半坪ビオトープの日記

花巻市文化財センター、胡四王神社、花巻市博物館

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岳妙泉寺の不動三尊像
早池峰神社の次に寄った花巻市文化財センターにも、嶽妙泉寺や早池峰神楽関係の展示があった。岳妙泉寺と新山堂の絵地図の下に並ぶ不動三尊像は、神仏分離令後、岳妙泉寺の庫裡の軒下で雨ざらしになっていたもので、相当傷んでいるが往時の面影を伝えている。岳妙泉寺の本尊は不動明王で、脇侍として制多迦童子矜羯羅童子を従える。制作者は京都建仁寺町通に住む仏師・志水法眼隆慶で、仏像は京都・大阪から海路を進み、大槌で陸揚げされ、遠野を経由して大迫まで運ばれたという。

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大償神楽の権現舞獅子頭
大償(おおつぐない)神社は、早池峰神社のある岳より12kmほど下流にあり、今でも大償神楽を伝えている。昭和初期まで、岳や大償の神楽衆は山に雪が降る霜月ごろ、岩手県内の稗貫・上閉伊・和賀・江刺などの各郡の家々を権現様と称する獅子頭を携えて廻り歩き、夜は宿で神楽を演じた。これが権現舞獅子頭であり、周りには神楽に使う鳥兜・扇・剣・バチ・笛・手平鉦・クジなどの道具類が並べられている。左にある白い「クジ」は、祈祷の舞の時に左右の中指に御幣状に切った白紙を指輪のようにはめて舞う。クジの呪力は一般にも信じられていて、お産が軽い、怪我の時に血止めになる、家畜の病気が治るなどと信じられていたという。

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神楽面
神楽面がずらりと並べられている。山の神の面が、岳神楽では口を地じた「吽形」、大償神楽では口を開けた「阿形」である他は、ほとんど差はないといわれる。また、面をつけて舞う演目と、面をつけずに素面で舞う演目がある。男神・女神・荒神・座頭・道化・動物など神が特定されずに色々な演目で兼用される面と、翁・山の神・猿田彦命牛頭天王など演目が限定される面がある。

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様々な土偶
花巻市内には、旧石器時代から縄文・弥生時代、古代・中世・近世に至る1,000ヶ所にも及ぶ埋蔵遺跡があり、それらからの出土品が数多く展示されている。主な遺跡として、不動遺跡・久田野遺跡・小瀬川遺跡・安俵遺跡・清水屋敷遺跡・田屋遺跡・安堵屋敷遺跡・立石遺跡などがある。特に立石遺跡は、昭和52年(1977)の発掘で、縄文時代後期の配石遺構(ストーン・サークル)や当時全国一の出土数となった土偶、多種多様な祭祀遺物が出土して「縄文の祭祀博物館」と呼ばれるなど、日本を代表する縄文祭祀遺跡の一つといえる。遮光器土偶・妊婦土偶・髪型や服装がわかる土偶など様々な土偶が出土し、土偶祭祀を考察する上で貴重なものが多い。

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胡四王神社の石造鳥居
花巻市矢沢の胡四王山(176m)に胡四王神社があり、麓の釜石線を渡った先に石造の鳥居がある。山頂にある胡四王神社は、大同2年(807)の坂上田村麻呂東征の際に、将兵の武運長久と四民の息災安穏を祈願したのが始まりと伝えられる。祭神は大己貴命少彦名命である。胡四王とは、国の守護神四天王のことで、古代、東北において律令国家が支配領域を拡大した時期に郡の北方に祀られたという。

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胡四王神社の社務所
鳥居の先には胡四王神社の社務所が建っている。

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蘇民祭の看板
社務所の向かいの小屋には、蘇民祭の看板がしまってあった。毎年1月2日に行われる蘇民祭は、花巻地方に原因不明の難病が流行したことから、蘇民将来の説話譚に基づき、慶応元年(1865)より始められた。戦後しばらく途絶えていたが、昭和49年(1974)に復活した。無病息災・家内安全・五穀豊穣などを願って麓の遥拝殿での祈念祭に始まり、白鉢巻姿に褌、腰に注連縄を巻き、白足袋・草鞋ばき姿の裸祭に続き、山頂拝殿前に松明を灯し、境内を清める浄化祭を経て、蘇民袋を巡って奪い合いを繰り広げる一大郷土行事である。

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朱塗の明神鳥居
社務所の右手には朱塗の明神鳥居が建っている。

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苔むした石段
鳥居を潜るとさらに右手に、かなり急勾配の苔むした石段があり、恐る恐る上っていく。

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オニシモツケ
左手には鮮やかなピンク色の花が群生していた。オニシモツケFilipendula kamtschatica)という多年草。北海道と本州中部以北の深山の沢沿いなどに生える。葉は茎に数枚が互生し、頂小葉が特に大きく、掌状に5裂し、裂片は鋭く尖り、縁には重鋸歯がある。花は径6〜8mmで散房状に多数つき、白色またはやや紅色を帯び、花弁は5個ある。これほど色濃い赤花種は珍しい。

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古びた鳥居の先の小さな社
石段が分からないほど草が生い茂り、近頃人が歩いた形跡は見えない。それでも古びた木製の鳥居の先に小さな社が建っていた。道が崩れてこれ以上上れない。

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石段が崩れた表参道
左手にはさらに上に行く崩れた石段があったが、この道も近頃人が歩いた形跡は見えないので引き返した。後で調べたところ、この道が表参道なのだが、山の東南側に舗装された東参道ができたため、使われなくなっていたようだ。その道を車で行けば楽に胡四王神社の社殿に着くことができたのに残念だった。

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花巻市博物館

その東参道の近くにあった花巻市博物館を訪れた。花巻市文化財センターと同様、考古遺跡から発掘された出土品や古文書等が数多く展示されていた。今から約2〜3万年前の旧石器人が使った、石斧・たたき石・石核・剥片石器が、宿内遺跡から発見された。当時は氷河時代にあたり、日本はアジア大陸と陸続きとなっていて、人々は大陸から渡ってきたオオツノジカやナウマンゾウなどの大型動物の群れを追って生活していたと考えられている。

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旧石器時代のさまざまな石器
石鏃(矢じり)・磨製石斧・削器・掻器(スクレイパー)・接合資料など当時の生活の様子を生々しく伝える品々が、何万年も残されて目の前に現れていることに驚く。

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笹間館跡出土の中国製貨幣
笹間館跡出土の貨幣は、7世紀から15世紀にかけて中国で造られたもので37種類514枚ある。笹間館は和賀氏の主要な城館だったと思われるが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥羽仕置にて、和賀氏が所領没収となった際に破却されたと推定されている。

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「稗貫状」
この古文書「稗貫状」には、永享7年(1435)から翌年に、稗貫・和賀郡内に起きた争乱(和賀の大乱)の様子が記されている。和賀氏と須々孫氏の争いに稗貫氏が介入して始まった争乱に、北の南部氏や南の葛西氏・大崎氏も加わり、稗貫郡内で大規模に繰り広げられた。最後は南部氏の仲介で和賀氏と稗貫氏との和議が成立したという。

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本居宣長の「古事記伝

これは本居宣長の著した「古事記伝」である。全44巻の古事記の注釈書で、版本としては寛政2年(1790)から文政5年(1822)にかけて出版された。

これで、6月下旬の秋田・岩手の旅を終えた。