半坪ビオトープの日記

月窓亭、大崎

西之表市、月窓亭
西之表市の中心地から少し坂を上ったところにある月窓亭は、江戸時代中期の延享2年(1745)、当時種子島家の家臣だった羽生能貴が建てた屋敷である。

月窓亭
1886年に種子島27代島主守時を迎えてからは、種子島家のお屋敷として親しまれ、多くの著名人が訪れた。

種子島のひな祭り
市に譲渡された現在では、当時の面影が残されたまま、月窓亭として一般公開された。季節ごとにひな祭りや、端午の節句など、昔ながらの年中行事を再現した展示を行っている。種子島のひな祭りは、女の子が誕生して初めての節句の日、夜に親類縁者がやってくる。ダーに花や餅で飾ったお膳を持って集まってくる。床の間には土人形が飾られ、ダーが並べられる。ダーは大根を10センチほど切ったものを置き、季節ごとの花を差して飾る。周囲には紅白の丸餅、緑色の蓬餅などが添えられる。ダーとは台(お膳)のことである。このような光景は大正時代まで続いたが、現在では見られない。

月窓茶(月桃茶)
入館するとまずは月窓茶(月桃茶)と種子島の食材を使ったお茶菓子を出してもらえる。月桃は、ポリフェノールを非常に多く含み、独特の香りとほのかな甘味は清涼感があり、リラックス効果抜群という。抗菌作用が強いので葉っぱで餅や肉を包んだり、油を絞ってアロマオイルにしたり、虫除けに使ったりする。

月桃
庭には月桃も植えられている。月桃ショウガ科の多年草の薬用植物で、熱帯から亜熱帯のアジアに分布し、種子島佐多岬が自生北限とされる。6月ごろに桃に似た色合いの花の蕾をつけるのが、月桃の名前の由来である。種子島の人々は、月桃のことをシャニンやサネンと呼んでいる。

ヘゴと観葉植物モンステラ
月窓亭の中庭や庭園など敷地内に自生している植物は、その数なんと300種以上という。絶滅危惧種だけでも20種類もあるそうだ。小さな池の向こうには大型シダの一種ヘゴが植えられている。種子島にはこの亜熱帯に生息するヘゴが、約7万平方メートルにわたって自生している。手前の池ぎわに生えているのは、観葉植物のモンステラ。茎は太く羽状に大きく切れ込んだ葉が特徴。大きく育つと白い仏炎苞と緑色の肉穂花序をつけた花を咲かせる。三本の肉穂花序が認められる。果肉はバナナとパイナップルを合わせたような味で美味しいという。

ショウベンの木
こちらはミツバウツギ科ツルビニア属のショウベンの木。面白い和名は、春先に枝を切ると切り口から臭気の強い樹液が大量に出ることからつけられたという。四国南部、九州から沖縄にかけて分布する。

クワズイモ
こちらはサトイモクワズイモ属のクワズイモ。四国南部、九州以南の奄美沖縄群島に分布する。奄美沖縄群島では道端や林などに広く自生している。食べられないだけでなく、毒草であり、中毒事故に注意が必要である。

シマタニワタリ
こちらはチャセンシダ科チャセンシダ属のシマタニワタリという常緑シダ。種子島屋久島以南、沖縄、小笠原に分布する。

ポインセチア
こちらはよく観葉植物で見かけるポインセチア。原産がメキシコと中央アメリカの常緑性低木。標準和名はショウジョウボクで、ポインセチアは通称である。観葉植物としては短日処理を行い、クリスマスの時期に合わせて紅葉させ、緑色の葉とのコントラストを楽しむ。

テトラデニア
こちらの淡い藤色の花は、園芸植物のテトラデニア(Tetradenia riparia)という。南アフリカ原産の非耐寒性の多年草低木で、日本には明治末期に渡来したという。和名はフブキバナ(吹雪花)というが、花色は白または淡紫色を帯びる。

リュウガン(龍眼)
この大木は、ムクロジ科のリュウガン(龍眼)という常緑高木。果樹として栽培され、果実は球形で径約3cm。果肉は乳白色で特有の風味があり生食される。赤尾木城下でもカンラン、ライチ、キコク、レイシなどと共に薬用として栽培され、山川や佐多の島津藩薬草園でも植栽されている。篤姫はレイシやリュウガンの蜂蜜漬けを好んでいて、島津藩篤姫のいる江戸へ送っていたそうだ。

大崎漁港近くの海岸線
西之表から種子島最北端の喜志鹿崎へ向かう途中、板敷鼻に立ち寄るために大崎漁港近くで県道581号から左に分かれて海沿いの道を進む。海岸線は北北西に向かっていて、遥か彼方に陸地が見える。約50km先にある大隅半島の先端部、佐多岬辺りだ。

