大塚国際美術館の裏手にある亀浦漁港から、うずしお汽船の高速観潮船が出航する。イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と並ぶ世界三大潮流である鳴門海峡の渦潮は、渦の大きさが大潮時には直径20m以上にもなり世界一といわれる。
鳴門市と淡路島の間に位置し、日本百景にも選ばれている鳴門海峡に、1985年、大鳴門橋が開通した。橋長は1,629m、幅は25m、主塔の高さは144.3m。鳴門側から橋脚付近まで延長450mの遊歩道「渦の道」を進むと、展望室のガラス床があり足元45m真下に渦潮を見ることができる。
鳴門海峡の渦潮は潮の干満によって大きさが違って、干潮、満潮の一日に4回生じる。潮見表で確認してみると、期待度は「中」となっていた。小型高速観潮船が大鳴門橋をくぐる辺りで渦潮ができつつあるのを見ることができた。
大型観潮船も近づいてきて、この辺りで大きな渦ができそうだが、中々渦は完成しない。
鳴門海峡の幅は約1.3kmと急に狭くなっていて、大鳴門橋の真下はV字型に深く落ち込み、最深部は約90mにも達する。潮流は抵抗が少ない深部では速く流れ、抵抗が多い浅瀬では緩やかに流れる。速い潮流と遅い潮流がぶつかって「渦」が発生する。潮流に沿って右側には右巻き、左側には左巻きの渦が巻く。
中々はっきりとした渦が見つからず、観潮船はウロウロするばかりだが、大自然の仕組みなのでどうしようもない。大潮の時に観光するチャンスがあればいいのだが。
大きな渦は見られなかったが、先を急いで本日の宿泊地である高松市に向かい、屋島に立ち寄る。屋島は硬質の溶岩に覆われた平坦面が浸食された残丘、南北に長い台地状の地形である。新生代中新世の約1500万年前から約1300万年前にかけて起こった瀬戸内火山活動の溶岩などで形成された讃岐層群からなる。基盤岩は花崗岩で、長期の浸食を受け、硬質の讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)がキャップロックとなって残った台地状地形である。屋島の名称は屋根のような形状に由来し、古来から瀬戸内海の海路の目印となっている。江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ陸続きになった。
633年に起こった白村江の戦いの後に屋嶋城が築かれ、山上の全域が城とされている。南嶺山上に唐僧・鑑真が創建したとの伝承をもつ屋島寺がある。真言宗御室派の寺院で、南面山、千光院と号す。律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、その後弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。北嶺山上に前身とされる千間堂遺跡がある。その後古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち弘仁6年(815)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947-957)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。四国八十八か所第八十四番札所である。駐車場からは新しく改築された東大門から入る。その先には五重塔が建っている。
境内に入ると五重塔の右手に鐘楼堂が建っている。梵鐘は貞応2年(1223)の銘があり、重要文化財に指定されている。総高102cm、口径64cm、厚さ6cm、青銅の鋳物である。鐘楼堂の向こうには宝物館があり、その右手に本堂が認められる。
大塚国際美術館
大塚国際美術館の所蔵作品のうち、ルネッサンスの作品だけでも約140点あり、続くバロックの作品はゴヤまで約120点ある。10点以上の作品を展示している人も5人ほどになる。こちらの作品は、スペインの画家、ゴヤ、フランシスコ・デの「1808年5月3日:プリンシペ・ピオの丘での銃殺」である。前日夜間から5月3日未明にかけて、マドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって、400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いた作品である。ゴヤが描いたのは、半島戦争、ナポレオン一族治下のスペインが終わった数年後の1814年で、スペイン・ブルボン朝のフェルナンド7世が国王に戻ってからだった。プラド美術館所蔵。
