半坪ビオトープの日記

比奈麻治比売命神社

由良の浜
西ノ島の西から東へ一気に移動するが、途中でまた由良比女神社のある由良の浜を通った。満開の桜が華やかだ。

比奈麻治比売命神社

フェリーの発着する別府港を過ぎると、小さな集落がいくつかあるだけで、最後の集落・宇賀に着く前の草木の生い茂る林の中に、比奈麻治比売命神社という寂れた神社がある。

比奈麻治比売命神社

創祀年代は不明だが、黒木村史によると「比奈麻治比売命神社が初めて六国史に見えるのは、延暦18年(799)である。遣渤海使内蔵宿禰賀茂麻呂が任を終え帰国せんとして、海中夜暗く、その進路に迷った時、遠くに光有りて無事島浜に至ったという霊験高い神であり、その上奏によって幣例に預かることを許された」という。隠岐国初の官社になり、その後も官位を授かっている。続日本後記には「承和5年(838)隠岐国無位比奈麻治比売神従五位下」とあり、延喜式の比奈麻治比売命神社に比定される式内社で、隠岐国神名帳には従一位とある。神名帳考証には「火焼権現ともいう」とある。すると、焼火神社も焼火権現を名乗っていた時期があるので、もしかしたら、こちらが元祖かもしれない。

比奈麻治比売命神社の拝殿
鳥居の額には「濟神社」とある。濟(すん、寸とも)とは、元社地の名前。ここから山中を北に4km進んだ、西ノ島最北端にあり、神社跡の石碑などはあるが、一軒の民家もなく、開拓された跡もない入江の上に旧社殿が残るという。「済」という地に鎮座していたことから「済の宮」とか「済大明神」とも呼ばれていた。参拝に不便なため安政2年(1855)にこの尾和の地に移され、ご神託により25年後の明治13年に元の済に戻し、昭和3年(1928)に再度現社地に移した。現在、済の宮跡では玉垣に囲まれた本殿跡の下に磐座が見えるという。

比奈麻治比売命神社拝殿内
承和5年(838)に従五位下貞観13年(871)には正五位下、元慶2年(878)には正五位上へと叙され、霊験の著しい神社として知られた。また、慶長18年(1613)の検地帳の御供田の記録や、元禄12年(1699)の佐渡の守の名のある御幣串が残されていること、出雲大社の十九社、福岡市博多区櫛田神社境内社である二十二社でも祀られるなど、近世においても比奈麻治比売命を祀る神社や関連伝承が多く見られるという。

比奈麻治比売命神社本殿

対岸の海士町にある宇受賀命神社の宇受賀命と比奈麻治比売命との間に、興味深い伝承がある。宇受賀命が比奈麻治比売命の美しさに惚れて、西ノ島町美田の大山神社の祭神と姫の争奪戦を繰り広げた。宇受賀命が勝利し、比奈麻治比売命と結ばれ、柳井姫をもうけた。柳井姫は海士町豊田の奈伎良比売神社の祭神となったという。本殿は生い茂る草木に隠れてよく見えないのが残念である。

龍王
社殿脇には自然石で白龍王神が祀られていた。

社殿裏手の境内社
社殿裏手には境内社が二社祀られていた。詳細は不明であるが、当社には星神島の神、御崎社、北野社が合祀されているというので、関連があるかもしれない。ちなみに星神島は、元社地の済の北約1.2kにある無人島で、オオミズナギドリの繁殖地として知られる。帆船時代には北前船が航海安全を祈願する島だったといわれ、また雨乞いの神としても信仰されていたという。

ムラサキケマン
こちらの紫色の花は、ムラサキケマンCorydalis incisa)という越年草。日本全国及び中国に分布し、木陰などやや湿ったところに生える。葉は2〜3回羽状に細かく裂け、裂片はさらに深く切れ込む。花は筒状で先は唇形となり、総状につく。全草にプロトピンを含み有毒。ウスバシロチョウの食草であるため、ウスバシロチョウも有毒となる。

ヤマハコベ
こちらの小さな白い花は、ミヤマハコベ(Stellaria sessiliflora)という多年草。日本各地の林中や山地の木陰などに生える。葉は対生し、卵円形か卵形。花弁は5個で萼片より長く、2深裂して10枚に見える。
 

鬼舞展望所、通天橋、観音岩

鬼舞展望所
西ノ島の最南端の尾根は、島前カルデラの外輪山の尾根筋で、鬼舞スカイラインの終点に鬼舞展望所がある。駐車場から牧草地の柵に沿って10分ほど登っていく。

鬼舞展望所から西を見る
南東には赤灘の瀬戸を挟んで知夫里島の赤ハゲ山へ続くが、西に目を転じると今来た駐車場からさらに西へ岬がいくつも突き出ているのが見える。黒っぽい岬の向こう側に三度という集落がある。神代の昔、天照大神が天鈿女命を従えて降臨された時、出迎えた猿田彦命と三度目にようやく出会えたことから、三度(みたべ)という地名がつけられ、猿田彦主祭神とする神社は、天照大神を待っていた場所であることから待場神社と名付けられたという。一番奥に見える大きな岬の先端には、その向こうに景勝地の国賀海岸を見晴らす赤尾展望所がある。

