亀津には、徳之島町立郷土資料館がある。徳之島の歴史や文化や自然などを紹介している。歴史は、あまみゆ(奄美世)から始まる。天城町の歴史民俗資料館でも見たように、旧石器時代から人が住み、縄文〜弥生時代には共同体を形作っていたとされる。徳之島の名が初めて史書に登場するのは、『続日本紀』に書かれた「文武天皇3年(699年)、多禰・掖玖・奄美・度感等人、方物を献じ位を授かる」という文で、この「度感島」が徳之島を指すといわれる。これら南の島々は当時の遣唐使の航路・南東路にあったことから、朝廷は太宰府の管轄下において交流を図ったが、遣唐使が別の航路を通るようになると関心は薄れていった。824年には大隅国に併合されたがあくまでも名目上のもので、実質的には無所属の状態になった。それ以降、奄美の島々は琉球王朝の支配を受けるまでの600年余り、日本の歴史資料から姿を消してしまった。手前の石器は、徳之島町花徳の城畠(うすくばて)遺跡から出土したもの。城畠遺跡では、約2500年前の竪穴住居跡が9軒見つかり、珍しい「X」の文様が刻まれた土器や石斧などの大量の石器が出土した。
奄美の島々では、11・12世紀頃が最も按司が活躍した時代で、あじゆ(按司世)と呼ぶ。按司は小豪族の首長で、本拠をグシク(城)という。按司の時代の遺跡から出土した、日本本土で古墳時代から平安時代にかけて作られていた須恵器に似た陶質土器は、伊仙町亀焼(かむいやき)で発見された古窯跡群に因み、カムイヤキ須恵器と呼ばれる。琉球王府により採録された「おもろそうし」にも徳之島のことを詠んだ歌が載っているという。
琉球王朝の支配下にあった時代をなはゆ(那覇世)という。いつからかは不明だが、1429年に琉球を統一した第4王統の時代には実質的に支配されたという。そして1609年の薩摩藩による琉球侵攻まで続いた。のろ(祝女)は神事・祭祀を司る女神官で、一種の霊力を持つと信じられていた。琉球第5王統の尚真王(1478-1527)は、間切ごとにのろを置いて、古くからの民間信仰を体系化した。琉球侵攻後、薩摩藩は琉球王にのろの任命を禁じたが、その後も信仰は長く残り、奄美の島々にはのろ祭祀の一つである「浜下り」などが多く残されている。
薩摩藩による治世はさつまゆ(薩摩世)とされ、1609年の琉球侵攻から1875年に戸長制が布かれるまで、266年に亘り薩摩藩の直轄により圧政が続いた。奄美5島を直轄領とした薩摩藩は、大島に奉行を、徳之島に代官を置いた。黒糖製造が始まると、できた砂糖を藩が全て買い上げる政策などを次々に打ち出した。1830年の「第二次総買入」は最も過酷で全てを搾取し、「砂糖地獄」と呼ばれる時代になった。薩摩藩は砂糖で財政を潤し、やがて明治維新をリードする雄藩になった。
明治維新後はやまとゆ(大和世)という。1871(明治4)年の廃藩置県で薩摩藩は鹿児島県になったが、徳之島で事実上藩制が廃止されたのは1875年だった。新政府が断髪を布告しても旧来の姿のままの人が多かった徳之島では、亀津村の有志たちが率先して断髪し範を示した。それを「亀津断髪」という。そうした進取の精神を発揮した亀津村は教育に熱心で、明治以降多くの著名人を輩出し、大正初期には東大出身者数日本一を誇るようになり、「亀津学士村」と呼ばれた。第二次世界大戦では、飛行場があった徳之島は1万機以上の空襲を受け、連日の爆撃にさらされた。戦争末期、知覧町の特攻基地を飛び立った特攻機は、徳之島浅間飛行場近くに置かれた秋山特攻兵団基地に着陸後、燃料補給を受けて翌朝未明に沖縄に向けて飛び立った。