こちらの「裸のマハ」は、ゴヤが1797年から1800年の間に描いた代表作である。西洋美術で初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれ、誰の依頼によって描かれたか明らかにするために、ゴヤは何度も裁判所に呼ばれたが口を割ることはなかった。次の「着衣のマハ」とともに、首相だったマヌエル・デ・ゴドイの邸宅から見つかっているので、ゴドイの依頼といわれる。
こちらが「裸のマハ」の後に描かれたゴヤの「着衣のマハ」。ゴドイが自宅改装の際に、「裸のマハ」に関するカモフラージュであると考えられている。マハとは「小粋な女(マドリード娘)」と言う意味で人名ではない。モデルが誰か、ゴヤと関係のあったアルバ女公マリア・デル・ピラール・カィエターナという説と、ゴドイの愛人だったペピータとする二つの説がある。二作品ともプラド美術館所蔵。
大塚国際美術館ではゴッホから近代絵画とみなして、500点以上展示している。ゴッホの「ヒマワリ」で有名なのは、アムステルダム、ロンドン、ミュンヘン、フィラデルフィア、それに東京(損保ジャパン日本興亜美術館)の5点だが、いずれもアルル時代の大型の作品である。アルル時代にはさらに2点が描かれ、そのうちの「6輪のヒマワリ」はかつて日本にあった。芦屋の実業家山本顧弥太氏が1920年に購入したものだが、1945年、終戦直前の空襲で灰燼に帰した。その「幻のヒマワリ」を写真で所蔵する武者小路実篤記念館の協力のもと原寸大で再現したのがこの作品である。
その再現作品を含め、ここには7点の「ヒマワリ」がまとめて展示されている。
こちらの女性像の作品は、フランス新古典主義の画家、ドミニク・アングルの「泉」である。1820年頃に制作が開始され1856年に完成したこの作品は、アングルが生涯をかけて追求し続けた理想の女性像で、アングルの代表的傑作とされるが、この女性は生身の女性ではなく「泉」を表す擬人像である。オルセー美術館所蔵。
こちらの作品もドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」である。題名の「オダリスク」とはトルコの後宮の女性を意味する。モナリザと並びルーブル美術館の2大美女と称され、1814年に描いた油彩画である。背中と腕がのびすぎ、お尻と太ももが太すぎるので、「椎骨が3つ多い」とか「左腕と右腕の長さが違う」などと揶揄された逸話が広く知られていたが、当時、写真技術の躍進があったので、アングルは絵画にしかできない表現を模索したといわれている。
こちらの作品もよく知られたウジェーヌ・ドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」である。シャルル10世の即位による反動的な政策に民衆が蜂起し、パリを制圧した1830年七月革命に想を得た作品である。ドラクロワは蜂起には参加しなかったが、少なくとも「国家のために絵を描く」ことはすべきだと感じたという。赤・白・青のフランス国旗を持つ中央の女性は「自由」を擬人化したもので実在の人物ではないとされる。ルーブル美術館所蔵。
こちらの作品もよく知られたエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」という1866年の油彩画。この少年は友人であった軍の高官が連れてきた近衛軍鼓笛隊員だが、一説によると顔の部分だけマネの息子のレオンであるといわれる。遠近感を廃した平面的な構成は浮世絵の技法を、無地の背景に大胆な人物像という手法は17世紀スペインの画家ベラスケスの手法を感じさせるという。オルセー美術館所蔵。
こちらの絵はジャン=フランソワ・ミレーの「落穂拾い」。1857年、ミレーが43歳の時の作品で、この頃すでに農民画家として十分な実績を上げていた。落穂拾いとは、豊かな農民が収穫を終えた後、貧農が彼らの土地でおこぼれにあずかるというものであり、背景で山のような穀物を運ぼうとしている「持てる」農民と、前景の「持たざる」貧農との階級的落差が強調されている。『旧約聖書』の「ルツ記」に基づいた作品でもある。オルセー美術館所蔵。
