半坪ビオトープの日記

一支国博物館2

 

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壱岐国分寺跡
初日の國片主神社のすぐ西にあった壱岐国分寺跡は、別名・壱岐嶋分寺跡という。奈良時代聖武天皇は全国に国分寺を建てるよう指示した。壱岐国では新たに建てず、統治者・壱岐直が建てた寺を壱岐国分寺に昇格させたと「延喜式」に記されている。寺の名も壱岐嶋分寺といった。当時、九州各地の国府、大寺などは太宰府と同じ瓦を使っていたが、壱岐嶋分寺の瓦は奈良の平城京と同じ瓦を使って建てられ、しかも大極殿の軒丸瓦とも同じことが判明し、壱岐国平城京との強い結びつきが指摘されている。

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安国寺、大般若経
足利尊氏は僧の夢窓疎石の勧めにより、亡き後醍醐天皇を弔い、戦乱で死んだ武士を供養するため、全国66ヶ所と2島に安国寺を建てるよう指示した。壱岐島では以前からある海印寺を安国寺に改めた。現在、老松山安国寺と呼ばれ、京都の大徳寺を本山とする臨済宗の寺院となっている。安国寺には高麗版大般若経初彫本(1046)が残されていて、国の重要文化財に指定されている。
 

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聖母宮所蔵、飴釉三耳茶壷
勝本浦にある聖母宮(しょうもぐう)は、延喜式式内社名神大と記される古社で、神功皇后三韓出兵が創建の起源とされるが、養老元年717)に社殿が建てられたことを神社の創建としている。聖母宮には、天正20年(1592)銘のある日本最古の唐津焼・飴釉三耳茶壷が所蔵され、長崎県有形文化財に指定されている。

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一支国ジオラマ
一支国の王都である原の辻を再現した巨大なジオラマ一支国トピックでは、160体の一支国人(弥生人フィギア)が、弥生時代の暮らしを楽しく伝えている。左側の祭祀のシーン、右側の生活のシーンなど七つのシーンが再現されている。

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一支国トピックの弥生人フィギア
一支国トピックの弥生人フィギアをよく見ると、小さいながらも一体一体、服装も行動も表情も豊かに表現されていて興味深い。

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カラカミ遺跡出土のイエネコの骨
一支国トピックの周りにも各地の弥生遺跡からのさまざまな出土品が展示されている。これは弥生時代後期(約20001700年前)のカラカミ遺跡から出土した日本最古のイエネコの骨である。文献資料からイエネコの伝来は、8世紀に経典などをネズミの害から防ぐために遣唐使が中国から持ち込んだのが始まりとされていた。それが弥生時代の遺跡からイエネコとネズミの骨が発見されて、渡来が500年以上も遡るとは驚きである。
 

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原の辻遺跡出土の人面石
こちらは弥生時代後期(約20001700年前)の原の辻遺跡から出土した人面石。石製の人面石は国内唯一の発見例。凝灰岩で作られ、両目は彫り込んで表現し、口は裏まで貫通させ、目の間には鼻が、目の上には眉が彫られ、頬は凹みで表現される。宗教が存在しないと考えられる弥生時代でも、先祖の霊などが信仰の対象だったのかと思われる。

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カラカミ遺跡出土の日本最古の文字線刻土器
こちらの遼東系瓦質土器は、弥生時代後期(約20001700年前)のカラカミ遺跡から出土した日本最古の「周」文字線刻土器で、中国大陸との交流が確認され、文字のない弥生時代の土器に「文字」が存在したことを裏付ける貴重な資料である。

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楽浪系瓦質土器と朝鮮系無文土器
左の楽浪系瓦質土器は、あな窯で焼かれて硬く、灰色に仕上がっているのが特徴である。右の朝鮮系無文土器は弥生土器と同じ野焼きの製法で製作されている。

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車出遺跡群出土の甕や壺、クド石
原の辻遺跡から西に5kmほどにある車出遺跡群からは大型の甕や壺が多く発掘された。甕を支える石製支脚=クドも多い。このクド石には、持ち運びしやすいように突起が付けられているのが特徴である。壱岐では竈のことを「クド」という。車出遺跡では、土器を廃棄した土器溜まり遺構から、丹塗り土器が大量に捨てられていることから、日用品ではなく祭祀用の祭器=威信具と考えられている。青銅鏡以外にも中国製の銅銭、青色ガラス玉、橙色のガラス玉、切目丸玉なども見つかっている。

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カラカミ遺跡出土の威信具
原の辻遺跡から北西に6kmほどにあるカラカミ遺跡からは、4枚の青銅鏡が発見されている。墓からではなく大溝内からなので、個人の威信具ではなく、祭器の一つとして大溝に廃棄されたと考えられている。墓の中から副葬品として発見される原の辻遺跡とは異なり、同じ弥生人でも青銅器の価値が違うことがわかる。車出遺跡同様、ここでも見つかる切目丸玉は、原の辻遺跡からは見つからないので、集落の関係が考慮される。カラカミ遺跡からは、1箇所だけでなく3箇所、4箇所と穴が開けられた穿孔土器が数多く発見されていて、孔が空いたから捨てたというより、祭祀を行った後に孔を開けて大量に廃棄する習慣があったと推測されている。また、鉄製品の他、地上式炉の跡や製作用具も発見されている。
 