大崎漁港近くの海岸線
翻って南を見やれば、海岸線の彼方に海に突き出た岬が見える。西之表港を囲む洲之崎と箱崎であろう。
 
 

種子島開発総合センター鉄砲館

種子島開発総合センター鉄砲館、旧石器時代
西之表市にある種子島開発総合センター鉄砲館では、戦国時代にポルトガルから伝わった火縄銃をはじめ、古式銃を多数展示し、日本の鉄砲の歴史を紹介している。その他、種子島の自然、歴史等の資料も多数展示している。まずは、旧石器時代。約3万5千年前(後期旧石器時代)、種子島に最初に人が住み始める。代表的遺跡は横峯C遺跡と立切遺跡である。種子島縄文時代(約16,0002,500年前)も個性あふれる時代であった。

旧石器時代縄文時代の遺跡分布
主な旧石器時代縄文時代の遺跡分布図を見ると、種子島の全島に分布していることがわかる。丸木舟もそれを作る道具の丸ノミ形石斧も発見され、島外交流を示す黒曜石も出土することから、南北交流が盛んに行われていたことがわかっている。

縄文時代の石器や石鏃
黒曜石は種子島には産しないが、大分県姫島や佐賀県腰岳、鹿児島本土の三船・日東産の黒曜石で作られた石鏃が発見されている。国内最古級のものもある。鬼ヶ野遺跡からは、縄文時代草創期の石鏃が約400点出土し、この時代として国内最多となる。
 

鬼界カルデラ噴火と「サンゴ石」
今から約7,300年前、九州最南端から約40km、現在の薩摩硫黄島竹島付近で海底火山(鬼界カルデラ)の大噴火が起きた。大量の火砕流種子島大隅薩摩半島に一瞬で押し寄せ、南九州の縄文集落は壊滅状態となった。鬼界カルデラ噴火に伴う地震津波により、海底から馬毛島に運ばれた「サンゴ石」が数十個確認されている。

縄文時代の石棒、石製装身具など
縄文時代種子島からは、石棒、玦状耳飾り、ヒスイ大珠、勾玉形石製装身具のほか、用途不明の石製品など独特な品々が出土している。三本松遺跡から出土した、約1万年前の土器片から7点のコクゾウムシの圧痕が発見され、世界最古とされている。

弥生時代種子島
弥生時代種子島は、縄文時代の習慣が続き、狩猟採集・漁労生活を行い、貝塚が形成されていることから、本土の弥生文化とは大きく異なっている。しかし、弥生時代の三大要素である「稲」「鉄」「織物」の遺物が遺跡から出土していることから、本土との交流が行われていたと考えられている。種子島弥生人の人骨の特徴は、頭が小さく、身長も低く、頭の横が少し張り出すという南島人特有の形質が見られるという。

弥生・古墳時代の遺跡
種子島の主な弥生・古墳時代遺跡分布図を見ると、前日に見学した国史跡の広田遺跡から大量の人骨と貝製品が出土している。種子島の西に浮かぶ小さな馬毛島の椎ノ木遺跡からは、弥生時代終末期から古墳時代にかけての人骨及び貝製品、特有な土器が出土している。
日本書紀』によると、初めて「多禰嶋」の文字が登場したのは、天武6年(677)2月の記事で、「種子島の人たちを飛鳥寺の西の槻(けやき)の下でもてなす」とある。西之表市上西の大広野神社に御神体として祀られていた古鏡5点のうち、「海獣葡萄鏡」は奈良時代に中国から伝わったものを真似て日本で作成された日本南限の鏡と推察されている。

種子島家文書
種子島家に関する古文書は、種子島正統系図20冊、種子島家譜89冊など189冊が残され、「種子島家文書」として県文化財に指定されている。種子島家譜は、初代信基から27代守時まで、約700年間にわたる種子島の政治・経済・年中行事などを記録した資料である。それによると、初代信基は、平清盛のひ孫で、父行盛が壇ノ浦の戦いで敗北し、まだ幼い信基は母とともに鎌倉へ逃れていたところを、北条時政に助けられ養子となり、時信と名乗った。その後、時正の執奏により、南海十二島の領主となった。その頃「太刀一振り」と「三つ鱗の紋」も与えられ、後に信基にあらためている。

