半坪ビオトープの日記

奈良

中之坊の庭園「香藕園(こうぐうえん)」は、古くから大和三名園(竹林院、慈光院と)と賞される池泉回遊式兼鑑賞式庭園で、史跡、名勝の指定を受けている。鎌倉時代に起源を持ち、桃山時代に完成し、江戸初期に改修された。心字池に亀島などの出島が配され…

当麻寺には平安時代に四十余房、江戸時代にも三十一房の僧坊があったと記録されるが、中之坊は筆頭寺院として最も古い由緒と高い寺格を持つ。 右に本堂があり、こけら葺きの書院の向こうには、東塔が見える。書院と塔のあいだに庭園がある。 当麻寺が開創さ…

当麻寺の塔頭・西南院は、当麻真人国見が麻呂子親王によって草創された万法蔵院を、白鳳12年、百済の僧正恵潅を導師に迎え当麻寺として遷造した時、坤(裏鬼門)の守り寺院として創建されたのが始まりである。その後、弘仁14年に弘法大師が留錫した時よ…

当麻寺の山号は二上山、法号は禅林寺という。現在信仰の中心になっているのは本堂の当麻曼荼羅だが、創建時の本尊は金堂の弥勒仏である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。 入母屋造、本瓦葺きの金堂は、鎌倉時代の再建で重文に指定されている…

最後に訪れたのは、当麻寺(當麻寺、たいまでら)である。当麻寺といえば、当麻曼荼羅を織り上げた中将姫の物語、折口信夫の「死者の書」を思い出す。二上山に夕日が沈むときに見た大津皇子の幻のために、藤原南家の娘、中将姫は一心不乱に曼荼羅を織り上げ…

聖林寺を有名にしたのは哲学者の和辻哲郎で「古寺巡礼」の中で、当時、奈良国立博物館にあった十一面観音菩薩立像の美しさを賞賛している。 明治11年(1878)に来日したアメリカの哲学者で東洋美術史家のフェノロサは、廃仏毀釈で日本中の寺院や仏像の半分…

談山神社から桜井に向かう途中に聖林寺(しょうりんじ)がある。伝承では、和銅5年(712)に妙楽寺(現在の談山神社)の別院として、藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺とともに大神神社(おおみわじんじゃ)とも関連が深い寺院と思…

赤目四十八滝と呼ばれるのは弥陀四十八願にちなんでいるが、実際にはそれ以上あるという。行者滝から最奥の岩窟滝までの約4.3kmに主な滝が22ある。代表の赤目五滝は、かつて信仰の対象にされた不動滝、千手滝、布曵滝、荷担滝、琵琶滝であるが、布曵滝…

香落渓を見たあと名張から少し戻り、赤目四十八滝に向かった。ここもまだ三重県名張市であるが、奈良県境に近く、室生赤目青山国定公園に指定されている。 忍者の隠れ湯ともいわれる赤目温泉のすぐ裏に、役行者の開基という延寿院がある。1300年前、役行者が…

室生寺周辺は太古の火山活動によって形成された場所で、そこに室生山がある。大和の日の出の山として知られる三輪山の麓に、桧原神社という古社があるそうだが、そこは古墳時代の初頭に太陽の神として天照大神を祀ったという。その桧原神社の真東にこの室生…

金堂と弥勒堂の一段上方には、本堂である灌頂堂がある。真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で、真言寺院の中心である。 延慶元年(1308)建立の五間四方入母屋造の桧皮葺きで、内陣と外陣を板扉で区画している。堂内中央の厨子には本尊の如意輪観音…

室生寺は真言宗室生寺派の大本山で、山号を宀一山(べんいちさん)と号する。「宀一」とは「室生」の略だという。「続日本紀」などによると、奈良時代末期の宝亀年間(770-781)時の東宮・山部親王(後の天武天皇)の病気平癒の祈願を室生で行った所、竜神の…