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原の辻遺跡と犬の骨
原の辻遺跡は、長崎県で二番目に広い平野である「深江田原」にある。島内各地の山麓から湧き出た水が集まり、島内最長を誇る幡鉾川に合流する地に位置する。原の辻遺跡は丘陵の最頂部にある祭儀場を中心とし、丘陵尾根上に居住域が広がり、その周りを多重の環濠で囲んだ大規模環濠集落である。壱岐島は中国の歴史書魏志倭人伝』の一支国(一大国)と理解されていて、ここがその王都跡とされている。一支国では、動物の骨の中に犬の骨が多く見つかっている。猟犬として活躍する一方、切断された骨が出土することから、食材にも使われたのではと推定されている。

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壱岐島内遺跡出土の丹塗土器

今から2100年前の弥生時代中期後葉になると、北部九州を中心とした西日本一帯で土器に色を施す丹塗土器が流行した。壱岐島内でも多くの丹塗り土器が発見されている。主に祭器として祭祀の場で使われた。弥生時代後期にはかなり廃れたが、カラカミ集落では独自に進化した。集落内にベンガラ焼成炉を設置し、焼成前丹塗りを確立した。この工程を施すとほとんど色落ちしなくなり、さらに暗文を施すことで芸術性も高まった。高杯や鉢以外にも甕や壺など日常土器にも丹塗りを施すのが特徴である。カラカミ遺跡から日本最古のベンガラ焼成炉跡が発見され、鉄加工以外の土器作りにも長けていたことがわかった。

 

 

 
 

一支国博物館1

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一支国博物館、『魏志倭人伝
壱岐島の東南部の平原が、中国の史書に記されている倭国一支国の跡に比定されている。『魏志倭人伝』では、「一大國」と記されるが、他の史書(魏略逸文梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬國から末盧國の道程に存在することから、『魏志倭人伝』の「一大國」は「一支國」のこととされる。1993年、長崎県教委は壱岐島原の辻遺跡一支国の跡であると発表した。その後、国の特別史跡である原の辻遺跡を整備し、原の辻一支国王都復元公園として公開された。その原の辻遺跡のそばに2010年、壱岐市一支国博物館が開館された。常設展示室に入ると、一支国と東アジア諸国との交易がイメージされる中、『魏志倭人伝』に記された2008文字が示され、その内一支国の記述は57文字含まれる。

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壱岐島ジオラマ
展望室からは原の辻遺跡などの景色が見られる。館内には壱岐島ジオラマもあって、島全体の起伏の様子が実感できる。手前右端が勝本港、天ヶ原セジョウ神遺跡は壱岐の最北端、イルカパークの入口あたりだから、壱岐島を北から眺めていることになる。時計回りにたどると左手(東)の大きな入江が芦辺湾、すぐ上が内海湾、その右手(西南)の平原が弥生時代原の辻遺跡がある一支国王都跡。一番上(南端部)の右手(西)の広い入江が郷ノ浦湾、すぐ下の細長い入江が半城湾。その内陸中央の平地が弥生時代の車出遺跡群、その右手前が弥生時代のカラカミ遺跡。その右手(西)の大きな入江が湯本湾となる。
原の辻遺跡周辺をアップすると、壱岐島で最も広い平地なのがよくわかる。大きな内海湾に流れ込む幡鉾川河口から一支国を訪れる使節団を受け入れたと想定されている。右手前に見える大きな芦辺湾の奥は、古代には沼沢地だったかも知れない。

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原の辻遺跡
展望室から外を見ると、高台にある博物館から南南西に、森の先に平地が広がり、原の辻(はるのつじ)遺跡が認められるが、わかりにくい。

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案内板
案内板で確認するとよくわかる。左彼方(南)に印通寺港と馬渡島、壱岐水道があり、一番右手(南西)に岳の辻がある。

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幡鉾川と船着場跡

右手をアップすると、手前に幡鉾川と船着場跡、彼方に壱岐最高峰の岳の辻(213m)が認められる。

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内海湾
左手(東北東)を眺めると、大きな内海湾が横に広がる様子がわかる。左から伸びる八幡半島の向こう側が玄界灘である。

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笹塚古墳前室の床下
館内には一支国にまつわる弥生時代の遺跡や古墳時代の遺物をはじめ、古代・中世・近世に至る様々な資料が展示されている。ここでは、笹塚古墳前室の床下再現模型により、石室内の様子を垣間見ることができる。

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金銅製亀型飾金具

笹塚古墳からは国内唯一の金銅製亀型飾金具が出土している。これと類似した亀をモチーフにした石像物が奈良県明日香村で発見されていて、ヤマト政権と壱岐島の連携が推定されている。

