板敷鼻は、東シナ海に沈む夕陽を望む人気スポットになっている。釣りの名所にもなっているという。
種子島最北端の喜志鹿崎には、喜志鹿崎灯台が建っている。大隅半島の佐多岬との間は大隅海峡と呼ばれ、国際海峡に指定されていて、各国の船が自由に航行できるため、大型タンカーや豪華客船の往来なども目にすることがある。
大隅海峡の向こうには佐多岬をはじめとする大隅半島が大きく横たわり、稲尾岳(930m)などの山並みが見える。山並みが右で途切れた辺りに内之浦宇宙空間観測所がある。
喜志鹿崎灯台から国道581号に戻りそのまま横切って南に進むと、国上地区の奥に奥神社が鎮座している。奥神社の森は御山といい、島主家の鹿倉(鹿狩りをする場所)の一つで、奥神社は島主狩猟の神として崇拝されてきたので、各村々にも勧請され、各村の行司はそこへ参って御山を遥拝したという。
古記録によると、種子島の最北端である御崎(貴志加美と号す、喜志鹿崎)と最南端の御崎(加登久良と号す、門倉岬)には、種子島を潮風災害から守り、五穀豊穣と島の平安を祈願するため、一対の神様が祀られていると記されている。この御崎(喜志鹿崎)に祀られていたのが、「喜志加美権現」で、喜志鹿崎の名前の由来となっている。この「喜志加美権現」は、現在は国上奥神社に合祀されて山神と海神を相殿に祀る独特の佇まいを示している。奥神社の拝殿脇にはアコウの巨木がある。地上7〜8mほどのところからたくさんの気根が垂れ下り、その横幅は8m前後に広がって、蛸足の如くである。
大宝2年(702)、42代天武天皇の御代、多禰国が創置された時、朝廷の官人が大内山(藤原宮)から皇子に伴い国上のこの地に赴任し、聖地を定め神を祀り、宮中神道の祭式に則り、国府設置を告げる祭祀を斎行したことに始まるといい、国上奥葉山に鎮座する。祭神は大山祗神、木花咲耶姫神(産土神)で、大綿津見神、大国玉大神を合祀する。境内には切り立った自然石がたくさん置いてあり、拝殿の奥には砂が敷き詰められ、珊瑚礁の祠と石の祠が祀られている。
拝殿の脇にウラシマソウにそっくりの花を見つけた。ナンゴクウラシマソウ(Arisaema thunbergia subsp. thunbergii)という。広島、山口、四国、九州に分布して、佐賀県以北のウラシマソウと住み分けている。ウラシマソウよりやや小さいというが、並べることはできない。
さて、先ほど訪れた西海岸の大崎漁港の近くに建っている、大崎塩屋神社を最後に訪れた。建仁年間(1201-04)、鎌倉在中の平信基が島主として種子島入りした時、貝太郎・貝次郎・貝三郎を名乗る製塩集団を伴って来た。これにより島に初めて鎌倉伝の網代釜による製塩が始まり、ここ大崎から島内二十塩屋浦を数えるまでに発展した。
塩屋は天照大神を主神に、陪神に塩土翁命、眷属神に貝太郎等を祀る浦も多い。中でも大崎は島主家との縁由が深く、社殿に三ツ鱗紋の軒瓦を許された唯一の塩屋であった。製塩は明治38年、塩専売制施行まで続いた。塩屋神社の神棚には伝説の酒樽が置かれている。大正6年11月、長崎県から約3日で種子島の大崎海岸に流れ着いたとされる酒樽で、「奉納天照大神長崎県樺島村杉田増次」と墨書されていたという。
塩屋神社では昔から火入れ祈祷の儀式がある。易者(占い師)がいい日を選び、当日は早朝から男子は全員塩屋に集合し各々の持ち場についた。まず窯の安全を祈祷した後、祖先伝来の摺火の術で火を起こし、海水を汲み入れて窯の善し悪しを調べた。夜の酒宴では大盃数個を盆に並べ焼酎を満々と盛って廻し飲みをしたという。拝殿虹梁の彫刻も波を主題にして素朴だが興味深い。海老虹梁も尺取り虫型の反りが強調されている。
拝殿の後ろに続く本殿もかなり古くなってはいるが、よく見るとかなり重厚にできている。海老虹梁や蕪懸魚、妻飾りの蟇股などもきちんと趣向がなされている。完成時の姿はさぞ荘厳だっただろうと推察できる。本殿の奥にも祠が見える。