半坪ビオトープの日記

種子島開発総合センター鉄砲館

種子島開発総合センター鉄砲館、旧石器時代
西之表市にある種子島開発総合センター鉄砲館では、戦国時代にポルトガルから伝わった火縄銃をはじめ、古式銃を多数展示し、日本の鉄砲の歴史を紹介している。その他、種子島の自然、歴史等の資料も多数展示している。まずは、旧石器時代。約3万5千年前(後期旧石器時代)、種子島に最初に人が住み始める。代表的遺跡は横峯C遺跡と立切遺跡である。種子島縄文時代(約16,0002,500年前)も個性あふれる時代であった。

旧石器時代縄文時代の遺跡分布
主な旧石器時代縄文時代の遺跡分布図を見ると、種子島の全島に分布していることがわかる。丸木舟もそれを作る道具の丸ノミ形石斧も発見され、島外交流を示す黒曜石も出土することから、南北交流が盛んに行われていたことがわかっている。

縄文時代の石器や石鏃
黒曜石は種子島には産しないが、大分県姫島や佐賀県腰岳、鹿児島本土の三船・日東産の黒曜石で作られた石鏃が発見されている。国内最古級のものもある。鬼ヶ野遺跡からは、縄文時代草創期の石鏃が約400点出土し、この時代として国内最多となる。
 

鬼界カルデラ噴火と「サンゴ石」
今から約7,300年前、九州最南端から約40km、現在の薩摩硫黄島竹島付近で海底火山(鬼界カルデラ)の大噴火が起きた。大量の火砕流種子島大隅薩摩半島に一瞬で押し寄せ、南九州の縄文集落は壊滅状態となった。鬼界カルデラ噴火に伴う地震津波により、海底から馬毛島に運ばれた「サンゴ石」が数十個確認されている。

縄文時代の石棒、石製装身具など
縄文時代種子島からは、石棒、玦状耳飾り、ヒスイ大珠、勾玉形石製装身具のほか、用途不明の石製品など独特な品々が出土している。三本松遺跡から出土した、約1万年前の土器片から7点のコクゾウムシの圧痕が発見され、世界最古とされている。

弥生時代種子島
弥生時代種子島は、縄文時代の習慣が続き、狩猟採集・漁労生活を行い、貝塚が形成されていることから、本土の弥生文化とは大きく異なっている。しかし、弥生時代の三大要素である「稲」「鉄」「織物」の遺物が遺跡から出土していることから、本土との交流が行われていたと考えられている。種子島弥生人の人骨の特徴は、頭が小さく、身長も低く、頭の横が少し張り出すという南島人特有の形質が見られるという。

弥生・古墳時代の遺跡
種子島の主な弥生・古墳時代遺跡分布図を見ると、前日に見学した国史跡の広田遺跡から大量の人骨と貝製品が出土している。種子島の西に浮かぶ小さな馬毛島の椎ノ木遺跡からは、弥生時代終末期から古墳時代にかけての人骨及び貝製品、特有な土器が出土している。
日本書紀』によると、初めて「多禰嶋」の文字が登場したのは、天武6年(677)2月の記事で、「種子島の人たちを飛鳥寺の西の槻(けやき)の下でもてなす」とある。西之表市上西の大広野神社に御神体として祀られていた古鏡5点のうち、「海獣葡萄鏡」は奈良時代に中国から伝わったものを真似て日本で作成された日本南限の鏡と推察されている。

種子島家文書
種子島家に関する古文書は、種子島正統系図20冊、種子島家譜89冊など189冊が残され、「種子島家文書」として県文化財に指定されている。種子島家譜は、初代信基から27代守時まで、約700年間にわたる種子島の政治・経済・年中行事などを記録した資料である。それによると、初代信基は、平清盛のひ孫で、父行盛が壇ノ浦の戦いで敗北し、まだ幼い信基は母とともに鎌倉へ逃れていたところを、北条時政に助けられ養子となり、時信と名乗った。その後、時正の執奏により、南海十二島の領主となった。その頃「太刀一振り」と「三つ鱗の紋」も与えられ、後に信基にあらためている。

種子島家譜
種子島14代時堯(ときたか)の時代に鉄砲が伝来した。19代久基が琉球王国に甘薯を送ってもらったのが、日本での甘薯栽培の始まりであった。種子島の女の殿様「松寿院」は、薩摩藩島津斉宣の二女であり、14歳で種子島23代久道と結婚したが、32歳の時に死別した。長男も早死にしたため世嗣がおらず、藩主の命令で松寿院と名乗り、長きにわたり種子島の政治を行った。大浦川の川直し、平山大浦塩田の開発、赤尾木港の波止修築は、松寿院の三代事業といわれた。

七尋五葉の切り株
七尋五葉の切り株は、胸高周囲約12m、樹高約32m、推定樹齢約500年、和名はヤクタネゴヨウという。昭和22年にシロアリの食害により伐採された。ヤクタネゴヨウは成長が早く、加工しやすいので丸木舟材として利用された。上の幹の部分はレプリカである。

種子鋏
種子島を代表する工芸品である種子鋏は、鉄砲伝来と同時に同船していた中国人の鋏鍛治により、中間支点式の唐鋏が伝来したという。製法は、軟鉄に刃綱を鍛接するツケハガネ作りで、日本刀の製作技法を取り入れたものであり、鍛治職人達により改良が加えられながら廃刀令以降も島で生産が続けられた。

鉄砲伝来
1543年にポルトガル人により鉄砲が種子島に伝えられたことは大きな意義を持つ。唐、天竺までが世界と思っていた日本人に全く異質なヨーロッパという世界を知らしめたことである。また、ヨーロッパが生み出した鉄砲という科学技術が日本人も制作できる普遍的な技術だということを知ったことでもある。近代工作機械のない時代に捲成法により鉄パイプ製作術を知り、ネジの作用を知ったことも科学技術史上画期的なことだった。群雄割拠の戦国時代にいち早く鉄砲の戦略価値に目をつけたのは尾張織田信長だった。長篠の戦い1575)で圧倒的な勝利を収めたことを知った戦国大名達は、競って鉄砲の調達に努めた。

鉄砲の種類
鉄砲の種類も細筒、小筒、大筒、短筒(馬上筒)、連筒など多岐にわたる。中には棒火矢という、ロケットのような棒状の弾の中に火薬や油を詰め、遠くへ飛ばして火災を起こし敵陣を焼き払うものも考案された。

絶滅したウシウマ
絶滅したウシウマの骨格標本も展示されている。ウシウマとは、種子島などで飼育されていた日本在来馬の一品種で小型の家畜馬だった。1598年、慶長の役で明軍が使役していたものを島津義弘朝鮮半島から10頭持ち帰ったのが始まりともされるが、その起源には不明な部分が多い。同様の貧毛型の馬は、アジア中部からヨーロッパ南部にかけてしばしば見出されるため、蒙古馬の突然変異とも、ヨーロッパ産、中東産ともされるが、はっきりしない。明治初頭に約60頭まで増加したが、その後減少し、1946年に絶滅した。骨格標本はここと鹿児島県立博物館の2ヶ所のみに保管されている希少なものである。