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墓の副葬品
壱岐島には長崎県にある古墳の約6割にあたる280基以上の古墳がある。壱岐の首長の墓と考えられるのは中心部の巨石古墳群に集中しているが、有力者の墓とされる古墳は首長墓の周りに群集している。また、大塚山古墳・カジヤバ古墳・大米古墳・松尾古墳・鬼屋窪古墳など海人が眠る墓も散見される。首長墓の副葬品は新羅の土器や北斉の二彩陶器など東アジア諸国との交易品が多く、海人の墓からは副葬品が少なく、線刻画が特徴である。

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干しアワビ、塩の生産
干しアワビを作るには、塩や甕、蒸し器などが必要で、煮たり干したり何度も繰り返す。伊勢神宮でも短冊状に切って神前に奉納するなど神聖な縁起物とされる。塩の生産は縄文時代には始まるが、壱岐では古墳時代から古代にかけて勝本の串山ミルメ浦遺跡で塩の生産が行われていた。また、壱岐では弥生時代に鹿や猪の肩甲骨を利用した卜骨の占いが伝わっている。太占(ふとまに)と呼ばれる占いは、鹿の骨から亀甲へと移行した。「延喜式」には伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人の優秀な占い師が選ばれ朝廷で活躍したと記されている。彼らは卜部(うらべ)と呼ばれ、亀卜(きぼく)を用いて吉凶を占う儀式を担当した。

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亀卜

亀卜は主にアカウミガメの甲羅を用いて行う。甲羅を一定の方法で焼き、生じたひび割れ・裂け目の形状を見て吉凶を占う。亀卜は今でも、対馬での祈念祭や宮中での大嘗祭で行われている。同様に、鹿や猪の肩甲骨に焼いた木を押し付けて、ヒビの入り方で吉凶を占う卜骨占いも行われていた。

 

 

壱岐イルカパーク、壱岐の土台石

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壱岐イルカパーク
壱岐最北端の港町、勝本港は壱岐最大の漁師町である。『古事記』や『日本書紀』に記された神功皇后ゆかりの史跡や江戸時代の朝鮮通信使関連施設など、古代から近世まで日本と中国・朝鮮半島を結ぶ通行の要衝だった。それらの史跡巡りや、辰ノ島クルーズは後日の楽しみとして、まず、勝本港の北東の串山半島にある壱岐イルカパークを訪れた。

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イルカパーク
イルカパーク&リゾートは、コバルトブルーに輝く天然の入江を整備した海浜公園。園内中央の海に続くプールにバンドウイルカが暮らしている。

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イルカパーク
ジャンプの練習を見学できるプレイングタイムを始め、ヒレやお腹に触れられるタッチタッチドルフィンや、魚をあげられるイルカにご飯など、色々なアクティビティが充実している。

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イルカのジャンプ
トレーナーの仕事を体験できるトレーニングツアーや、一緒に泳げるドルフィンエンカウンターなども用意されている。

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イルカパーク
プレイングタイムは無料で見学可能。フィナーレは大ジャンプで決まり。プールの周囲にはカフェもあり、アスレチック遊具や芝生の広場も整備されている。夏には予約制でバーベキューやキャンプも可能だ。

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串山半島の東側
イルカパークのある串山半島の東側は玄界灘に面している。左手(北)の方には、防人の跡や串山見目(みるめ)浦遺跡があり、奥のコーゴ岬にはミサキ大明神がある。

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天ヶ原海岸
右手(東)の方には、天ヶ原海岸があり、その先には名も知れない岬があり、さらに彼方には壱岐島の北東端である赤瀬鼻がかすかに認められる。

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壱岐の土台石
天ヶ原海岸の右手(南)の断崖絶壁は、高さが50m、長さが4〜6kmある。壱岐の土台石と呼ばれる壱岐で一番古い、日本の原型が作られた頃とされる約2,500万年前の勝本層が一番下に見られる。勝本層は砂岩と頁岩の互層で、たいへんもろく崩れやすく、落石も起こっている。その上に凝灰角礫岩と火砕流堆積物を主とする700万年前の壱岐層、さらに第四紀層の玄武岩が広く覆っている。その地層の中からは、植物や貝殻等の化石も見つかっている。崖の上部に這いつくばりながら垂れ下がっている植物が見られるが、国指定の天然記念物であるハイビャクシン(Juniperus chinensis var.procumbens)という。

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壱岐麦焼酎「海鴉」
壱岐麦焼酎の発祥の地として広く知られている。室町時代の末期に平戸松浦藩の領地となった壱岐。肥沃な土地で米作りが盛んだったが、厳しい年貢を納めると米はほとんど残らない。農民は年貢の対象外だった麦を主食とする傍ら、麦で「どぶろく」を自家醸造してささやかな楽しみとしていた。しかし、どぶろくは日持ちが悪く作り置きができない。そこで壱岐の人々は麦を主原料に米麹を使い、中国から伝来していた蒸留技術を用いて麦焼酎を造り始めた。江戸時代には45軒の蔵があったと伝わる。現在、壱岐の焼酎蔵元は7軒。壱岐に着いたらすぐ買い求めた麦焼酎は、壱岐の華酒造の海鴉(うみがらす)。早速、部屋飲みして満足した。

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海鮮料理
最初の宿は国民宿舎だったが、壱岐牛と海鮮料理のグルメプランなので、サザエや鮑、ウニなど、麦焼酎に合う食材をたっぷり味わえた。