種子島家譜
種子島14代時堯(ときたか)の時代に鉄砲が伝来した。19代久基が琉球王国に甘薯を送ってもらったのが、日本での甘薯栽培の始まりであった。種子島の女の殿様「松寿院」は、薩摩藩島津斉宣の二女であり、14歳で種子島23代久道と結婚したが、32歳の時に死別した。長男も早死にしたため世嗣がおらず、藩主の命令で松寿院と名乗り、長きにわたり種子島の政治を行った。大浦川の川直し、平山大浦塩田の開発、赤尾木港の波止修築は、松寿院の三代事業といわれた。

七尋五葉の切り株
七尋五葉の切り株は、胸高周囲約12m、樹高約32m、推定樹齢約500年、和名はヤクタネゴヨウという。昭和22年にシロアリの食害により伐採された。ヤクタネゴヨウは成長が早く、加工しやすいので丸木舟材として利用された。上の幹の部分はレプリカである。

種子鋏
種子島を代表する工芸品である種子鋏は、鉄砲伝来と同時に同船していた中国人の鋏鍛治により、中間支点式の唐鋏が伝来したという。製法は、軟鉄に刃綱を鍛接するツケハガネ作りで、日本刀の製作技法を取り入れたものであり、鍛治職人達により改良が加えられながら廃刀令以降も島で生産が続けられた。

鉄砲伝来
1543年にポルトガル人により鉄砲が種子島に伝えられたことは大きな意義を持つ。唐、天竺までが世界と思っていた日本人に全く異質なヨーロッパという世界を知らしめたことである。また、ヨーロッパが生み出した鉄砲という科学技術が日本人も制作できる普遍的な技術だということを知ったことでもある。近代工作機械のない時代に捲成法により鉄パイプ製作術を知り、ネジの作用を知ったことも科学技術史上画期的なことだった。群雄割拠の戦国時代にいち早く鉄砲の戦略価値に目をつけたのは尾張織田信長だった。長篠の戦い1575)で圧倒的な勝利を収めたことを知った戦国大名達は、競って鉄砲の調達に努めた。

鉄砲の種類
鉄砲の種類も細筒、小筒、大筒、短筒(馬上筒)、連筒など多岐にわたる。中には棒火矢という、ロケットのような棒状の弾の中に火薬や油を詰め、遠くへ飛ばして火災を起こし敵陣を焼き払うものも考案された。

絶滅したウシウマ
絶滅したウシウマの骨格標本も展示されている。ウシウマとは、種子島などで飼育されていた日本在来馬の一品種で小型の家畜馬だった。1598年、慶長の役で明軍が使役していたものを島津義弘朝鮮半島から10頭持ち帰ったのが始まりともされるが、その起源には不明な部分が多い。同様の貧毛型の馬は、アジア中部からヨーロッパ南部にかけてしばしば見出されるため、蒙古馬の突然変異とも、ヨーロッパ産、中東産ともされるが、はっきりしない。明治初頭に約60頭まで増加したが、その後減少し、1946年に絶滅した。骨格標本はここと鹿児島県立博物館の2ヶ所のみに保管されている希少なものである。
 
 

中種子町歴史民俗資料館、南種子町郷土館、雄龍雌龍の岩

中種子町立歴史民俗資料館、種子島最後の丸木舟
中種子町立歴史民俗資料館は、写真撮影禁止だったので、パンフの写真切抜で振り返る。種子島最後の丸木舟は、ヤクタネゴヨウ松を素材に、昔ながらの技法を用いて、山カタ(山師)と船大工によって造られた。ヤクタネゴヨウ松は、種子島屋久島にしか自生しない松の木で、昭和30年頃までイカひき・エビアミ漁・一本釣り・トビウオ漁・はえなわ・瀬釣りなどに使われてきた。昭和30年代には80隻以上もあった丸木舟が急速に姿を消していったため、町が1982年に船大工達に最後の丸木舟を作ってもらったそうだ。

立切遺跡、落とし穴
中種子町坂井の標高120mの見晴らしのよい台地に立切遺跡がある。1996-97年の発掘調査で、約3万5千年前の種Ⅳ火山灰の下から土坑や礫群、焼土跡などの生活跡が発見された。Ⅰ文化層で落とし穴遺構24基、土坑10基、焼土32、礫群のほか石器製作場も見つかっている。

立切遺跡の落とし穴
立切遺跡の落とし穴は、約3万5千年前の種Ⅳ火山灰の下から発見されている。現段階で日本最古、世界でも最古の落とし穴とされる。直径、深さが1.5m程の円筒形もしくは底の広がるフラスコ形で、小型のイノシシやシカなどを待ち伏せして捕る罠だったと考えられている。

立切遺跡、磨製石斧や磨り石などの礫石器
当時の日本は最終氷期というとても寒い時代で、狩猟を中心とした生活をしていた。ところが、立切遺跡では刃部を磨いて作る局部磨製石斧や磨り石、敲石などの礫石器が多く出土している。これらの石器は、木の実などを加工する道具と考えられるので、当時の種子島は比較的暖かく、植物食料の採れる豊かな環境だったと考えられている。

