山という。

男嶽神社の鳥居
鳥居の脇には展望台があり、壱岐の島の様子を見渡すことができる。

イスノキの巨樹
鳥居の少し手前の参道脇に、イスノキの巨樹がある。最大幹周りは3.16m、樹高は約19mで、壱岐の銘木に指定されている。この男岳山の森には、イスノキ・ヤブニッケイヤブツバキホルトノキ・アラガシ・バリバリノキ・カカツガエなどの珍しい植物が多く自生している。中でもイスノキ(別名、サルフウノキ)が多く、壱岐の中でもここだけと言われている。

男嶽神社の社殿

現在の祭神は、猿田彦命とされるが、拝殿裏に神体とされる岩があり、古代より山全体が神体とされていたという。前回の箱崎八幡神社の際にも触れたように、吉野氏(壱岐氏の裔)文書によれば、原初オンダケ山に鎮座し、その後山を下りて上里の東屋敷、下里の辻、新庄村の宮地山と遷座し、元禄13年(1700)現在地、箱崎村根低(もとかぶ)山へ落ち着いた。オンダケ山は男岳山と書かれ、現在猿田彦を祀る男嶽神社がある。また、イヲトリ(五百鳩)山、磯山とも呼ばれ、『和漢三才図会』には、当社は「磯山権現 磯山にある。祭神一座 竜神 聖武天皇神亀年中に現れる」と記されている。

拝殿内
つまり、神話の中で、壱岐島が生まれた時の最初の神であり、伊伎嶋(壱岐)の別名である天一柱神=天比登都柱神や、月読命壱岐降臨したのが男嶽神社古事記に記録があり、その二神を導いた猿田彦が祭神とされて鎮座しているのも、男嶽神社の古さを示すものといえよう。壱岐の海岸にある猿岩と呼ばれる巨岩も、この猿田彦が二神を導いた時にできたという話もあるそうだ。

奉納された石猿
拝殿脇には、祭神の猿田彦に因み、300体を超える石猿がずらりと並んで奉納されている。

稲荷社
拝殿の右後ろのさらに右にそれる道を進むと稲荷社に行き着く。

神体とされる岩
拝殿の後ろに回り込むと、神体とされる岩が祀られている。

アメノウズメノミコト(天鈿女命)の石像
こちらの石像は一見マリア像にも見えるが、猿田彦の妻神であるアメノウズメノミコト(天鈿女命)の石像だという。

イヌマキの巨木
拝殿の後ろに並ぶ石猿の後ろにイヌマキの巨木がある。幹周3.24m、樹高約23mで、壱岐3位の巨樹という。

展望台から北東を見る
鳥居の右脇にある展望台に上ると、北東には赤瀬鼻の岬がかすかに認められる。

展望台から南を見る
南には男女岳ダムが見下ろせる。そのすぐ後ろの山が女岳で、中腹に女嶽神社がある。左手先には芦辺港の海が見える。

展望台から西を見る
西の方を眺めると、勝本町の緑なす森が広がり、道路沿いに所々田畑が認められるにすぎない。対馬の起伏に富んだ深い森とは違って、だだっ広く低い森が敷き詰められているようだ。
 

箱崎八幡神社、女嶽神社

箱崎八幡神社
次に向かったのは、壱岐の北東部、芦辺町箱崎にある箱崎八幡神社。道路に面してがっしりした一の鳥居が建つ。

二の鳥居

40段ほど石段を上ると少し広くなって、二の鳥居の先にまた石段が続く。苔も草も多い。

三の鳥居と社殿
石段を上り詰めたところに三の鳥居が建っていて、その先にようやく社殿が見える。豊玉毘古命や玉依姫命など海の神様を祀る箱崎八幡神社は、航海安全や大漁祈願などにご利益があるとされ、古くから海の男たちの守り神として親しまれている。社伝によると、桓武天皇延暦六年(787)の外寇の際、壱岐箱崎八幡神社、本宮八幡神社、白沙八幡神社、印鑰神社、聖母宮の五社を勧請したうちの一つという。境内には捕鯨発祥の地である紀州熊野浦の日高弥吉が奉納した「明応二年(1493)」の銘が刻まれた一基の金灯籠が安置され、壱岐で最も古い狛犬が本殿の後ろに安置されているという。

拝殿

さらに数段上って色鮮やかな拝殿を眺めると、小さく高欄が設けられている。式内月讀神社と高御祖神社の論社である。現在、月讀神社と称する式内論社が他に存在し、高御祖神社と称する式内論社も他に存在しているが、両社の査定は江戸時代の橘三喜による誤りであるとされている。また、箱崎八幡神社壱岐七社の一つでもある。七社とは、白沙八幡、興神社、住吉神社、本宮八幡、箱崎八幡、国片主神社、聖母宮とされる。この壱岐七社に、月読神社も天手長男神社(壱岐国一宮)も入っていないことに留意したい。