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イカ料理
こちらのイカ料理も大変おいしかった。

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湯本湾に沈む夕陽
レストランの窓からは、湯本湾に浮かぶ阿瀬島と黒崎との狭い所に、夕陽が赤く輝きながら海に沈んでいく様子が眺められた。

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湯本湾に沈む夕陽
厚い雲の間に顔を出した太陽から海に照りつける光の道が、朱墨汁で刷いたように幻想的にこちらに向かって届いた。
 

顎掛け石・へそ石、鬼窟古墳、双六古墳、掛木古墳

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顎掛け石
國片主神社のすぐ西に史跡「顎掛け石と六面十二菩薩」がある。伝説では、渡良左エ門という大男が海岸で拾った柱状の石柱をここまで担いで運び、自分の顎が乗せられる高さに立てたという。現在、顎掛け石の上には、理由はわからないが六面十二菩薩の仏塔が載せられている。

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へそ石
顎掛け石のすぐ左に史跡「へそ石」がある。江戸時代の壱岐名勝図誌に「国分石」として記載されているこの丸い石は、壱岐の中心を表す標石として、往来する人々の道標となっていた。現在は「へそ石」の愛称で呼ばれている。

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小さな御堂内
へそ石の左手に小さな御堂が建っていて、詳細は不明であるが、中には金刀比羅宮の扁額の欠片と石祠が収められていた。御堂の裏手に国分寺跡があるというのだが、どの辺りにどんなものが残っているのか分からなかった。

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鬼の窟古墳
國片主神社から600mほど西に鬼の窟古墳がある。今から1700年前の4世紀頃から西日本を中心に現れる前方後円墳は、ヤマト王権の勢力拡大とともに全国各地へ広がったとされる。現在までの発掘では、壱岐で最古の古墳は5世紀後半に造られた大塚山古墳。大部分は6世紀後半から7世紀前半のもので、この頃壱岐を治めていた首長とその一族が次々に古墳を築造したと考えられている。

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鬼の窟古墳の横穴式石室
壱岐には、鬼の窟古墳や双六古墳、掛木古墳など巨石を積み重ねた横穴式石室が多く、この鬼の窟古墳は6世紀後半から7世紀前半に築造された円墳で、その規模は直径45m、高さ13.5m。玄武岩で作られた石室は、前室・中室・玄室の三室構造両袖式の横穴式石室で全長16.5m。島内最長・長崎県内でも最長の石室で、2番目の大きさを誇る。最大の天井石は4mもあり、日本全国でも12番目という巨石である。入口に最も近い側壁に、シンプルな線彫による舟、人物、大型海棲動物が描かれ、捕鯨の様子を描いたといわれ、長崎県内で初めて発見された装飾古墳とされる。

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横穴式石室内部
鬼の窟古墳は壱岐市芦部町、壱岐島中央部の高台にある壱岐古墳群として、国の史跡に指定される6基の古墳の一つである。現在、壱岐で確認された古墳は大小約280基で、
崎県下で発見された古墳の半数以上を占める。鈴・鉄鏃・須恵器・新羅土器などが出土し、古代の豪族・壱岐直(いきのあたい=壱岐氏)に関連する墳墓と推測されている。

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前方後円墳の双六古墳
鬼の窟古墳は壱岐古墳群の東側にあるが、西側には双六古墳がある。標高100ほどの丘陵部に築造された巨大古墳。全長91m、後円部の直径43m、高さ10mを誇る長崎県内最大の前方後円墳で、6世紀後半に築造されたもの。

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双六古墳の後円部
墳丘を覆う緑が美しい。残念ながら石室には入れない。埋葬施設は全長11mの横穴式石室で、壁面にはゴンドラ型の舟の線刻画が描かれている。金銅製馬具、二彩陶器、新羅土器、太刀など貴重な副葬品が出土している。

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タカサゴユリ
双六古墳は、県道から外れた林の中の草原にひっそり佇んでいたが、そのそばの道端にタカサゴユリLilium formosanum)が咲いていた。テッポウユリLilium longiflorum)とよく似ているが、タカサゴユリは花期が8〜9月、葉が細く、花弁に筋が入ることが多く、テッポウユリは花期が4〜7月、葉が太め、花弁に筋がなく真っ白で、8月に蕾があることからタカサゴユリとわかる。

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掛木古墳
壱岐古墳群の北側に掛木古墳がある。6世紀後半から7世紀前半頃に築造された円墳で、南北22.5m、東西18m、高さ7mだが、築造当時は直径約30mの規模だったと推定されている。掛木古墳は壱岐風土記の丘に近接する古墳で、対馬塚古墳、笹塚古墳、兵瀬古墳、双六古墳、鬼の窟古墳と合計6基で壱岐古墳群(国の史跡)を構成している。

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掛木古墳の石室入口
掛木古墳から、仿製獣帯鏡(青銅鏡)、金銅製環状耳飾り、鉄製轡、金環、畿内系土師器などが出土し、ヤマト王権朝鮮半島新羅の双方から外交上の拠点として重要視され、古代豪族が対新羅との交易、防衛に従事していたと推測されている。