旧石器時代の横峯遺跡
南種子町島間の台地上に横峯遺跡がある。1992年の発掘調査で、約3万5千年前の種Ⅳ火山灰の下から礫群が発見され、旧石器時代種子島に人類が存在していたことがわかった。横峯遺跡のⅠ文化層で礫群3基、炭化物集中箇所10ヵ所が、Ⅱ文化層で礫群6基と火処遺構が発見された。磨石や台石など木の実を加工する石器や、削器や台形様石器というナイフのような石器も出土している。それらの礫群は日本最古級と考えられている。拳ほどの大きさの石組みの遺構で、石や土が焼けているので蒸し焼き料理の跡と考えられている。

横峯遺跡、3時期の文化層
立切遺跡・横峯遺跡では旧石器時代には3時期の文化層がある。文化層は火山灰層が間層となり区分しやすいのが特徴である。特に鬼界カルデラ起源とされる種Ⅲ火山灰、種Ⅳ火山灰は、旧石器時代の年代を示す種子島の特徴的なカギ層である。

南種子町郷土館
南種子町郷土館は、旧南種子高校校舎跡内にある町立の郷土館。民俗用具をはじめ、南種子町の遺跡から出土した資料などを展示している。

南西諸島現役最後の丸木舟
こちらの丸木舟は、南西諸島現役最後の丸木舟である。船の先端上に貼られた写真は、牛野春芳さん。昭和22年頃に丸木舟を購入し、以来、約50年間、丸木舟とともに漁業を営み、南西諸島最後の刳舟漁師として知られていた。

南種子町インギー鶏
南種子町インギー鶏が鹿児島県の文化財(天然記念物)に指定されたのは、平成25年のこと。インギー鶏は、明治27年(1894)、下中の前之浜海岸にイギリスの帆船「ドラメルタン号」が座礁した際、地域住民による船員の救助と厚いもてなしへのお礼として譲り受けた鶏で、名前は当時、島民がイギリス人を「インギー」と呼んでいたことに由来する。インギー鶏の特徴は、尾羽の全てが縮れて長くほっそりしているため、尾骨はあっても尾がないように見えること。100年以上にわたる改良・淘汰により固有の鶏種として確立され、日本在来種として認定されている希少な鶏である。天然記念物に指定されたため、指定を受けた88羽のインギー鶏は食用に供することができなくなったが、F1種(交配種)のインギー地鶏が食用として飼育・生産されている。

雄龍雌龍(おたつめたつ)の岩
種子島空港の西の海岸に、雄龍雌龍(おたつめたつ)の岩がある。赤い鳥居があるのは、雄龍の岩である。

雄龍雌龍の岩
二つ角の雌龍と一つ角の雄龍の夫婦岩。昔、嵐の夜、仲の良い逹五郎・逹江という夫婦が崖崩れで海に投げ出された。その海に数ヶ月後、夫婦の龍の形をした岩が寄り添うように現れたという、夫婦の生まれ変わりの伝説がある。

雄龍雌龍の岩
二つの岩はしめ縄で繋がれ、その間に沈む夕日は空と水面を赤く染める。夕景スポットとして名高い。
 

浜田海水浴場、千座の岩屋、古市家住宅、大ソテツ

浜田海水浴場
このだだっ広い浜田海水浴場は、遠浅できめ細かな白砂が美しいビーチで、夏場は海水浴客で賑わう。右手に見える島は、竹島と高島が重なり、その左に浜島がある。

千座の岩屋
象の水飲みのあった竹崎海岸も美しい景観に恵まれた砂浜で、風向きによって強い波が立つのでサーファーが多く集まる。一方、この浜田海水浴場は沖に浮かぶ小島・奇岩の景色が印象的である。右手の断崖が海に突き刺さるあたりに穴が見える。千座(ちくら)の岩屋という海蝕洞である。

千座の岩屋
この千座の岩屋は、波に削られてできた種子島唯一の海蝕洞というが、中種子町の海岸にも馬立の岩屋がある。ここは千人もの人が座れるほどの広さがあるので千座の岩屋という名がついたという。

千座の岩屋
洞窟内は枝分かれしており、干潮ならば歩いて中を回ることができる。干潮のように見えるが、波が洞窟の入口に打ち寄せ始めているので、もはや入れないと諦めた。中から海と小島を眺めると幻想的だという。