鬼舞展望所から北を眺める
鬼舞展望所から北を眺めると、ちょうど真北が浦郷地区で、左の入江が由良比女神社のある由良の浜で、小さな半島を挟んで右側が浦郷港、その右手に船引運河を渡る西ノ島大橋がかすかに見える。

鬼舞展望所から北東を眺める
さらに右手(北東)には、次第に高度を増す山並みが見える。一番右手の頂が焼火神社のある西ノ島最高峰の焼火山である。こうして鬼舞展望所から、島前カルデラと中央火口丘(焼火山)を一望できる。

放牧されている牛の群れ
鬼舞スカイラインを戻る途中、放牧されている牛の群れを見つけた。隠岐島前の高台は、なだらかな丘陵を生かして、中世から1970年頃まで「牧畑」と呼ばれる独特な輪転式農法(土壌の栄養保持と、労働力の生産と、食糧生産を同時に行う4回転式の農法)が行われていた。牧と畑を分けるために築かれた合垣と呼ぶ石垣が牧草地の縁に組まれていて、その名残がところどころに見受けられるという。

肉用牛の季節放牧
西之島の放牧は、主に肉用牛の季節放牧で、冬季は牛舎で飼育する。全て子牛の生産を目的とした繁殖経営で、肥育経営は行われていない。西ノ島で生まれ育った子牛を中ノ島(海士町)等で肥育して販売されている。

通年放牧の馬
肉用馬の生産も行われているが、馬は通年放牧である。

赤尾展望所より大神立岩を見る
鬼舞スカイラインを戻り、今度は西の赤尾スカイラインに入り、国賀海岸を間近に見下ろす赤尾展望所に着く。南西を眺めると大きな岬の影に尖塔のようなものが見える。国賀海岸の南部、鯛の鼻の近くの海に聳り立つ、高さ17mの大神立岩であろう。

赤尾展望所より国賀海岸の通天橋を見る
赤尾展望所より北に国賀海岸の通天橋などが見えるのだが、少し戻ったところから見た方が背後の魔天蓋も含めて全体がよく見えた。赤尾展望所は、空一面が夕焼け色に染まる時間帯の美しさが名高く、「日本の夕陽百選」に認定されている。眼下には国賀浦が細長く横たわり、その奥に国賀海岸の代表的奇岩・通天橋が認められる。この後、近くまで行くつもりだが、その右手に高く聳え立つ魔天崖はここから上部だけでも見ておきたい。海抜257m、実に70階建てのビルの高さを誇る日本有数の断崖は、何十万年もの歳月をかけて、波風に削り取られて形成された。崖の上は一面緑の草地となっていて、牛や馬が放牧され、遊歩道があり国賀浜まで歩いて下ることもできる。

「通天橋」や奇岩エリア
アップしてみると、アーチ状の岩の架け橋「通天橋」や天上界と呼ばれる奇岩エリアが見える。国賀海岸遊覧船に乗ることができれば、通天橋の右手にある海蝕洞である「乙女御殿」や「観音岩」「象鼻岩」「滝見の岩屋」「国賀の赤壁」「明暗(あけくれ)の岩屋」などを巡ることができたのだが、晴天でも欠航では仕方ない。

由良比女神社の右手の山桜

国賀海岸に近寄るため、一旦、由良の浜近くに戻ると、由良比女神社の右手に続く岬の山に山桜が咲き誇っていた。

国賀ロータリーから観音岩
国賀海岸は、駐車場から国賀浜、通天橋遊歩道に下っていくとよく見えるが、この国賀ロータリーからも天上界という奇岩エリアはよく見える。正面のどっしりと空に向かう大岩が象鼻岩、その右の細長い岩が観音岩。

ローソク岩」とも呼ばれる観音岩
観音岩は奇岩の中でも切っ先鋭く聳え立ち、高さは約40mに及ぶ。海上からは百済観音の姿にも見えることから「観音岩」と呼ばれるが、陸上から、太陽が沈む頃にうまくすると火が灯ったローソクに見えることから「ローソク岩」とも呼ばれる。その時期は春と秋の各一ヶ月ほどである。

観音岩と蛙岩
観音岩の右手の大きな岩は蛙岩という。その手前には通天橋へと続く遊歩道が見えるが、先を急ぐため省略した。
 

 