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横穴式石室内部
石室は前室・中室・玄室の三室構造両袖式の、全長13.6mの横穴式石室で、玄室には島内唯一、全国的にも珍しい、一枚岩をくりぬき屋根の形にした蓋を被せた、刳抜式家形石棺が残っている。石棺は壱岐産の凝灰岩もしくは軟質の玄武岩を用いて製作され、長さ1.9m、幅1.0m、高さ0.7mの石材に、長さ1.5m、幅0.5m、深さ0.3mの凹みを刳り抜いている。
 
 

壱岐島、月讀神社、國片主神社

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壱岐島、月讀神社
昨夏の対馬に続き、今夏は8月上旬に壱岐の島を巡った。魏志倭人伝に「一支國」と記された壱岐には、弥生時代の遺跡や古墳、神社など、歴史的な史跡が多い。博多からフェリーで着いた東の芦辺港で車を借り、一周約40kmの壱岐の島を西へ向かうと、すぐに月読神社に着く。神社の由緒では、祭神は月夜見尊、月読尊、月弓尊の三柱を祀るがいずれも同神である。延宝4年(1676)に橘三喜が当社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、式内社とされたが、現在では疑問視されている。延宝以前の由緒来歴は不明。古くは「山の神」と称し、社もなかったという。

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月讀神社拝殿
現在、月読神社に比定されているのは、箱崎八幡神社であり、元は月読神社として創建された男岳神社から遷座され、その後、海裏神社、八幡大神海宮、箱崎八幡神社と改称されたという。詳しいことは、箱崎八幡神社も男岳神社も後日訪れるのでそこでまた述べる。「日本書紀顕宗天皇3年(487)阿閉臣事代が任那に使いに出された時、壱岐島月神が憑りついて宣託をしたので天皇に奏上し、壱岐の県主の先祖・忍見宿禰壱岐島から月神を勧請して山城国葛野郡歌荒樔田の地に葛野坐月読神社を創建したとあり、その本宮とされる。京都の松尾大社摂社月読神社の本社とされる。

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拝殿内
いろいろ曰くがあるけれども、壱岐の観光案内では、依然として有名な神社とされる。境内入口の案内では、忍見宿禰壱岐島から月神を勧請して、京都に月読神社を創建したとあるので、壱岐島神道発祥の地であるという。さらに伊勢神宮内宮に月讀宮、外宮に月夜見神社があり、壱岐島の月読神社が全国の月読社の元宮ともいう。本殿は拝殿の後ろに一体となって続いていて、外からは確認できない。

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月讀神社の祭神
祭神は月讀命、月夜見命、月弓命の三柱を祀っている。

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月讀命、月夜見命、月弓命
社殿の右手に赤い鳥居があり、二つの石祠には月読神社と彫られているが、右の石祠には月弓命、左の石祠には月夜見命の札が掲げられている。

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國片主神社の石鳥居
月読神社の西500mに國片主神社がある。壱岐島のほぼ真ん中に位置する神社で、すぐ近くには島の真ん中を意味する「へそ石」も置かれ、100mほど北には国分寺跡もあり、このエリアが壱岐の中心地だった時期があったと思われる。滅多にお目にかかれないような壮大な石鳥居が聳え立つ。由緒には、元禄14年(1701)石鳥居造替とあり、その後に鳥居の記事がないことから、これが元禄時代の鳥居と思われる。

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願掛け鳥居と拝殿
國片主神社の境内には多彩な願掛けがある。左のミニ鳥居が三つ並ぶのが「願掛け鳥居」で、厄除けや合格祈願、商売繁盛などのご利益があるという。右手の小さな小僧が、「撫で小僧」という。

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國片主神社の拝殿
由緒によると祭神は、少彦名(スクナヒコナの)命で、相殿には菅贈相國(かんそうじょうこく、菅原道真)も祀られていて、別名、国分天満宮、国分天神とも呼ばれている。嵯峨天皇弘仁2年(811)の創建とされ、延喜式内社で、壱岐島大七社・五大天神の一つ。國片主(くにかたぬし)の名は、祭神・少彦名命大国主命と二人で国土経営を行なったことによる。壱岐島大七社とは、白沙八幡・興神社・住吉神社・本宮八幡・箱崎八幡・國片主神社・聖母宮。

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拝殿内
壱岐神社誌によると、当社は古来、国分天神と呼ばれ、唐土から石船に乗りやって来た唐田天神を祀っていたが、天満宮との混同により国分天満宮となったもの。その天神が天手長比賣神社に比定され、橘三喜による延宝の式内社査定で國片主神社に比定されたが、理由は示されず、当社が國片主神社である証拠はどこにもない。ただ、当社が古来より崇敬の大社であったことは頷けるので、國片主神社であっても不思議ではない、という。歯切れが悪いが、かなり確かであろうとのこと。

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本殿と境内社
由緒によると平成14年に本殿が再建され、拝殿が改修された。拝殿に続く幣殿はかなり長く、その先の本殿もしっかりとした造りである。幣殿右手には、苔むした鳥居の扁額が置かれ、その奥に稲荷社が祀られている。他にも境内社として、六社権現や祇園社、干支神社がある。
 