浜田海水浴場
千座の岩屋と反対の北側を眺めると、こちらも広い浜田海水浴場が見渡せる。海は熊野浦といい、その向こうには熊野漁港がある。

古市家住宅
中種子町南部にある古市家住宅は、江戸時代末期の弘化3年(1846)、当時坂井村の郷士庄屋・横目)を務めていた古市源助が建てた庄屋宅である。

古市家住宅
種子島に現存する最古の建築として国の重要文化財に指定されている。平成14年に保存修理され、江戸末期当時の姿に修復された。建物は座敷部と土間部からなり、正面入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺、平面はL字型をしている。和釘(角釘)が使用され、瓦葺の下地の土居葺には竹釘が使われた。柱・梁は手斧仕上げで、雨戸は本実(ほんざね)造りと相杓造りとなっているなど、江戸時代の建築技術が濃厚に残されている。住宅から北側へ約50m離れた古市家の墓地に立つ墓碑には、永禄年中(1558-1570)に種子島家に招かれ河内国古市郡より来島し、家老清三を祖先とするとあるが、「種子島家譜」には記載がなく詳細不明とされる。

古市家住宅、雛人形
簡素にまとまった中規模な住宅ではあるが、一般農民の住宅に比べれば豪華かつ丁寧な造りであった。ちょうどひな祭りの時期だったので、屋敷内には雛人形がずらりと並べられていて、華やかだった。

 
坂井豊受神社の大ソテツ
古市家住宅近くの坂井豊受神社に、日本一といわれる「わざい坂井の大ソテツ」がある。「わざい」とは種子島の方言で「すごい」の意味である。

大ソテツ
雌株の大ソテツは、樹高7m、枝張り10m、根回り2m以上あり、樹齢は600年を越すと推定されていて、高さが日本一とされる。

大ソテツ
すぐ近くの展望台から大ソテツの全景を見ることができる。

坂井豊受神社
坂井豊受神社は、文明9年(1477)第12代島主・種子島忠時に坂井村の地頭が神社創建の請願をし、日蓮宗浄光寺境内に社殿を設け、五穀の神・豊受大神を祀ったところ、近郷の住民も篤く崇敬したといわれる。明治2年の廃仏毀釈により浄光寺が廃寺となり、社殿も改築されて現在に至る。秋の大祭では安城踊りが盛大に奉納されていたという。

アコウの大木
坂井豊受神社境内入り口には、参道を守るようにアコウの大木がある。

矢止め石
坂井豊受神社入口の近くに矢止め石がある。弘法殉難の日典上人の遺業を継ぐために来島した法弟日良上人は、忍弘通の上、領主時氏以下全島民を法華宗に改宗せしめた。しかし律宗を頑なに信教していた坂井村の領主・日高左京之進が法華経を広める日良上人に敵意を抱き、射殺そうと目掛けて放った矢が上人には当たらず、全てこの石に当たるばかりで、遂に一族あげて法華経に信順したと伝えられている。
 

広田遺跡ミュージアム

広田遺跡ミュージアム
昭和30年(1955)9月、台風22号の襲来により崩れた砂丘の中から、地元の長田茂氏などが人骨や貝製品を見つけ、考古学者・盛園尚孝氏に届けたことで広田遺跡は発見された。最初の発掘は国分直一・盛園尚孝・金関丈夫氏らにより19571959年にかけて行われ、90ヶ所以上の埋葬遺構から158体の人骨が出土、4万4千点を超える貝製品が出土した。その後も発掘が続けられ、国の史跡及び重要文化財に指定された。広田遺跡の手前に2015年、広田遺跡ミュージアムが建てられ、遺跡関連資料がたくさん展示されている。

広田遺跡
広田遺跡は、広田海岸の砂丘につくられた3〜7世紀にかけての集団墓地である。この墓地から107基以上の墓と170体以上の人骨が出土している。墓地は砂丘の北側と南側に分かれて見つかり、新しい上層期(古墳時代後期〜7世紀)と古い下層期(弥生時代後期後半〜古墳時代中期)の二つの時期につくられた。上層期は再埋葬、下層期は一次葬が中心で、それぞれ葬法も異なる。

北区1号墓の原寸大再現ジオラマ
北区1号墓の原寸大再現ジオラマを見ると、覆石墓と呼ばれるタイプの墓。埋葬されていたのは壮年男性で、抜歯はなく、腰椎付近に射込まれた矢尻(石鏃)が致命傷で死亡したと推定される。腕には7点のオオツタノハ腕輪を身につけ、ヤコウガイ製の貝匙が1点副葬されていた。