由良比女神社、浦郷港

由良の浜「イカ寄せの浜」
浦郷港の少し西にある由良比女神社の向かいに、鳥居と人型看板が立つ風変わりな由良の浜がある。「イカ寄せの浜」と呼ばれるこの入江では、明治・大正から昭和の20年代にかけて、毎年のように冬にイカの大群が押し寄せ、イカを拾い集める人で溢れたという。昭和3年2月には数万匹、昭和4311月には一万六千匹拾ったという。祭神である由良比女命が芋桶に乗って、遠い海から手で海水をかき分けながらやってきた時、由良比女命の手にイカが噛みつき、以来お詫びとして浜にイカが打ち上がるようになったという伝説もある。

由良比女神社の鳥居
イカ寄せの浜に面して、由良比女神社がある。別の伝説では、元々、知夫里島の古海に鎮座していた由良比女神社が浦郷に遷されてから、知夫里島にはイカが寄らなくなったと伝えられる。また、由良比女命が神武天皇の時代に、イカを手に持ち、芋桶に乗って神社の鳥居の近くの畳石に現れたという伝説もある。昭和12年(1937)建立の明神鳥居・一の鳥居の先には随身門が建ち、右手には土俵がある。鳥居脇の狛犬は大正4年(1915)建立の来待石の出雲尾立。

由良比女神社の随身
複雑な組物で大きな屋根を支える重厚な随身門は入母屋造、八脚門、銅板葺。左大臣・右大臣の像が向き合って安置されている。

二の鳥居と社殿
随身門の先には二の鳥居が建ち、その奥に由良比女神社の社殿が構えている。鳥居の影で見にくいが、昭和12年(1937)建立の左の石燈籠の下段の枡形には烏賊が舞う彫刻が施されている。

由良比女神社の拝殿

満開の桜の花に囲まれた由良比女神社は、式内社名神大社)で、祭神は由良比女命である。この祭神の名は全国でもこの神社だけといわれる。水若酢神社の水若酢命、玉若酢命神社の玉若酢命など、隠岐諸島の神社には他の地域に知られていない固有の神が多く、古代日本を知る鍵が多く秘められている。『延喜式神名帳』では、元は和多須神と記され、海童神あるいは須世理比売命ともいわれる。海童(わたつみ=海神、綿津見=和多都美)とは、海の神で、伊邪那岐神が死の国の穢れを祓うため禊した時に生まれた綿津見三神がよく知られる。須世理比売は、須佐之男命の娘で、大国主命の正妻である。『袖中抄』には「わたす宮」とあり、平安時代仁明天皇陽成天皇の代に祈祷が行われたことが記されている。『土佐日記』には「ちぶり神」とある。創建は不詳だが、『続日本後紀』承和9年(842)条にて、由良比女命神(由良比女神社)・宇受加命神(中ノ島の宇受加命神社)・水若酢命神(島後の水若酢神社)の3社が官社に預かる旨が記されている。拝殿の建立年は不明だが、昭和6年(1931)に改築されている。唐破風向拝付入母屋造銅板葺で重厚な造りである。

由良比女神社の拝殿
平安末期には島後の水若酢神社とともに隠岐国一宮と定められ、安永2年(1773)には島前一統の祭とすることを決議している。特殊神事として1129日夜の神帰祭が知られる。由良比女神が出雲の神在祭に出た後、イカに乗って帰る夜の神迎え神事である。この夜は必ず由良の浜にイカの群れが寄るといわれ、氏子はこれを「烏賊寄せ祭」と称している。また例大祭では隔年で海上渡御祭が行われ、数百人で担ぐ威勢の良さは島内一の船渡御といわれる。

拝殿の向拝
軒唐破風付銅板葺の向拝は、二重虹梁を巡る3匹の龍の表情豊かな彫刻が目を瞠る出来栄えである。とりわけ正面の波間に浮かぶ龍、両端の木鼻の阿吽の龍は珍しい。蟇股の波や兎の毛通しの朱雀?など趣向を凝らしている。注連縄の奥の拝殿扉上部には烏賊が集まる様子が彫られている。

由良比女神社の本殿

本殿は明治22年(1889)の造営。切妻造妻入の二間社春日造変態・向拝唐破風、檜皮葺。俗に枡形明神造というそうだ。妻懸魚の背後には龍、その下には虎、唐破風下には飛龍?

本殿の組物
本殿の春日造変態という呼び名が珍しいが、隠岐特有の隠岐造とも違い、通常の春日造の向拝部分が唐破風になっている。ともかく、向拝下の組物が複雑で興味を引くが、三手先なのか斗栱が難解だ。本殿屋根下の組物も尾垂木が二段に突き出るなど複雑極まりない。本殿背面の妻飾りも見てみたかった。

境内社3社
社殿の右手奥には3社の境内社がある。左が出雲大社天照皇大神宮豊受大神宮)、中央が恵比寿宮、右が龍蛇社。

「ご縁定食さざなみ」
昼食は浦郷港の「にしわき鮮魚店」にて、「ご縁定食さざなみ」を注文した。美味しいあわび炊込みご飯に柔らかいさざえ壺焼き、刺身に煮魚などが付く定食なので、十分満足できた。