 

花巻市文化財センター、胡四王神社、花巻市博物館

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岳妙泉寺の不動三尊像
早池峰神社の次に寄った花巻市文化財センターにも、嶽妙泉寺や早池峰神楽関係の展示があった。岳妙泉寺と新山堂の絵地図の下に並ぶ不動三尊像は、神仏分離令後、岳妙泉寺の庫裡の軒下で雨ざらしになっていたもので、相当傷んでいるが往時の面影を伝えている。岳妙泉寺の本尊は不動明王で、脇侍として制多迦童子矜羯羅童子を従える。制作者は京都建仁寺町通に住む仏師・志水法眼隆慶で、仏像は京都・大阪から海路を進み、大槌で陸揚げされ、遠野を経由して大迫まで運ばれたという。

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大償神楽の権現舞獅子頭
大償(おおつぐない)神社は、早池峰神社のある岳より12kmほど下流にあり、今でも大償神楽を伝えている。昭和初期まで、岳や大償の神楽衆は山に雪が降る霜月ごろ、岩手県内の稗貫・上閉伊・和賀・江刺などの各郡の家々を権現様と称する獅子頭を携えて廻り歩き、夜は宿で神楽を演じた。これが権現舞獅子頭であり、周りには神楽に使う鳥兜・扇・剣・バチ・笛・手平鉦・クジなどの道具類が並べられている。左にある白い「クジ」は、祈祷の舞の時に左右の中指に御幣状に切った白紙を指輪のようにはめて舞う。クジの呪力は一般にも信じられていて、お産が軽い、怪我の時に血止めになる、家畜の病気が治るなどと信じられていたという。

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神楽面
神楽面がずらりと並べられている。山の神の面が、岳神楽では口を地じた「吽形」、大償神楽では口を開けた「阿形」である他は、ほとんど差はないといわれる。また、面をつけて舞う演目と、面をつけずに素面で舞う演目がある。男神・女神・荒神・座頭・道化・動物など神が特定されずに色々な演目で兼用される面と、翁・山の神・猿田彦命牛頭天王など演目が限定される面がある。

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様々な土偶
花巻市内には、旧石器時代から縄文・弥生時代、古代・中世・近世に至る1,000ヶ所にも及ぶ埋蔵遺跡があり、それらからの出土品が数多く展示されている。主な遺跡として、不動遺跡・久田野遺跡・小瀬川遺跡・安俵遺跡・清水屋敷遺跡・田屋遺跡・安堵屋敷遺跡・立石遺跡などがある。特に立石遺跡は、昭和52年(1977)の発掘で、縄文時代後期の配石遺構(ストーン・サークル)や当時全国一の出土数となった土偶、多種多様な祭祀遺物が出土して「縄文の祭祀博物館」と呼ばれるなど、日本を代表する縄文祭祀遺跡の一つといえる。遮光器土偶・妊婦土偶・髪型や服装がわかる土偶など様々な土偶が出土し、土偶祭祀を考察する上で貴重なものが多い。

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胡四王神社の石造鳥居
花巻市矢沢の胡四王山(176m)に胡四王神社があり、麓の釜石線を渡った先に石造の鳥居がある。山頂にある胡四王神社は、大同2年(807)の坂上田村麻呂東征の際に、将兵の武運長久と四民の息災安穏を祈願したのが始まりと伝えられる。祭神は大己貴命少彦名命である。胡四王とは、国の守護神四天王のことで、古代、東北において律令国家が支配領域を拡大した時期に郡の北方に祀られたという。

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胡四王神社の社務所
鳥居の先には胡四王神社の社務所が建っている。

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蘇民祭の看板
社務所の向かいの小屋には、蘇民祭の看板がしまってあった。毎年1月2日に行われる蘇民祭は、花巻地方に原因不明の難病が流行したことから、蘇民将来の説話譚に基づき、慶応元年(1865)より始められた。戦後しばらく途絶えていたが、昭和49年(1974)に復活した。無病息災・家内安全・五穀豊穣などを願って麓の遥拝殿での祈念祭に始まり、白鉢巻姿に褌、腰に注連縄を巻き、白足袋・草鞋ばき姿の裸祭に続き、山頂拝殿前に松明を灯し、境内を清める浄化祭を経て、蘇民袋を巡って奪い合いを繰り広げる一大郷土行事である。

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朱塗の明神鳥居
社務所の右手には朱塗の明神鳥居が建っている。

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苔むした石段
鳥居を潜るとさらに右手に、かなり急勾配の苔むした石段があり、恐る恐る上っていく。

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オニシモツケ
左手には鮮やかなピンク色の花が群生していた。オニシモツケFilipendula kamtschatica)という多年草。北海道と本州中部以北の深山の沢沿いなどに生える。葉は茎に数枚が互生し、頂小葉が特に大きく、掌状に5裂し、裂片は鋭く尖り、縁には重鋸歯がある。花は径6〜8mmで散房状に多数つき、白色またはやや紅色を帯び、花弁は5個ある。これほど色濃い赤花種は珍しい。