長谷寺よりさらに東、三重県境に近い奥深い山と渓谷に囲まれた室生の地に、山岳寺院である室生寺がある。 室生寺は江戸時代より現在まで真言宗だが、当初から江戸時代までは興福寺の法相宗であった。五代将軍綱吉の母、桂昌院のの力添えで真言種の寺院となっ…

本堂から五重塔へ向かう途中に一切経堂と本長谷寺がある。石段の上にある一切経堂は、拝観ができないようだ。 本長谷寺は、朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」(千仏多宝仏塔)を初瀬山西の岡に建てた最初の長谷寺であったが、明…

登廊を上がりきると本堂大悲閣がある。本尊の大きさに合わせて造営され、本堂内陣と礼堂外陣と懸造舞台が山に迫り出している。 本堂は創建以来幾度も焼失し、その都度再建されてきた。現存の本堂は、慶安3年(1650)に徳川家光の庇護を受け、5年の歳月をか…

仁王門をくぐると石段が本堂まで399段続く登楼がある。登楼は、春日社司中臣信清が観音様の霊験により子息の病気が回復したお礼に、長暦3年(1039)寄進建立された。現在の下、中登楼は明治22年の再建であり、屋根付きの登楼には八方(長谷型灯籠)が…

桜井市の東、初瀬(泊瀬)の地に建つ長谷寺は、全国に3000余りの末寺を擁する真言宗豊山派総本山で、朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」(千仏多宝仏塔)を初瀬山西の岡に安置したことに始まるという。朝早いせいか、あちこち…

この十三重塔は、白鳳7年(678)に創建され、承安3年(1173)に興福寺衆徒勢に焼かれた。その後、文治元年(1185)に再建され、享禄5年(1532)に修築されている。唐の清涼山宝池院の塔を模したといわれ、木造の十三重塔としては世界唯一という。高さは約…

藤原鎌足を祀る本殿は、大宝元年(701)に鎌足の木像を安置する祀堂として創建され、現存は嘉永3年(1850)に再建されている。三間社隅木入春日造の様式で、社殿全体が極彩色の模様や花鳥などの彫刻で装飾されている。日光東照宮の手本となったとして、関西…

桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山(たんざん)神社は、父、藤原鎌足の追福のため、唐より帰国した僧で長男の定慧と次男不比等によって墓を摂津から移し、白鳳7年(678)に十三重塔を建立したのが発祥である。 そもそも「多武峰縁起」によれば、飛鳥…

吉水神社から下った所にあるこの寺は、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺という。山号は塔尾山椿花院という。 延喜年間(910頃)に醍醐天皇の帰依を被った日蔵上人により創建され、後醍醐天皇が吉野行宮を定めたとき勅願寺となった。 延元4年(1339)後醍醐…

延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野の吉水院宗信の援護のもとにここを南朝の行宮とした。鎌倉時代初期のこの建物は、日本最古の書院造りで、奥行きの浅い床の間、四寸角に八分の面取り柱、木製の六葉型の釘隠しなど珍しい手法が数々見られる。 文治元年(1185…

金峯山寺から吉水神社へ向かう途中に東南院という寺がある。金峯山寺の巽(東南)の方角で、吉野一山の興隆を祈願する位置に建つ。開基は役行者と伝えられ、修験者の宿坊にもなっていたという。 東南院の多宝塔は、紀州野上に在ったものを昭和12年に移築さ…

金峯山寺の本堂である蔵王堂は、高さ34m、桁行七間、梁間八間あり、木造では東大寺大仏殿に次ぐ大きさで、重層入母屋造り桧皮葺きの堂々とした建物である。 現在の建物は天正19年(1591) に再建された室町末期を代表する建造物で、国宝に指定されている…

一月ほど前になるが、GWに奈良県南部の吉野山や長谷寺周辺を見て回った。ようやく整理できたので少しずつ報告する。 名勝吉野山とは、大峯山系の北端約8Kmの尾根である。 金峯山寺は、役行者開創と伝わる修験道の本山であり、行基が天平時代に蔵王権現を祀…