広田遺跡の墓のタイプ
広田遺跡の墓のタイプは、覆石墓、配石墓、石囲墓、上層石囲墓と移り変わり、貝製装身具も変化している。

広田人の顔や体の特徴
広田人の85%が上顎の左右どちらかの側切歯や犬歯を抜歯していた。この抜歯型式を持つ人々は、日本列島では広田人と同時期の種子島の人々だけである。広田人の顔の特徴は、横幅が広く、彫りが深く、比較的鼻が高い立体的なもので、縄文人に似るがサイズは小さい。広田人の成人男性の身長は154.0cm、成人女性は142.8cmと低身長である。弥生時代後半から古墳時代並行期の種子島の人々は、渡来形の弥生人とは大きく異なる特徴を持ち、縄文人や在来系の弥生人に類似するといわれるが、顔つきや体の特徴は縄文人とも異なる点が多く、広田人ほどの短頭性(絶壁頭)、低顔性、サイズの小ささ、低身長性を示す集団は日本列島のどの時代の地域集団にも認められない。広田人の装身具の文様などから、広田人は中国大陸、中でも江南地方から渡来した人々の子孫の可能性もあるが、広田人は当時の種子島の人々の体の特徴と大きく異なるわけでもなく、体質のベースは他の種子島の集団と変わらないと考えられている。広田人の起源は、今後の発掘調査で琉球列島の人骨資料が増えることにより解明されていくと期待される。

1万点以上の貝製装身具を身につけていた成人男性
この人骨は成人男性で、腕で手を組み、立膝をする、広田遺跡でもこの人骨にだけ見られる独特の姿勢で埋葬されていた。広田遺跡から出土した貝製品の約4分の1にあたる1万点以上の貝製装身具を身につけていたが、それは日本列島でも類がない。装身具の中には貝符や竜佩形貝垂飾など広田遺跡独特なものもある。広田人に特有な抜歯もないこの人骨は、両性の力を持ったシャーマン、双性の巫だと推定されている。

広田遺跡出土品の貝製品や甕形土器
広田遺跡からは貝製品のほかにも弥生時代終末の甕形土器(広田式・中津野式)なども出土している。広田遺跡出土品の中には不思議な魔除けの文様が刻まれた貝製品もある。

D-Ⅲ地区2号人骨の広田人が身につけていた貝製品
こちらはD-Ⅲ地区2号人骨の広田人が身につけていた貝製品一式。

D-Ⅰ地区5号人骨の広田人が身につけていた貝製品
こちらはD-Ⅰ地区5号人骨の広田人が身につけていた貝製品一式。腕輪にしたオオツタノハやオニニシ・ボウシュウボラなどは種子島トカラ列島イモガイヤコウガイ奄美諸島沖縄本島、ツノガイやマクラガイは種子島から奄美諸島沖縄本島と、広田遺跡から出土した貝製品の貝の採取場所は、種子島から奄美諸島沖縄本島に及んでいる。

広田遺跡
広田遺跡ミュージアムの脇の道を海に向かうとすぐに、遺跡の現場がある。遺構の白い標が立ち並ぶ手前に「広田遺跡」の大きな標識がある。この南側墓群、北側墓群を巡る自然回廊を含めて広田遺跡公園となっている。

南側墓群
南側墓群、北側墓群とも、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上に立地している。この南側墓群から158体の人骨が出土している。人骨の遺構に白い標柱が立てられている。墓群は砂丘と太平洋を見晴らす一等地にあり、北には砂丘を囲むような小島が見える。

砂丘の南に見える宇宙センターの大型ロケット発射場
砂丘の南にも小島があり、その間から宇宙センターの大型ロケット発射場が見える。

遺構の標柱
遺構の標柱には、「EⅡ地区2号人骨」「熟年男性」などと場所と推定年齢、性別が書かれている。標柱の天辺には人骨の発掘状況の写真が貼られている。

北側墓群3〜9号墓
砂丘に沿って北に進むと、北側墓群3〜9号墓がある。複数の覆石墓が集まった墓群で、地表下2.5mで発見された。3号墓(3号人骨)は、地上にサンゴ石を馬蹄型に配置した覆石墓で、覆石下にはノシガイ珠、ツノガイ珠などを伴う小児(性別不明、1214歳)が埋葬されていた。墓群の北には広田川が流れている。

北側墓群1〜2号墓
広田川に面した北側墓群1〜2号墓は、平成16年に砂丘崖面が崩れて発見された。1号墓は、サンゴ石で覆った覆石墓で、上半身のみ残存し、左上腕骨部にヤコウガイ容器、右腕にオオツタノハ貝輪5個を装着した状態で発見された。腰椎付近から磨製石鏃が出土し、争いがあったと推定されている。2号墓も覆石墓で、壺型土器2点、甕型土器2点が割られて出土し、埋葬の際の祭祀に使われたと推定されている。
 
 
 