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古びた鳥居の先の小さな社
石段が分からないほど草が生い茂り、近頃人が歩いた形跡は見えない。それでも古びた木製の鳥居の先に小さな社が建っていた。道が崩れてこれ以上上れない。

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石段が崩れた表参道
左手にはさらに上に行く崩れた石段があったが、この道も近頃人が歩いた形跡は見えないので引き返した。後で調べたところ、この道が表参道なのだが、山の東南側に舗装された東参道ができたため、使われなくなっていたようだ。その道を車で行けば楽に胡四王神社の社殿に着くことができたのに残念だった。

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花巻市博物館

その東参道の近くにあった花巻市博物館を訪れた。花巻市文化財センターと同様、考古遺跡から発掘された出土品や古文書等が数多く展示されていた。今から約2〜3万年前の旧石器人が使った、石斧・たたき石・石核・剥片石器が、宿内遺跡から発見された。当時は氷河時代にあたり、日本はアジア大陸と陸続きとなっていて、人々は大陸から渡ってきたオオツノジカやナウマンゾウなどの大型動物の群れを追って生活していたと考えられている。

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旧石器時代のさまざまな石器
石鏃(矢じり)・磨製石斧・削器・掻器(スクレイパー)・接合資料など当時の生活の様子を生々しく伝える品々が、何万年も残されて目の前に現れていることに驚く。

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笹間館跡出土の中国製貨幣
笹間館跡出土の貨幣は、7世紀から15世紀にかけて中国で造られたもので37種類514枚ある。笹間館は和賀氏の主要な城館だったと思われるが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥羽仕置にて、和賀氏が所領没収となった際に破却されたと推定されている。

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「稗貫状」
この古文書「稗貫状」には、永享7年(1435)から翌年に、稗貫・和賀郡内に起きた争乱(和賀の大乱)の様子が記されている。和賀氏と須々孫氏の争いに稗貫氏が介入して始まった争乱に、北の南部氏や南の葛西氏・大崎氏も加わり、稗貫郡内で大規模に繰り広げられた。最後は南部氏の仲介で和賀氏と稗貫氏との和議が成立したという。

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本居宣長の「古事記伝

これは本居宣長の著した「古事記伝」である。全44巻の古事記の注釈書で、版本としては寛政2年(1790)から文政5年(1822)にかけて出版された。

これで、6月下旬の秋田・岩手の旅を終えた。

 

早池峰岳神楽

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大迫郷土文化保存伝習館早池峰岳神楽伝承館)

早池峰神社と岳妙泉寺跡の隣に大迫郷土文化保存伝習館早池峰岳神楽伝承館)があり、岳地区と大償地区に伝わる神楽にまつわる文化遺産を展示解説している。早池峰岳神楽は、往古の時代、早池峰山が信仰の山として開山された後、中世以降に岳妙泉寺(早池峰神社の前身)の祭祀を預かる「岳六坊」と呼ばれる山伏たちによって代々伝えられてきた。慶長12年(1607)領主南部利直より妙泉寺領百五十石を寄進された時、境内附地として早池峰三十六ヶ山を与えられた。

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岳新山堂境内の古図
岳新山堂、薬師、舞殿、大鳥居、客殿は、慶長15年(1610)より17年まで、南部利直の命により造営された。要害普請もされ、非常時には藩主の隠れ城(避難場所)の役割も担っていた。客殿や庫裡など岳妙泉寺境内の規模が、新山堂より大きかったことがよくわかる。六坊や下禰宜の家も認められて興味深い。

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妙泉寺の四天王立像と延命地蔵尊菩薩像

藩政時代には「妙泉寺」という寺は、盛岡・大迫・遠野の3ヶ所に存在した。公的記録では「(盛岡)妙泉寺」、大迫は「嶽妙泉寺」または「稗貫妙泉寺」、遠野は「遠野妙泉寺」と記している。嶽妙泉寺と盛岡の妙泉寺は本寺と宿寺との関係で、住職は嶽妙泉寺を本所とした。盛岡城の南東・巽の方向に聳える早池峰山は、早池峰大権現を祀る盛岡藩の祈願所であった。

山伏の衣装の右に並ぶ妙泉寺の仏像は、四天王立像と延命地蔵尊菩薩像。背後に掲げられた大きな額は、妙泉池生寺の扁額。妙泉池生寺は、嶽妙泉寺の最も中心となる建物で、慶長15年から17年にかけて南部利直により新山宮(現在の早池峰神社)とともに建立されたが、享保18年(1733)から20年にかけて建替えされた。その際、新たな扁額を揮毫したのは、当時盛岡藩随一の書家・猿橋文饒。文饒は、藩の命により江戸で能書家の佐々木文山の門人となり、孟魯軒の筆法を学んで筆花堂文饒と号した。この扁額は文饒の作風を知る上で非常に貴重とされる。