こちらの作品はオーギュスト・ルノワールの「ブージヴァルのダンス」。舞台はパリ郊外セーヌ河畔の行楽地ブージヴァル。モデルはルノワールの愛人兼モデルの画家シュザンヌ・ヴァラドンと友人ポール=オーギュスト・ロートである。当代一の美女といわれたシュザンヌとは14歳の時に出会い、18歳の時にこの絵のモデルを務めた。シュザンヌはユトリロの母だが、この絵のモデルを務めた翌年にユトリロを私生児として出産したことから、ルノワールが父親という疑惑もあるという。ボストン美術館所蔵。
こちらの作品はエドゥアール・マネの「オランピア」。1865年のサロンでマネの「悪名」を決定的なものにした作品である。1863年に描かれた「草上の昼食」と共にマネの代表作とされる。「オランピア」とは当時のパリにおける娼婦の通称であり、神話や歴史上の出来事を描いた絵画に登場する裸体の女性とは異なり、当時の現実の裸体の女性を主題としたことが批判された。モデルを務めたのは、「草上の昼食」などと同じく、ヴィクトリア・ムーランである。オルセー美術館所蔵。
こちらの作品は、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」である。1851年から1852年にかけて制作された、英国美術品の中でも最高傑作といわれる、ミレーの代表作である。オフィーリアはシェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物で、彼女が川に溺れてしまう前、歌を口ずさんでいる姿を描いたが、戯曲では王妃ガートルードのセリフの中でのみ存在するエピソードである。ロンドンのテート・ブリテン・美術館所蔵。
こちらの作品は、グスタフ・クリムトの「接吻」。クリムトの黄金時代といわれる1907年から1908年にかけて描かれた、ウィーン分離派、アール・ヌーヴォー様式の代表的な作品で、金箔、銀、プラチナが使われている。モデルはクリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲとされる。抱き合う男女の頭と顔と手足だけが写実的で、他は平面的に描かれる。ウィーンのベルヴェデーレ宮殿オーストリア美術館所蔵。
こちらの作品は、ノルウェーの画家エドヴァルト・ムンクの「叫び」。1893年の油彩画と同じ題名、同じ構図のパステル、リトグラフなどの作品が合わせて5点存在する。幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなど病気や死と直面せざるを得なかったムンクは、「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマとして多くの作品群を生み出した。それらの中で最も有名な作品である。オスロ国立美術館所蔵。
大塚国際美術館には現代美術の作品も、ピカソやモディリアーニやブラック、クレーやシャガールやミロなど百点ほどあるが、全部で1000点余りある作品にはキリがないのでここらで紹介は終了する。陶板とはいうものの精密で、素人には本物と見分けがつかない。世界中の数々の名画を一堂に鑑賞できるのはありがたいことだと思った。
大塚国際美術館
大塚国際美術館の所蔵作品数は1000余点、古代、中世の作品だけでも200点を超えるので多少省略せざるを得ず、ルネッサンスのコーナーに向かう。最初はダ・ヴィンチなどの受胎告知の作品がずらりと並ぶ。その次にボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」が現れる。フィレンツェのウフィツィ美術館所蔵の有名な作品で、1480年代中頃のカンヴァスに描かれた絵画である。以前、現地で現物を見たことがある。陶板の継ぎ目の線を除けば見分けがつかないほどそっくりにできていて美しい。
こちらの作品も有名な、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。同じくウフィツィ美術館所蔵である。ウルビーノ公グイドバルドが自室のために依頼した作品で、彼女が手にする切られたバラは儚い快楽の隠喩とされる。他にもジョルジョーネとティツィアーノによる「眠れるヴィーナス」、ハインツ、ヨーゼフによる「眠れるヴィーナス」も展示されていた。