焼き岩牡蠣

焼いた岩牡蠣も大きくて美味しかった。干物や海産物も扱う鮮魚店なので、1mを超す赤イカの干物を軒先に吊るすこともあるという。

 

 

焼火(たくひ)神社

隠岐の黒曜石
泊まったホテルのロビーに真っ黒な黒曜石が展示されていた。隠岐の黒曜石は、はるか3万年前から中国地方を中心に新潟や四国地方に運ばれており、旧石器時代から石器の材料として利用されていた。隠岐の黒曜石は、遠くはウラジオスクまで運ばれている。

焼火(たくひ)神社

隠岐二日目は、島後・隠岐の島町の西郷港から島前・西ノ島町別府港まで船で渡った。島の中央より少し西の浦郷港より、急いで代表的な景勝地・国賀海岸を巡る遊覧船に乗る予定だったが、天気は良いが海が荒れているようで、残念ながら欠航となっていた。仕方なく午後に予定していた焼火神社に向かった。島前の最高峰・焼火山(452m)の中腹(300m)にある神社には、ジグザグの道を車で上って、駐車場からも歩いて15分ほどかかる。駐車場から200mほど登ると鋼製の鳥居が建っている。左は展望台、右が焼火神社に分かれる。

ヤブツバキ
このあたりは島前でも見かけた青紫色のタチツボスミレの花がたくさん咲いていたが、駐車場から展望台までの道は椿の路と呼ばれ、ヤブツバキの赤い花が目立つ。

キブシ

焼火神社の神域約4haには貴重な植生が集中的に残っていて、神域植物群は、島根県の天然記念物に指定されている。特に境内の巨木の老杉群、セッコク、フウラン、トウテイラン、シダ類のタクヒデンダなどの植物。特にタクヒデンダはこの島にしか産せず、トウテイランは隠岐以外では因幡と丹後にしか産しない貴重種である。参道周辺のチョウジガマズミ、ヨコグラノキ、トキワイカリソウ、タイトゴメなど本土側ではほとんど見られない植物もある。この花は、キブシ(Stachyurus praecox)という落葉低木。主に本州、四国、九州の山地にごく普通に生え、高さは3〜5mになる。4月頃、葉の出る前に淡黄緑色の穂状花序を多数垂らし、鐘形の花を開く。

小さな境内社

途中の参道沿いに、古ぼけた木造鳥居と小さな境内社があったが、詳細は不明である。

長い石段の上に小さな流造の境内社
やがて苔むした長い石段の上に小さな流造の境内社が見えた。

唐破風付流造の境内社
かなり古くなっているが、唐破風付流造の本殿様式の社殿は、本格的な建築様式となっている。江戸時代には大いに賑わっていたといい、境内社としては、明治までの本尊であった地蔵菩薩を祀る雲上宮の他、山神社、弁天社、船玉、東照宮、五郎王子、金重郎、道祖神があるというが、この社殿がどれであるかは不明である。

唐破風付流造の境内社
細かく見ると、虹梁・木鼻・海老虹梁・組物・妻飾り・笈形などの各所に彫刻も施され、全体の規模は小さいながら重厚な作りとなっている。
 

焼火(たくひ)神社の社殿
マムシに注意!」との警告がある社務所の大きな石垣を回り込んで、もう少し境内を進むとようやく、崖を利用した焼火(たくひ)神社の社殿が姿を現した。日本海の船人に航海安全の神として平安時代から信仰を集めてきた神社。創建は承和5年(838)より前で、隠岐最古といわれる。旧暦1230日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌窟に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。承久3年(1221)、隠岐に配流された後鳥羽上皇が航海中に遭難しかけた際、御神火に導かれて難を逃れたそうで、その後、焼火山に雲上寺を創建し、焼火権現・雲上寺として神仏習合の形態を取っていたという。また、旧正月の五日から島前の各集落が各々火を選んでお参りする「初参り」が伝承されている。江戸時代には北前船の入港により広く知られ、日本各地に焼火権現の末社が点在している。江戸時代には、安藤広重の「六十余州名所図絵:隠岐・焚火ノ社」や葛飾北斎の版画「北斎漫画」の「諸国名所絵:隠岐・焚火ノ社」に焼火権現が描かれている。焼火権現は航海安全の守護神・焼火大神と比奈麻治比売命を合祀したもので焼火大権現ともいう。比奈麻治比売命は西ノ町の東北端近くにある比奈麻治比売命神社の祭神で、その神社は延暦18年(799)に隠岐国最初の官社となっている。後でそこも訪れる。