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新山宮を早池峰神社と改称する嘆願書
円性阿闍梨による嶽妙泉寺の開山年次は、正安2年(1300)や正中2年(1325)など諸説あるが、その前に伝承として、宝治元年(1247)快賢が東根嶽の霊威を感じ、山麓に一寺を建立して河原ノ坊と号し、新山宮・仁王門を建立し、山頂にも大宮と本宮の二社を建立とされる。その後、江戸時代を通じて神仏混合の時代が続くが、総じて嶽妙泉寺のもとに新山宮もあったと考えられる。それが明治維新の新政府は慶応4年(1868)3月に「神仏判然令(神仏分離令)」を発布し、修験道や権現の名称も禁止された。明治2年には早池峰山大権現(新山宮)を早池峰神社に改称し、明治3年に圓能が大澤廣と名を改めて神職となった。その際の神祇役所に出した嘆願書が残されている。嶽妙泉寺の住職・良識(31世法印圓能)は、早池峰大権現別当寺である妙泉寺の権現号を止め、新山宮を早池峰神社と改称し、良識も復飾して大澤廣と名乗り、神官として勤める旨を許可願いたい、というものである。明治維新神仏分離廃仏毀釈の具体的資料として興味深いものがある。

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早池峰岳神楽の奉納幕
大迫郷土文化保存伝習館早池峰岳神楽伝承館)にも簡素な舞台が設けられ、奉納幕が掲げられ、岳神楽衆が普段の練習に使用している。展示ケースの中にも奉納幕や、神楽に使う鳥兜・扇・かんざし・手平鉦・太鼓・バチ・笛・法螺貝などの道具類が並べられている。

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鶏舞(鳥舞)
山伏神楽の起源は明らかではないが、早池峰神社に祀られている権現様と呼ばれる獅子頭には、胎内に文禄4年(1595)の年号があり、大償神社別当家には長享2年(1488)銘の神楽文書の写しが伝えられているので、少なくとも500年以上前には行われていたと考えられている。早池峰岳神楽は、岳神楽と大償神楽の総称で、表裏一体を成し、山の神の面では大償神楽は「阿」の形、岳神楽は「吽」の形をしている。現在も両神楽とも約40番の舞を伝え、中には能大成以前の古い舞の形を随所に残すことから、貴重な芸能として国の重要無形民俗文化財第一号に指定され、平成21年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。館内では、神楽の映像も常時上映されている。これは岳神楽の式舞の初めに舞う、鶏舞(鳥舞)。鳥兜が珍しい。

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式舞と式外の舞
舞を大別すると、式舞と式外の舞となり、式舞は、鶏舞・翁舞(白翁の舞)・三番叟(黒翁の舞)・八幡舞・山の神舞・岩戸開きの舞の六曲をいう。式外の舞は、神舞・荒舞・女舞・武士舞・権現舞がある。神舞は、水神・天降り(天孫降臨)・天熊人五穀・天照五穀・恵比寿舞など記紀風土記の神話を題材とする。面をつけた舞「ネリ」ではじめ、後半の面を外した「クズシ」にうつる。荒舞は諷誦・注連切・竜天など、武士舞は鞍馬・木曽・屋嶋など、女舞は鐘巻(道成寺)・苧環・天女など、最後の権現舞は獅子の姿を借りた神の化身=権現があらゆる禍を退散・調伏させ、安泰を祈祷する舞である。狂言も田植え・猿引きなど多数ある。

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色々な神楽面
神楽面も、猿田彦・天女アメノウズメ・天熊人・注連切・諷誦など多数展示されている。岳神楽も大償神楽も演目にほとんど差がないが、岳神楽は五拍子を基調とし、勇壮で激しく活発な荒舞を得意とし、大償神楽は七拍子を基調とし、緩やかで繊細な女舞を得意とする。

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岳妙泉寺六坊
嶽妙泉寺の門前六坊の発祥は定かではないが、慶長以後とされる。山伏であった六坊は、享保14年(1729)京都吉田家より裁許状を得て社家となったが、寛政6年(1794)には山伏だった記憶は失われていたようだ。

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六坊と下禰宜
山伏神楽・番楽」(本田安次著、昭和6年)によると、明治維新まで岳の門前に留まっていたのは11軒で、六坊6軒、下禰宜が4軒、神子の家が1軒あったという。岳神楽はこの人々が演じて伝えていたもので、里の集落の人々は廻ってくる神楽の楽人を「ねぎ様」と呼び、岳神楽の人たちは自らを「神道神楽」と称したという。

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六坊と神楽
六坊は下禰宜と共に毎月2回の湯立や神子舞を演じ、初舞や祭礼などに岳妙泉寺の舞殿で神楽を演じていた。他にも秋には近隣周辺に廻村巡業(廻り神楽)を行い、早池峰信仰を広め、寺の各種守札を配って歩いたという。

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早池峰山の四箇所の登山口
古来より北上川流域から東根嶽と呼ばれた早池峰山は、近世には南部氏が領有すると盛岡城東の鎮山として早池峰大権現を祀り、本地仏を十一面観音として歴代藩主の崇敬を受けた。明治初年の神仏分離令が出されると観音信仰は姿を消し、現在四つの登山口に残る早池峰神社の祭神は瀬織津姫となっている。早池峰山には古来より北に門馬口、東に小国(江繋)口、西に大迫口、南に遠野口の四箇所の登山口があった。それぞれに修験者たちによる院坊が開かれ、開山伝説も多様となっている。