この作品も見たことがある、ブリューゲル、ピーテル(父)の「雪中の狩人」。ウィーン美術史美術館所蔵である。北国の凍てつく風土を見事に映し出している。人々は小さく主人公はいないが、これこそ人々の暮らす有り様で、このような視点は近代のものといわれる。
こちらの作品もブリューゲル、ピーテル(父)の「バベルの塔」。同じくウィーン美術史美術館所蔵である。バベルの塔とは、旧約聖書の「創世記」に登場する伝説上の高層建築物の通称である。神の怒りを買った「人間の驕りの象徴」とされ、今日でも「思い上がった実現不可能な構想」の代名詞となっている。
こちらの作品は有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。2003年に開館5周年を迎え、その記念事業として修復が完了した「最後の晩餐」を修復前の「最後の晩餐」と対面で比較鑑賞できるように展示している。これは修復前のもの。420×910cm。ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院所蔵である。
この作品もまた有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」。世界で最も知られた女性像だが、実在の人物ではない可能性もある。レオナルドはこの絵を注文主に渡すこともなく、最後まで手元に置いていたからという。ルーブル美術館所蔵。
こちらもレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」という作品だが、初めて見る肖像画である。レオナルドがミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ侯に仕えていた時期の作品。モデルは、ルドヴィーコの愛妾となったチェチリア・ガッレラーニ(15才位)である。貂はルネッサンスの動物譚では「純潔と節制」のシンボルであった。ポーランドのクラクフ国立美術館分館の所蔵。
「光の画家」「光の魔術師」の異名を持つ、レンブラント・ファン・レインの作品は20点以上展示されている。これは中でも有名な「夜警」。その名称は後世つけられたもので、元は市民隊(射撃隊)を記念して描かれたもの。集団肖像画と呼ぶ。アムステルダム国立美術館所蔵。
マネが「画家の中の画家」と呼んだ宮廷画家、ディエゴ・ベラスケスの作品は10点以上展示されている。これは「ラス・メニーナス(女官たち)」という作品。ベラスケス自身の人生と芸術を集大成した記念碑的傑作。フェリペ4世王家の群像図と、制作中の画家そして自画像の結合。先例のない革新的な構想により、王女マルガリータと侍女、鏡の中の国王夫妻等、画中の人物を眺めている鑑賞者は実は国王その人である。プラド美術館所蔵。
こちらも同じくディエゴ・ベラスケスの作品「バッカスの勝利(酔っ払いたち)」。酒神バッカスがブドウの葉と房の冠を男たちに授ける、神話上の物語を農民たちの酒盛り風景のように描いている。プラド美術館所蔵。
バロック期のフランドルの画家、リュべンス、ピーテル・パウルの作品も10点以上展示されている。この「三美神」は中でも有名だが、左の女神は愛妻エレーヌ・フールマンに似通うといわれる。最初の妻イザベラが死去した4年後の1630年に、53歳のリュべンスは16歳のエレーヌと再婚し、以後、多くの作品にモデルとなった。プラド美術館所蔵。
現在ベルギーのアントウェルペンで大規模な工房を経営した、リュべンスは、市内のシント・ヴァルブルヒス聖堂の主祭壇衝立画としてこの「キリスト昇架」を制作した。それまでのイタリア滞在中の研鑽が反映され、リュべンス絵画の確立といわれる。アントウェルペン大聖堂所蔵。
「光の魔術師」といわれるフェルメール・ヤンの作品も10点展示されている。最も知られたこの「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」もそのうちの一つ。肩まで垂れた青と黄色のターバンがエキゾチックな風情を添え、東方世界との交易で栄えたオランダならではのファッションである。少女の顔だけを暗い闇から浮かび上がらせる光の演出が鮮やかである。ハーグのマウリッツハイス美術館所蔵。