焼火神社の拝殿
本殿は享保17年(1732)に建設されたものであり、現在、拝殿と共に隠岐島の社殿では最古の建築とされている。文化財建造物保存技術協会によると、一間社流造、正面軒唐破風付、正面通殿間庇、片流れ、東側面唐破風造、銅板葺。当時としては画期的な建築方法で、大坂の大工・鳥居甚兵衛により大坂で基本的な木造りをし、米子の大工が現地で組み立てた。今でいうプレハブの走りとでもいえる。平成4年には国の重要文化財に指定された。城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年籠りの時には千人ほどの参詣人が火を持ちながら屯したり、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝したとの記録も残っていて、現在は客殿という場所にその名残をとどめている。文化財建造物保存技術協会によると、拝殿は延宝元年(1673)建設で、桁行四間、梁間三間、入母屋造妻入、向拝一間、軒唐破風付銅板葺で、本殿より古い。拝殿と本殿の間にある通殿は、桁行二間、梁間一間、一重、唐破風造平入り、銅板葺で、明治35年(1902)の建設である。明治時代、焼火神社宮司・松浦斌(さかる)は、私財を投じて隠岐と本土を結ぶ隠岐汽船の開設に尽力した。そのため隠岐汽船のマークは、焼火神社の神門と同じ三つ火紋である。

焼火神社の本殿

明治の神仏分離廃仏毀釈以前の江戸期には、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)を祀る焼火山雲上寺という寺で、『島前村々神名記』には「手力雄命左陽、万幡姫命右陰」とあり、伊勢神宮皇大神宮と同様の3座だったが、明治以降、大日孁貴命を祭神とする焼火神社となった。『隠岐島の伝説』によると、天鈿女命を従えた天照大神は、西ノ島の最西端・三度の「鯛の鼻」の北にある「大神」という海の「立島」に降臨した。やがて三度湾の南の長尾鼻にある生石島に上陸した。そこで人影を見かけたので三度も探したため、三度という地名になった。人影は何回もお迎えに出ていた猿田彦命の姿だった。大神は鎮まる場所を探して手紙を書いて空に投げ上げたところ、二羽の烏が口に咥えて焼火山を目指して飛んでいった。焼火山の神は手紙を神勅と受け止め大宮所を選定した。猿田彦命と天鈿女命は天照大神を焼火山の大宮所にお連れした。こうして焼火山は大神を祀ることになったという。日本書紀には大日孁貴命が本文に出てくる本名で、天照大神は一書にてようやく出てくる別名であるから、大日孁貴命が祭神であるのは本来の姿と思われる。

本殿左手前の境内社
本殿の左手前の藪の中にも境内社らしき社殿が見つけられたが、マムシに注意の警告が頭をよぎり、近づくことを躊躇わせた。正面には龍らしき彫刻が見られるので、龍蛇社だと思うのだが、残念ながら確かめられない。

キケマン
社殿脇の斜面にまたコミヤマカタバミが白い花を咲かせているのを見つけた。こちらの黄色い花はキケマン(Corydalis heterocarpa var. japonica)という越年草。関東以西〜沖縄の道端に生える。花は総状花序につき、長さ15-20mm。花期は4〜5月。似た花に、ミヤマキケマンやツクシキケマンがある。

眼下に弁天鼻
展望台より西を眺めると眼下に弁天鼻が認められる。その手前の波止集落にある焼火神社の鳥居近くに艫戸(ともど)という刳舟が保存されている。一艘のみ残存する貴重な民俗文化財である。焼火山は古くは大山と呼ばれ、北麓には式内社大山神社(祭神:大山祇命)がある。南東麓には、源頼朝に仕えた真言宗の高僧・文覚上人が頼朝の死後に流されて居住したと伝える文覚窟がある。墓所知夫村の天神山山頂にある。島前(とうぜん)は、630530万年前の火山活動で形成された、西ノ島、中ノ島、知夫里島により囲まれた島前カルデラ(火山性の陥没地形)で形作られているが、その中央火口が西ノ島町の焼火山である。

ダイセンミツバツツジ
こちらの鮮やかなピンク色の花は、ダイセンミツバツツジRhododendron lagopus)という落葉低木であろう。葉が出ないうちに花が咲く。隠岐はダイセンミツバツツジの分布圏内にあるが、日本海側に分布するユキグニミツバツツジも相当混じっているともいわれる。また、島根県天然記念物に指定されている焼火神社神域植物群では、九州にしか分布しないというサイゴクミツバツツジが見られるという。ミツバツツジの同定は極めて難しく素人には無理である。
 