 
 

種子島宇宙センター、象の水飲み

種子島宇宙センター、宇宙科学技術館
種子島の東南端の海岸線に種子島宇宙センターがある。ロケットや人工衛星の組み立てから、整備、点検、打ち上げまで一連の作業を行う、日本の宇宙開発の中核的存在だ。総面積は970m2東京ディズニーランド20個分)に及ぶ。種子島宇宙センターの中で、観光客が宇宙を体感できるのが宇宙科学技術館である。

宇宙科学技術館の屋外に立つH2Aロケット
宇宙センター内には、「大型ロケット発射場」、「衛星組立棟」、「衛星フェアリング組立棟」などの設備があり、宇宙科学技術館の屋外には、実物のHAロケットが展示されている。

宇宙科学技術館の奥にカセ島・小島の浮かぶ海
宇宙科学技術館の奥には美しい芝生とカセ島・小島の浮かぶ変化に富んだ海が広がる。

宇宙科学技術館内のロケットエリア
館内は、ロケットエリア、フロンティアエリア、サテライトエリア、ステーションエリアに分けられて展示・紹介されている。まずは一階のロケットエリア。「日本のロケット開発の変遷」では、1970年代の N-Ⅰロケットから2020年のH-Bロケットまでの模型が展示されている。

H-ⅡロケットのLE-7エンジン
こちらはH-Ⅱロケット第1段用のLE-7エンジン。

2段燃焼エンジン
110tの推力を得る2段燃焼エンジンである。

エンジンやターボポンプなどの説明
2段燃焼サイクルシステムや液体酸素ターボポンプなどの詳しい説明がされている。

エンジンの2段燃焼サイクルの説明
 LE-7エンジンの2段燃焼サイクルは、スペースシャトルよりシンプルな構造、などの説明もロケットの素人には難しくて理解できない。

「世界のロケット」
こちらは「世界のロケット」。各国のロケットにはそれぞれ異なる目的があり、それに応じてペイロード人工衛星などの積荷)も変わるため、大きさや形状、打上能力などがロケットごとに異なる。

「日本の次世代ロケットH3」
次は「日本の次世代ロケットH3」。JAXAが開発している新しい基幹ロケットのH3の
特徴を紹介している。ここを訪れた2週間前の2024年2月17日に、試験機2号機の打ち上げで初めて衛星の軌道投入に成功したばかりであった。ちなみに3号機の打ち上げ予定は6月30日である。最近、次のような記事が新聞に載った。「世界初の木造人工衛星Ligno Sat」が完成したと、京都大学住友林業が発表し、JAXAに引き渡され、今週にも宇宙空間に放出される」とのこと。誠に宇宙開発の技術は日進月歩である。

油井宇宙飛行士のサインのある写真
宇宙飛行士・油井亀美也は、41歳でJAXAに認定された後、NASAで訓練を受け国際宇宙ステーションISS)の長期滞在員に任命された。その後、ロシア連邦宇宙局ソユーズ宇宙船の打ち上げで、国際宇宙ステーションとドッキングに成功し、141日の宇宙滞在ののち地球に帰還した。その油井宇宙飛行士のサインのある写真が展示されていた。人工衛星による宇宙探索や国際宇宙ステーションの様子など様々な角度から説明がされていた。ロケットの設計や衛星の制御など、シュミレーターを用いて擬似体験するコーナーもあった。

象の水飲み岩の海蝕洞
種子島宇宙センターに通ずる道端から、象の水飲み岩の海蝕洞を眺めることができる。

象の水飲み岩
今朝は竹崎海岸の西から東に象の水飲み岩を眺めたが、今度は竹崎海岸の東から西に眺めることになった。残念ながら、こちらから見ると象の水飲みには見えない。
 

種子島、八幡神社、門倉岬

種子島八幡神社
宝満神社から西に、種子島の最南端にある門倉岬に向かうとまもなく、インギー鶏を飼育している花峰小学校があり、その先に下中八幡神社(真所八幡宮)がある。種子島では下中八幡神社と茎永宝満神社だけに、今もお田植え祭りが伝承されている。

下中八幡神社(真所八幡宮
町指定文化財「下中八幡神社お田植祭」は、毎年3月に行われ、夜明け前の社人(しゃにん)によるシュエイ(潮井)取りから始まる。その後、神社で神事が行われ、お田植えとなる。お田植えは神社の南方に広がる田んぼの中にある「森山」に隣接する御新田(オセマチ)で行われる。