鳴門、大塚国際美術館
昨年の暮れに、鳴門・直島・倉敷・岡山と、瀬戸内のいくつかの美術館を巡った。まずは、大塚国際美術館。大塚グループが創立75周年記念として鳴門市に設立した日本最大級の常設展示スペースを有する「陶板名画美術館」である。古代壁画から世界26カ国190余の美術館が所蔵する現代絵画まで、至宝の西洋名画1,000余点を特殊技術によって原寸大で複製している。鑑賞ルートは約4km。まずはミケランジェロによる「システィーナ礼拝堂天井画及び壁画」(ヴァティカン)。現地さながらのスケールの大きさに驚く。残念ながら左右の壁面は省略されているが、正面と背面、天井画はほぼ忠実に再現されていて、その努力に驚嘆する。正面の「最後の審判」の場面は、中央上部にキリストと聖母マリア、周りにペテロやパウロなどの聖人が配される。
右下には地獄行きの人々を威嚇するカロンが描かれ、ダンテの作品の影響が見られる。
天井画のこの部分は、背面の入口上部から1/3ほど。下が入口上部。右下がヤコブとヨセフ。左下がエレアザレとマタン。その上が預言者ザカリア。その上がノアの泥酔、その上がノアの大洪水。その上がノアの燔祭。その後、楽園追放、アダムの創造、と続くので、天地創造を逆の順に見ている。
こちらは、エル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」(サント・トメ聖堂、トレド)。
こちらは、「聖マルタン聖堂」。パリから南に約300km、ノアン・ヴィック村がある。ジョルジュ・サンドの館があることで知られるこの村に、397年に没した聖マルティヌスに捧げられた聖マルタン聖堂が建っている。聖堂全体のテーマが「最後の審判」に基づくとされ、複雑な壁や天井の随所に壁画が描かれている。
こちらは、「聖ニコラオス・オルファノス聖堂の壁画」。前315年、マケドニア王カサンドロスが町を作り、妻の名に因んでテサロニアと名付けて以来、この町はマケドニアの首都として、東西交流の要衝として、ビザンティン帝国の第二の都として繁栄した。そのテサロニキの東側城壁の一隅に、聖ニコラオス・オルファノス聖堂はひっそりと立っている。後期ビザンティン建築のU字型ギャラリーと身廊にまたがり、聖人像や「キリストの生涯」などの物語絵が壁面を飾っている。創設は14世紀前半が想定されている。
こちらはポンペイ秘儀荘の「秘儀の間」。ポンペイでは城壁の外にも郊外別荘と呼ばれる豪邸が建設され、この秘儀荘もその一つで、名称はディオニソス秘儀という神秘的な信仰の様子を描いた壁画に由来する。ポンペイ壁画装飾第二様式による大壁画で辰砂を用いた「ポンペイ赤」により特に有名である。前70-50年頃。
こちらは前100年頃の「アレクサンダー・モザイク」(ナポリ国立考古学博物館)。ポンペイのファウヌスの家出土のモザイク画で、紀元前4世紀にギリシャのマケドニア軍を率いて東方に遠征したアレクサンドロス大王が、イッソスの戦いでペルシャ軍と戦う様子が描かれている。5.8m×3.1mの巨大なモザイクで、数百万個の石片が使われた。
こちらは前80年頃の「ナイル・モザイク」(パレストリーナ国立考古学博物館、イタリア)。巨大な舗床モザイク一面にナイル川流域の様子が克明に表現されている。こうした特定の地域の風景を描くトポグラフィアはアレクサンドリアで発達した絵画ジャンルであるが、前景の饗宴の描写などにローマ美術の特徴も見られる。
こちらはイタリアのパドヴァにある、ジョットによる「スクロヴェーニ礼拝堂」の壁画。この壁画は、大塚国際美術館の作品の中でも最多の現地調査を行い、綿密で多岐にわたる調査を経て、「もう一つのスクロヴェーニ礼拝堂」を作ったという。当時黄金に匹敵するといわれたラピスラズリによるブルーが豊富に使われているこの礼拝堂の建設は、エンリコ・スクロヴェーニと父レジナルドという。壁面には「西洋絵画の父」とも呼ばれる、ジョットによるキリストと聖母マリアの生涯が描かれている。ジョットの最高傑作ともいわれるこの礼拝堂の壁画だが、その代表作として紹介されることの多い「ユダの接吻」も描かれているという。しかし、残念ながらそれには気付かなかった。
釈迦堂遺跡博物館