玉若酢命神社

億岐家住宅
隠岐の島町(島後)の東半分を一周して中心地の西郷に戻る。玉若酢命神社のすぐ左手に億岐家住宅がある。玉若酢命神社の宮司を務める億岐氏の住宅で、享和元年(1801)に建てられたもの。建築年代のわかるものでは隠岐最古の社家住宅である。身分や用途によって入口が三つに分かれるという隠岐独特の大型民家建築である。神棚を祀る「神前の間」や「ミソギベヤ」など社家としての特徴を持つ。左に隣接する宝物館(古香殿)では国内に唯一残る駅鈴や隠伎倉印などの国の重要文化財が展示されている。駅鈴は、律令時代に官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。大化2年(646)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅においてこの鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させたという。現在残るのは、隠岐国駅鈴2口(幅約5.5cm、奥行約5.0cm、高さ約6.5c)のみとされる。隠伎倉印は、高さ5.8cm、印面方形6.2c×5.9cmの銅印。駿河国但馬国隠岐国だけに現存する正倉印の一つである。奈良時代、諸国において税を徴収し貯蔵しておく倉があり、正税を貯蔵するものを正倉といい、各郡家(郡役所)の近くに建てられていた。この正倉に貯蔵されている正税の出納の際に使用されたのが正倉印である。国司が所持し、出納事務処理に関して捺印したとされる。撮影不可なのが残念だ。
 

水木しげるの妖怪像「琵琶ぼくぼく」
玉若酢命神社の鳥居の脇に水木しげるの「琵琶ぼくぼく」という妖怪像がある。その右隣には「トカゲ岩の石」という岩がある。約600万年前の大規模な火山活動が終息した後、岩脈として古い地層に貫入した火山岩である。ナトリウムとカリウムが日本で最も高濃度で含まれるアルカリ成分を特に多く含んだ粗面岩で、大陸の岩石の特徴とされる。アノーソクレース響岩質粗面班岩とも呼ばれ、大きなアルカリ長石の結晶が特徴である。「トカゲ岩」は隠岐を代表する奇岩の一つで、島後の北東部の山奥の崖を這い上がるような姿の全長26mの奇岩である。

玉若酢命神社
玉若酢命神社は、隠岐国総社として創建され、古代より崇敬されてきた。毎年6月5日に行われる御霊会風流は、武良祭風流(中村)、水若酢神社祭礼風流(五箇)と並んで、島後の三大祭の一つである。御霊会の由来は、古代に遡る。大化の改新の後、国司制度が確立していった頃、諸国の国司は赴任すると、国内の神社を社格にしたがって巡拝し、天下泰平・五穀豊穣を祈願した。また、国内神霊を同一霊場に勧請集合させて、合同の御霊会を催すことが始められた。この合同の祭礼の場所が総社であり、隠岐国の場合は玉若酢命神社が選ばれた。祭礼のハイライトは馬入れ神事である。八地区の神馬は鳥居の前に待機し、大太鼓の合図と共に狭い参道を拝殿目指して駆け上がる。この馬入れにより各地区の神々は集合したことになり、総社としての祭礼が始まる。

隋神門
瑞垣に囲まれた神域の入り口に建つ隋神門は、嘉永5年(1852)の建立。入母屋造茅葺。桁行柱間は3間だが、八脚門形式ではなく、梁間は1間とする。

隋神門
通路の左右に随神像を安置する。平成4年(1992)に、本殿・億岐家住宅と共に国の重要文化財に指定されている。

八百杉
随神門をくぐるとすぐ右手に大きな杉の木が聳えている。樹齢は千年とも二千年以上ともいわれる。若狭国から来た八百比丘尼が参拝の記念に植え、800年後の再訪を約束したことから八百杉と呼ばれるようになったと伝えられる。高さ30m、幹囲11mで、国の天然記念物に指定されている。

玉若酢命神社の拝殿

玉若酢命神社の創建は不詳だが、式内社で古くは若酢大明神、総社明神とも呼ばれた。玉若酢命を主祭神とし、大己貴命須佐之男命・稲田姫命事代主命須世理姫命を配祀する。社伝によると、景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝える。当社の宮司を代々務める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。この島の開拓に関わる神と考えられるが、『記紀』には全く登場しない地方神で、語義は不明。島内北西部にある水若酢神社の祭神名とも共通する「わかす」の語から島の開拓に関わる神と推測されている。拝殿正面の唐破風に設けられた兎の毛通しの彫刻は、羽を大きく広げた鳳凰である。

玉若酢命神社の拝殿

日本三代実録貞観13年(871)条に「正六位上甤若酢神の神階を従五位下へ陞叙する」との記事があり、甤は花が垂れる様、または冠・旗などにつける垂れ飾りの意なので、これをタマと訓み、甤若酢神を当社のこととすると、この記事が資料上の初見となる。

旧拝殿
拝殿の左手に小さな古びた社殿が建っている。慶応2年(1866)建立の旧拝殿で、国の重要文化財の附として指定されている。

玉若酢命神社の本殿
玉若酢命神社の本殿は、切妻造茅葺、妻入。桁行2間、梁間3間の身舎の正面に檜皮葺きの片流れの向拝を付ける隠岐造。春日造と異なり、切妻屋根と庇屋根は一体化しておらず、構造的に別になっている。庇屋根下の虹梁上の蟇股は左から松、菊、竹の彫刻となっている。屋根の上の千木、堅魚木の上には、雀踊と呼ぶ横木が置かれ、素朴な中にも威厳のある建造物となっている。寛政5年(1793)の建立で、隠岐の島町の中では最古の神社である。平成4年(1992)に国の重要文化財に指定されている。

