宝泉院
部屋の中から格子越しに鑑賞する鶴亀庭園と呼ばれる庭園もあり、抹茶を味わいながら一服するのもよい。客殿の脇には、理智不二(りちふに)と命名された珍しい二連式の水琴窟があり、二つの筒から異なる音色が聞こえる。生命原理とその働きが一つになる大調和の慈悲と智恵の世界を、密教の教理で理智不二というが、左右二つの異なる水琴窟の妙音を通してその調和の心を体感されたい、とある。
勝林院
欄間や蟇股などに彫り込まれた立体的な彫刻は当時の木彫技術の素晴らしさを今に伝えている。
欄間の彫刻も紅葉や松に鳥も加え、立体的に組み立てられている。上の蟇股には、人物が認められるので中国の説話を表現しているのだろう。勝林院境内には、山王社、観音堂、弁天堂、鎌倉末期の宝篋印塔、江戸初期の鐘楼、平安中期の梵鐘など見どころも多い。
実光院
本尊は地蔵菩薩像で、脇侍に不動明王像と毘沙門天像を安置している。江戸中期に狩野派の絵師により描かれた、中国の漢から宋の時代に至る歴代の詩人『三十六詩仙』が客殿に掲げられている。他にも中国の楽器編鐘(復元品)や磬石(讃岐石製の声明練習用の楽器)などが展示されている。
門の脇に園芸品種のツワブキの花が咲いていた。ツワブキ(Farfugium japonicum)は、キク科ツワブキ属の常緑多年層で、海岸近くの岩場などに生え、本州福島県、石川県以西、四国や九州、南西諸島に自生し、中国にも分布する。和名ツワブキ(石蕗)の由来は、艶葉蕗(つやはぶき)から転じたとの説のほか、厚葉蕗(あつはぶき)から転じたとの説もある。園芸品種も多く、黄色い大小の斑点が葉全体に散らばる星班ツワブキ(キモンツワブキ、ホタルツワブキ)などの斑入りや、クリームホワイト、朱色、レモン色など花色の違う品種もある。左の黄色い実が目立つ植物は、センリョウの園芸品種で、キミノセンリョウ(Chloranthus glaber f.flavus)という常緑小低木。センリョウは本州関東西部以西、四国、九州、南西諸島に自生し、中国、東南アジアにも分布する。花の少ない冬に美しい実をつけるため、正月の縁起物としても人気がある。その下に垣間見える小さな赤い実は、ヤブコウジ(Ardisia japonica)という常緑小低木。別名、ヤマタチバナ、十両。北海道奥尻島、本州以南の林内に自生し、朝鮮半島、中国にも分布する。冬に美しい果実をつけるので、古くから園芸植物として庭木や寄せ植えなどで愛されてきた。
大原三千院
三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、度重なる移転の後、明治4年(1871)現在地に移った。「三千院」「三千院門跡」という寺名は大原移転以降のもので、それ以前は円融院、梶井門跡などと呼ばれた。一方、境内にある往生極楽院は、平安末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂で、三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院である。
三千院の玄関口である御殿門は、高い石垣に囲まれ、門跡寺院に相応しい風格をそなえた政所としての城郭、城門を思わせる構えとなっている。
御客神社、平神社古墳
御客神社祭礼風流は、原田地区で西暦偶数年の3月21日に行われる春祭りである。3月1日の神酒開き祭から準備が始まり、当日は原田の集会所から御客神社まで行列して神幸し、神社の磐座の前で的射行事がある。的射行事では、宮司が作法に従い、カラスとネズミの描かれた小的を弓矢で射る。続いて氏子の中学生の中から選ばれた「脇神主」が弓矢で大的を射る。宮司や脇神主がその場で甘粥などをいただく饗膳もある。脇神主の的射が終わると、参拝者は縁起物として的の破片を持ち帰る。その起源は不明だが、年占いの行事で、その年の豊作を祈念し、潔斎や細やかな作法で行われている。また、大注連縄行事として、境内の2本の杉に注連縄を大蛇の形に作って渡し、その足元に御幣を供えている。
墳丘は2段からなり、表面に並べられた葺石と考えられる石や埴輪の破片が確認されている。それらや石室の形態から、この古墳が築かれた年代は6世紀後半頃とされ、隠岐の古墳でも最後期に築かれたことが推定されている。この周囲の八尾平野一帯は、7世紀に隠岐国府が置かれたと考えられており、隠岐国の成立を考える上でも重要な遺跡とされる。
これで、隠岐の4島巡りの旅が終わった。対馬・壱岐に劣らず古い歴史を誇る隠岐の神社は、隠岐造という本殿の建築様式のみならず、多種多様の祭式風流など独特の伝統を長く保存してきたので、興味の尽きない様相を示していた。古い神社は9世紀前半以前に遡る歴史を持つので、古代史に関心を深める意味でも貴重な見聞ができたと満足している。
この後は、年末年始の休暇をたっぷり摂ります。ではまた、来年まで。
油井の池、五箇創生館、郷土館
カタクリの里から西に進むと那久の集落に出る。那久川の上流には壇鏡神社と光山寺跡という史跡があるのだが、残念ながら途中の道路が崩壊していて通行禁止だった。光山寺の創建は宝亀年間(770-780)といわれ、平安時代に遠流となった小野篁が過ごした場所といわれる。小野篁は承和元年(834)遣唐副使となるものの、渡航しなかったことなどの罪により、承和5年に隠岐への遠流の刑に処された。配所は当初、島前の海士町豊田だったが、その後島後に渡り、光山寺に移った。承和7年(840)に許されて帰京した。隠岐への船出の際に詠んだとされる和歌「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」が有名である。光山寺の二代目の慶安という僧が夢告を受け、険しい横尾山中を彷徨っていると、目前に大きな滝が現れたと伝わる。それが壇鏡の滝である。その上の源来の滝の上に一つの神鏡を発見し、それを祀ったのが壇鏡神社である。創祀年代は不詳だが、平安時代と推定されている。主祭神として、瀬織津比咩命、大山咋命、諾浦姫命、事代主命を祀る。
那久から北に向かい、横尾トンネルを抜けると油井の池がある。標高約50mに位置した直径約250mの円形の池で、大部分が湿性草原となり、池の中央部は草木が生えているが浮島になっている。33種類のトンボなど貴重な動植物の生息地となっている。
隠岐郷土館内には、へぎ遺跡や大城遺跡からの出土土器や漁具や民具などが展示されている。所蔵資料総数は約3,000点、そのうち漁撈用具、山樵用具などの生産用具674点が国指定、家具調度、衣服装身具など691点が県指定のそれぞれ民俗文化財になっている。