甲府盆地の東寄り、笛吹市にある釈迦堂遺跡は、1980年2月から81年11月まで、中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。その結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓、多量の土器、土偶、石器など30トンに及ぶ考古遺物が発見された。そして1988年に、それらを展示する釈迦堂遺跡博物館が開館した。
釈迦堂遺跡博物館の収蔵資料は、1116点の土偶をはじめとする全国有数の縄文時代中期の良好な資料として国の重要文化財(5,599点)に指定されている。こちらの大型土器は、縄文時代中期中葉(5,300〜4,900年前)、高さ381mm、幅205mmの深鉢型土器である。幾つもの断片に割れているが、ここまで組み立てた努力に驚く。
釈迦堂遺跡博物館は、2020年にはリニューアルオープンした。こちらの石皿と磨石も縄文時代中期(5,500〜4,500年前)のもので、石皿の横は420mm、奥行きは270mmである。
こちらは黒曜石製の石鏃。同じく縄文時代中期(5,500〜4,500年前)のものである。他にも水晶製の石鏃もあった。それは縄文時代早期末葉〜中期(7,400〜4,500年前)のものである。石鏃とは、矢の先につける石のやじりのこと。
こちらは縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の石匙。石匙とは黒曜石や頁岩、チャートなどで作った打製石器(剥片石器)の一種。動物の皮や肉、骨などの加工や、木や蔦など植物質の加工に用いた携帯型万能ナイフであり、スプーンではないので呼称を変更すべきとの意見もある。他にも土を掘る打製石斧や木を切る磨製石斧も展示されていた。
こちらの大型土器は、縄文時代中期後葉(4,900〜4,500年前)、高さ385mm、幅290mmの深鉢型土器である。釈迦堂遺跡出土の土器は、大型のものも多く、形態も様々で、飾りの文様にもいろいろな趣向が施されている。
こちらの土器は、縄文時代中期後葉(4,900〜4,500年前)、高さ145mm、幅268mmの浅鉢型土器である。
こちらは土製耳飾り。右手の縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の耳飾りは小さくてほぼ同じ形をしているが、左手の北杜市金生遺跡出土の縄文時代晩期(3,300〜2,400年前)の耳飾りは大型化し、文様も多種多様で個々人の趣向が生かされていると思われる。
釈迦堂遺跡では、1116点の土偶が出土し、全国の7%を占める。そのうち縄文時代前期のものが7個体、後期のものが1個体の他はすべて中期のものである。その数の多さ、形態の多様性が特色で、製作方法がわかったり、遠く離れて出土した土偶の接合関係がわかるなど、研究上欠かせない資料に恵まれている。土偶の部位別では、頭部が190点、胸部が168点、腕132点、胴から足にかけてが626点見つかっている。「しゃこちゃん」「しゃっこちゃん」との愛称がつけられたこちらの土偶は、いずれも縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の土偶である。
縄文時代の草創期(16,000〜11,000年前)の土偶は顔や手足の表現はなく、乳房が強調された小さなものだったが、早期(11,000〜7,000年前)から前期(7,000〜5,500年前)になると、板状の土偶に変化する。釈迦堂遺跡出土の7点の前期土偶は、人の形を意識した板状土偶で、中でも頭部の4つの孔は顔の表現と考えられ、資料的価値が高いとされる。
この有孔鍔付土器とは、平らな口縁で、口縁下部を一周する鍔があり、鍔上部に均等に孔が穿たれた土器である。縄文時代中期の土器で、関東地方のものより中部地方のものが大型なので、山梨県や長野県が中心地と見られている。用途は太鼓説と酒樽説があり決着していない。このカエルの姿を貼り付けたような文様は非常に特異な意匠として注目される。右に見える釣手土器は、縄文時代のランプと呼ばれ、釣手が付いている。内面に煤がついているものもあり、儀礼時に使用されたと推測されている。
芸術の森、文学館、甲斐善光寺