本殿妻飾り
本殿妻飾りの二重虹梁や蟇股に施された繊細な彫刻の意匠は特異で注目に値する。

八百杉
拝殿側から眺める八百杉は、遮るものもなく豪快に枝を伸ばしている。

若宮
拝殿右手前に若宮と思われる境内社がある。若宮は億岐氏の祖神・十挨彦命を祀る神社という。

玉若酢命神社古墳群
拝殿右手には、本殿裏手にある玉若酢命神社古墳群への案内がある。前方後円墳1基と円墳14基からなる古墳群である。
 
 

浄土ヶ浦海岸、大山神社、黒島

 

浄土ヶ浦海岸
布施集落の北側に浄土ヶ浦海岸がある。1kmに及ぶ複雑な海岸は島礁の数が多く、多島海岸風景は風光明媚な景勝地で知られる。

浄土ヶ浦海岸

浄土ヶ浦海岸は大きく4つの入江に分かれ、この一番左の入江は最もおとなしい白砂の海岸である。

ヤブツバキ
赤い椿は、ヤブツバキCamellia japonica)という常緑樹。日本原産で、東北地方以南の主に海岸沿いに自生している。国外では朝鮮半島南部と中国、台湾が知られる。高さは5〜10mになり、成長が遅い分、材は硬く緻密で細工物などに利用される。多くの園芸品種の母種でもあり、庭木にもよく植えられる。種子から取れる椿油は上質で、整髪用などに用いられる。

浄土ヶ浦海岸

二つ目の入江は険しい岩山で囲まれ、松の緑、海の青に彩られ、不思議な景観が楽しめる。この辺りは大昔、川の流路で、そこに火山の溶岩が流れ下り、その場で冷え固まった溶岩が固く、風雨の侵食に耐えて、尖った岩礁が残ったという。

浄土ヶ浦海岸
赤褐色の流紋岩安山岩、堆積岩が混在して複雑な地層を見せている。さらに右手(東)の崎山岬の崖には、約265万年前に噴出した厚さ10m程度の玄武岩溶岩が見られるという。しかし、土砂崩れによる通行止めが何箇所もあった。また、浄土ヶ浦の名は、一休宗純がこの地を訪れ、さながら極楽浄土のようだと謳ったことに因むという。

大山神社の鳥居
布施の集落から南西に細い林道を進むと、程なくして森の中の大山神社に着く。

大山神社の神木

二日前の4月第一日曜日に大山神社祭「布施の山祭り」が行われたばかり。山からカズラを伐り出す「帯裁ち」そのカズラを大山神社の神木に巻きつけ、山仕事の安全を祈る「帯締め」などから成る神事で、日本最古の山祭りといわれ、県指定の無形民俗文化財でもある。

神木の杉の巨木
神木の杉の巨木は、樹齢約800年といわれ、樹高45m、幹周7.1mである。

帯締め」の神事
帯締め」の神事は、カズラ(サルナシの蔦)を7回り半巻きつける。鳥居はあっても社殿はなく、山祭りが文献に初めて見られるのは江戸時代の寛文10年(1667)。布施の村が植林を始めたのは享保の時代(171636)といわれる。

二本のケヤキ
近くのケヤキは二本あり、樹高30m、幹周4.3mと、樹高32m、幹周4.5m。

黒島展望台
布施から県道47号線を南下すると、大久の手前で島後の東端、黒島埼辺りで黒島展望台に通りかかる。沖合に浮かぶ大久の黒島は、約350万年前に噴火した火山の火口であるが、島の形は火山らしい姿ではなく柱型の岩が並んだ様相を見せている。火口だった証拠は二つある。溶岩が冷える時にできる柱状節理が垂直に立つが、島の中央の右手に放射状に並ぶ場所があり、溶岩の噴出口とされるヒビの向きが一つ。もう一つは溶岩に含まれる他の岩石である。マントルゼノリス(マントル捕獲岩)と呼ばれる岩の比重が高く、火口近くでしか見られない大きさ(重さ)を示していることである。このゼノリスは地球内部を直接知ることができる貴重な資料で、隠岐諸島の成り立ちを探る鍵にもなる。

隠岐片麻岩
傍に展示されていた「隠岐片麻岩」は、約2億5000万年前にできた隠岐で最古の岩石で、岐阜県飛騨地方の飛騨片麻岩とともに、「日本列島の屋台骨」として重要視されてきた。隠岐では島前でも島後でも普通に見られるが、典型的な岩石は島後中心部にある銚子ダム周辺の崖で見られる。2000年代になってからのジルコンの年代学研究結果から、飛騨片麻岩も隠岐片麻岩も約2億5000万年前が最後の編成作用であるが原岩は違うことがわかった。隠岐の原岩には、①1918億年前の花崗岩や変成岩の岩体があり、②16億年前に土砂が集まってできた堆積岩があり、3億5000万年前〜2億5000年前の間に海底に溜まった土砂による堆積岩があることが考えられている。