下中八幡神社
下中八幡神社お田植祭の特徴は、ガマオイジョウと呼ばれる老人が歌う田植え歌に合わせて社人オイジョウがお田植舞を奉納するところにある。

下中八幡神社拝殿
お田植えが終わると、森山の端の平らな場所で直会(ナオライ)と呼ばれる祝宴となり、めでた節が歌われる。この付近の字が「市ノ坪」であることや、周辺に弥生時代の遺跡が広がることから、この地は古くから稲作と深い関係があった場所といわれている

八幡神社拝殿内
八幡神社の鰐口は、県の文化財に指定されている。鰐口は社殿前の軒下に吊るされる礼拝用の楽器の一種で、参拝者は綱を振り動かして鳴らす。今は代わりに鈴が吊るされている。室町時代、西之村の地頭であった徳永祐氶(すけひろ)は、下中八幡神社の社殿を新しく建て直し、応永33年(1426)に鰐口を奉納した。この鰐口は青銅製で、直径は30cm、厚さ8cm、重さ7.4kg、県内最大級の鰐口であり、南種子町民俗資料館に保存されている。拝殿の中、前方に祭壇がある。

森山
神社の前の田んぼの中に古墳の形をした森山が見える。下中八幡神社お田植祭のナオライ(直会)という祭事がここで行われる。

門倉岬
八幡神社から南下すると種子島の最南端に位置する門倉岬に着く。門倉岬には、天文12年(1543)に漂着した明国船に乗船していたポルトガル人によって、日本に火縄銃が伝えられたことを示す、鉄砲伝来紀功碑が建てられている。岬内は公園化されていて、御崎神社や展望台などもある。公園の入り口に火縄銃を構えた銅像が建てられている。
 

ガジュマルの林
御崎神社の鳥居を潜って進むと、参道の左手にはガジュマルの林が並ぶ。ガジュマル(Ficus microcarpa、我樹丸)は、亜熱帯から熱帯に分布するクワ科イチジク属の常緑高木。枝から多数の気根を出す「締め殺しの木」の一種としても知られる。日本では種子島屋久島以南、主に南西諸島に分布する。台湾、東南アジア、インド、オーストラリアにも分布する。

展望台
色々な石碑が立ち並ぶ先の高台に南蛮船の形状を模した展望台がある。展望台の手前にいくつも石碑が建っているが、もっと手前の左手に「鉄砲伝来紀功碑」がある。天文12年(1543)8月25日、西村の小浦(現在の前之浜)に見慣れぬ異国船が漂着した。その船に赴かんとするに先方より鉄砲を撃ち放ち、その轟音に村人は驚き騒然とした。小船にて数人が浜に下り、西之村の地頭・西村織部丞が明国の五峰と名乗るものと砂上にて筆談し、ようやく意を通じた。台風で漂着した、と。織部丞は赤尾木(西之表)の島主に早馬で知らせ、異国戦は赤尾木へ曳かれた。乗組員一行は半年間種子島に滞在し、その中のポルトガル人によって鉄砲が伝えられたのである。大正10年(1921)に鉄砲伝来紀功碑が建てられている。

ポルトガルの航海者記念碑
海を背にして建つこの石碑は、ポルトガル海軍が「十六世紀この地に到着したポルトガルの航海者を記念して」198510月に建てたという。

御崎神社
展望台の裏手、海に面して御崎神社が建っている。この神社では毎年、潮祭り六月灯、秋季大祭などの祭りが盛大に行われる。

御崎神社
御崎神社の祭神は大国主尊、彦火火出見尊。岬の形状が動物の尻尾を思わせることから近世には「島尾大明神」と呼ばれた。『種子島家御家年中行事属類雑記』の神社縁起には、「往古は・・島尾大明神と称し、・・祭礼の時は村中で白酒を造り、本国寺で満山祈祷をやり、村役以下村中の皆が大明神に参宮し、国土安穏の古例の踊りを社殿の庭で催す」とある。

門倉岬
門倉岬の呼称は文化9年(1812)5月に伊能忠敬による種子島の測量南隊・門倉一太が苦難の測量を完了して「門倉崎」と自分の姓を記述した。それまで、元禄15年(1702)大隈国の「元禄国絵図」によれば「熊毛埼」と記述されていた。

前之浜自然(海浜)公園
岬の先端部から太平洋側(東側)は、竹崎の種子島宇宙センター「宇宙科学技術館」まで12kmにわたる砂浜で、「前之浜自然(海浜)公園」がある。前之浜は海亀の産卵地だが、インギー鶏を贈呈したイギリスの帆船ドラメルタン号が漂着した場所としても知られる、美しい白浜のビーチである。

門倉岬から竹崎海岸方面を見る
東のはずれを拡大して眺めれば、竹崎海岸の「象の水飲み」の洞窟や宇宙センターの建物などが認められるはずだ。