吉野氏(壱岐氏の裔)文書によれば、原初オンダケ山に鎮座し、その後山を下りて上里の東屋敷、下里の辻、新庄村の宮地山と遷座し、元禄13年(1700)現在地、箱崎村根低(もとかぶ)山へ落ち着いた。オンダケ山は男岳山と書かれ、現在猿田彦を祀る男嶽神社がある。また、イヲトリ(五百鳩)山、磯山とも呼ばれ、『和漢三才図会』には、当社は「磯山権現 磯山にある。祭神一座 竜神 聖武天皇神亀年中に現れる」と記されている。現社名、箱崎八幡は、正慶元年(1332)に筑前筥崎宮を勧請した結果。この地が筑前箱崎宮神領になっていたからで、社号の変更にともない、村名も椙原村から箱崎村に変わったという。八幡神により地主神が消されることは各地で見られることだが、それ以前から遷座を繰り返し、祭神の変更や合祀が何度も行われて、現在も祭神も数多く、どれが本源の神だったかわかりにくいが、この後訪ねる男嶽神社でもう一度考えてみたい。

本殿

拝殿の背後には簡素な幣殿が続き、本殿も質素な感じがする。祭神として、海裏宮には豊玉毘古命(または豊玉姫命)、玉依姫命が祀られ、八幡宮には品陀和気命応神天皇)、仲日売命(中津姫命)、帯中津日子命仲哀天皇)、息長帯日売命(神功皇后)が祀られ、月讀神社には天月神命が、高御祖神社には高皇産霊神が祀られる。別殿には、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られる。天一柱神=天比登都柱とは、伊邪那岐神伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つで、伊伎嶋(壱岐)の別名である。

日本書紀』巻八、仲哀天皇九年二月条に、仲哀天皇の急逝に際し、皇后と大臣竹内宿禰天皇の喪を天下に知らしめず、皇后の気長足姫(後の神功皇后)は、大臣及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に、百姓(人民)に知らせてはならないと断った上で、百寮を率いさせ、宮中を守らせた、とある。つまり、中臣烏賊津は、古墳時代の豪族・中臣連の祖とされる。別名、雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)は、神功皇后と共に新羅から帰還した後、対馬県主となって豆酘に館を構え、太古の亀卜の術を伝えたとされた。そのことは対馬の雷神社を訪れた際にも触れたはずである。

日本書紀顕宗天皇三年二月条に、阿閉臣事代が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著(かか)りて託宣した。「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔ひ造せる功有します。宜しく民地を以て我が月神に奉れ。若し請の依に我に献れば、福慶アラム」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。『式社略考』には、「高御祖神社は箱崎村にありて、八幡神社の別殿に高皇産霊を祀る」とあるように、月神がその祖高皇産霊は同じ場所に祀られていた。

境内社
社殿の右手奥には境内社がいくつか合祀されているが、詳細はわからない。『芦辺町史』には、摂社として亀丘大神宮、椿山神社、丘坂神社、塩釜神社、小松原神社、貴船神社の6社、末社として男岳神社、大神宮、恵美須の3社が載るが、どれかはわからない。

境内社
別殿に、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られるとあったが、もしかしたらこの4社が別殿なのかもしれない。ちなみに、天一柱神は壱岐島の国魂である天比登都柱命(あめひとつはしらのかみ)で、『古事記』神代巻の大八洲生成の段で、伊伎島(壱岐島)の亦の名は天比登都柱とされている。烏賊津連は、対馬の雷命神社に祀られている雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)のことで、卜部の祖として祀られ、橘氏はその直裔とされる。武内大臣は、武内宿禰のことで、『日本書紀応神天皇9年4月条に壱岐での出来事が書かれている。乙魂神については残念ながら何もわからない。

女嶽神社
箱崎八幡神社から北東に男嶽神社に向かうが、途中、左の女岳山(149m)の山頂付近に女嶽(めんだけ)神社があるので寄ってみた。深い林の中の細い道路を進んでいくと、人気のない場所にようやく女嶽神社の社殿が現れた。男嶽神社と並び壱岐島でも古い神社なのにも関わらず、鳥居も社殿も真新しい。最近改築されたのであろう。

拝殿内部
拝殿内部も真新しく質素である。祭神として、アメノウズメノミコト(天鈿女命)を祀る。記紀神話で、天岩戸に隠れたアマテラスを踊りで誘い出した女神で、最古の踊り子として芸能の始祖神としても祀られる。

本殿
アメノウズメノミコト(日本書紀では天鈿女命、古事記では天宇受賣命)は、後に男嶽神社の祭神である猿田彦命と結婚し夫婦神になることから、男嶽神社と女嶽神社を合わせて巡ると良縁に恵まれるという。

稲荷神社
社殿の脇に境内社があった。小さな狐の置物があるので稲荷神社であろう。参道の途中に、女嶽神社の神体とされる巣食石(すくいいし)という巨石があるというが、見過ごしてしまった。