クサイチゴ

こちらの白い花はクサイチゴ(Rubus hirsutus)という落葉小低木。高さはせいぜい数十cmしかなく、葉も草質でイメージとしては多年生草本に見える。岩手県以南の日本各地の山野に普通に生え、4〜5月に開花し、実は赤く熟し食べられる。

セイヨウタンポポ

長い間ユーラシア大陸と一体だった隠岐は、2600万年前頃、徐々に大陸から分離され、大陸と日本列島の間に日本海が誕生。約1000万年前まで隠岐の大部分は海底にあったが、600万年前の火山活動によって隆起し、陸地になった。その後氷河期の海面低下と温暖期による海面上昇で、隠岐島根半島と陸続きになったり離れたりを何度か繰り返す。現在のような姿になったのは、約1万年前のこととされる。つまり隠岐に生息する動植物は、1万年分の進化を遂げたものばかり。オキサンショウウオやオキホシミスジ(蝶)など絶滅危惧種などの隠岐固有種が豊富だが、その中で最も簡単に見られるのがオキタンポポ(Taraxacum maruyamanum)なのだが、こちらのタンポポセイヨウタンポポ(Taraxacum officinale)である。近年、隠岐諸島セイヨウタンポポが侵入・繁殖し問題となっている。見分け方は花の裏側の萼(総苞外片)を見て反り返らずくっついているのがオキタンポポで、こちらの右の花のように反りかえっているものがセイヨウタンポポである。かなり、繁殖しているようだ。

 





春日神社

春日神社の鳥居

隠岐の島町の東半分を一周する国道485号線を中村から南東に進むと布施集落に至る。隠岐では珍しい白い砂浜の海水浴場「春日の浜」に面する黒松林の中に春日神社がある。「日本の白砂青松百選」にも選定されている。樹齢350年を超える黒松が70本ほど群生し、「春日の森」とも呼ばれる。黒松の天然林としては全国で唯一、特別母樹林に指定されているが、近年はマツクイムシの被害で本数がかなり減っているそうだ。春分秋分の日には朝日が鳥居の真ん中に昇る感動的な瞬間を体験できる縁起の良い神社として知られる。

巨木の根株
鳥居を潜って境内に入ると、すぐ左手に大きな木の根が覆屋の中に安置されている。
これは昭和36年(1961)に黒松の樹高日本一を記録したことがある、60mに達する巨木の根株である。落雷で折れたという。

春日神社の拝殿
創建は1556年より前という。布施の山祭りは春日神社を出発して大山神社まで行く。西暦偶数年の4月第1日曜日に開催される。

春日神社の本殿
本殿は住吉造に千鳥破風と唐破風が付くというか、あるいは大社造で入り口が真ん中というか、どちらにしてもあまり見かけない特異で重厚な構造である。拝殿から幣殿、本殿と密に繋がっていて外から本殿の入り口は見えない。祭神は天児屋根命である。

本殿の妻飾り

 

珍しく、正面の鬼瓦には口の開いた「阿」の赤鬼が睨みを利かせている。妻飾りには猪目懸魚に似た蕪懸魚がつき、その周りには雲形の脇懸魚と降り懸魚があしらわれるなど装飾が派手である。隠岐造の水若酢神社本殿に負けず劣らず、大瓶束の脇の笈形もかなり大きい。

 

八幡神社と宵宮神社
本殿の左後ろには境内社が二つある。左の小さい方は八幡神社、右の大きい方は宵宮神社とあるが、詳細はわからない。

本殿後ろの石造物
同じく石造物が四つあったが、詳細は不明。

コミヤマカタバミ

黒松林には南方系のナゴランが咲き、海岸には北方系のハマナスが咲く。ナゴランは、中国地方では隠岐諸島にだけ自生し、黒松の幹に寄生する。この白い花はコミヤマカタバミ(Oxalis acetosella)という多年草。日本各地の深山の針葉樹林内に自生する。よく似た花にミヤマカタバミ(Oxalis griffithii)があるが、そちらは花が大きく淡い紫色の筋が目立つ。

本殿裏側の妻飾り

本殿の反対側の裏手には口の閉じた「吽」の青鬼が睨みを効かせている。裏側の妻飾りは表側より良く見えるが、こちらも意匠に工夫を凝らし装飾性が高い。

三つの境内社
本殿の右側にも三つ境内社がある。右から住吉神社、平島神社、□子大山とある。平島は布施の湾内にある無人島でウミネコの繁殖地である。3番目は詳細不明。