芸術の森公園は、山梨県立美術館と県立文学館を含み、6haもある広々とした園内随所に彫刻を配置した公園である。美術館前のこの黒い彫刻は、エミール=アントワーヌ・ブールデル作の「ケンタウロス(1914)」であり、奥に見える白い彫刻は、岡本太郎作の「樹人(1971)」である。美術館のミレー館には、ジャン=フランソワ・ミレーの「種をまく人(1850)」「落穂拾い、夏(1853)」など有名な作品がたくさんあったが、残念ながら撮影禁止であった。他にも写実主義のギュスターブ・クールベやバルビゾン派のジュール・デュプレなどの作品などがあった。
文学館前のこの彫刻は、ヘンリー・ムーア作の「四つに分かれた横たわる人体(1972-73)」である。
文学館手前の噴水の前に立つ女性像は、アリスティード・マイヨール作の「裸のフローラ(1911)」である。文学館内には山梨県出身の文学者のほか、湯村温泉卿に逗留して執筆していた太宰治や芥川龍之介などの文豪の資料がたくさんあったが、残念ながら撮影禁止であった。
こちらの男性像は、オーギュスト・ロダン作の「クロード・ロラン(1880-92)」であり、右には先ほどの佐藤正明作「ザ・ビッグアップルNo.45」が見える。
金堂(本堂)中陣天井には巨大な龍2頭が描かれ、廊下の部分は吊り天井になっていて、手を叩くと多重反射による共鳴が起こり、「日本一の鳴き龍」と呼ばれている。本堂下には「心」の字をかたどる「戒壇廻り」もある。本尊は、建久6年(1195)尾張の僧・定尊が、秘仏である信濃善光寺の前立仏として造立したものである。いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として著名である。
放光寺
甲州市円山藤木の恵林寺の少し北に、真言宗智山派に属する古刹、放光寺がある。山号は高橋山(こうきょうざん)。元暦元年(1184)源平合戦で功績を立てた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を祈念して創建したという。仁王門は天正年間(1573-92)に再建されている。
仁王門に安置されている金剛力士像は、放光寺が創建された鎌倉時代の元暦元年頃の造立で、大仏師・成朝の作と考えられている。木造・檜材の寄木造になる像高約263cmの立像で、国の重要文化財に指定されている。
仁王門から阿字門までの参道脇には牡丹や梅などの花木がたくさん植えられている。阿字門の先には本堂が垣間見られる。
放光寺本堂は桁行9間、梁間6間、一重入母屋造、銅板葺(元は茅葺)で、禅宗の方丈型である。『甲斐国志』によれば、放光寺の前身は山岳仏教の盛んな平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗寺院・高橋山多聞院法光寺であるという。平安後期には甲斐源氏の一族である安田義定(遠江守)が本拠とし、寿永3年(1184)に法光寺は義定の屋敷地に近い山梨郡藤木郷へと移転され、安田氏の菩提寺としたという。開山は賀賢上人。建久2年(1191)に義定が寄進した梵鐘銘によれば「法光寺」表記であり、「放光寺」表記の初見は戦国期の天文17年(1548)の寺領証文である。『甲斐国志』によれば、天正10年(1582)の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、その時放光寺本堂も焼失している。本堂の左手には愛染堂がある。
その後、寛文年間(1661-73)に柳沢吉保の援助を受け保田若狭守宗雪により本堂が再建された。本尊は大日如来。金剛界の木造大日如来漆箔坐像。像高94.5cm。宝冠を戴き結跏趺坐し智拳印を結ぶ。作風から平安時代末期の円派の作と推定され、造立は創建以前と推定される。その本尊は宝物館に収蔵されている。
本堂に向かって左手に五輪塔と宝物館があり、その奥に毘沙門堂が見える。宝物館には本尊の木造大日如来坐像と、同じく平安時代作の木造不動明王立像(149.4cm)、木造愛染明王坐像(89.4cm)が収蔵され、ともに国の重要文化財に指定されている。他にも武田氏奉納の大般若経六百巻が収蔵されている。放光寺には嘉永5年(1852)に浄土宗の僧・養鸕徹定(うがいてつじょう)により模写された法隆寺金堂壁画(阿弥陀浄土図模写)が所蔵され、現存最古の模写として注目されている。