甲府盆地の東寄り、笛吹市にある釈迦堂遺跡は、1980年2月から81年11月まで、中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。その結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓、多量の土器、土偶、石器など30トンに及ぶ考古遺物が発見された。そして1988年に、それらを展示する釈迦堂遺跡博物館が開館した。
釈迦堂遺跡博物館の収蔵資料は、1116点の土偶をはじめとする全国有数の縄文時代中期の良好な資料として国の重要文化財(5,599点)に指定されている。こちらの大型土器は、縄文時代中期中葉(5,300〜4,900年前)、高さ381mm、幅205mmの深鉢型土器である。幾つもの断片に割れているが、ここまで組み立てた努力に驚く。
釈迦堂遺跡博物館は、2020年にはリニューアルオープンした。こちらの石皿と磨石も縄文時代中期(5,500〜4,500年前)のもので、石皿の横は420mm、奥行きは270mmである。
こちらは黒曜石製の石鏃。同じく縄文時代中期(5,500〜4,500年前)のものである。他にも水晶製の石鏃もあった。それは縄文時代早期末葉〜中期(7,400〜4,500年前)のものである。石鏃とは、矢の先につける石のやじりのこと。
こちらは縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の石匙。石匙とは黒曜石や頁岩、チャートなどで作った打製石器(剥片石器)の一種。動物の皮や肉、骨などの加工や、木や蔦など植物質の加工に用いた携帯型万能ナイフであり、スプーンではないので呼称を変更すべきとの意見もある。他にも土を掘る打製石斧や木を切る磨製石斧も展示されていた。
こちらの大型土器は、縄文時代中期後葉(4,900〜4,500年前)、高さ385mm、幅290mmの深鉢型土器である。釈迦堂遺跡出土の土器は、大型のものも多く、形態も様々で、飾りの文様にもいろいろな趣向が施されている。
こちらの土器は、縄文時代中期後葉(4,900〜4,500年前)、高さ145mm、幅268mmの浅鉢型土器である。
こちらは土製耳飾り。右手の縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の耳飾りは小さくてほぼ同じ形をしているが、左手の北杜市金生遺跡出土の縄文時代晩期(3,300〜2,400年前)の耳飾りは大型化し、文様も多種多様で個々人の趣向が生かされていると思われる。
釈迦堂遺跡では、1116点の土偶が出土し、全国の7%を占める。そのうち縄文時代前期のものが7個体、後期のものが1個体の他はすべて中期のものである。その数の多さ、形態の多様性が特色で、製作方法がわかったり、遠く離れて出土した土偶の接合関係がわかるなど、研究上欠かせない資料に恵まれている。土偶の部位別では、頭部が190点、胸部が168点、腕132点、胴から足にかけてが626点見つかっている。「しゃこちゃん」「しゃっこちゃん」との愛称がつけられたこちらの土偶は、いずれも縄文時代中期(5,500〜4,500年前)の土偶である。
縄文時代の草創期(16,000〜11,000年前)の土偶は顔や手足の表現はなく、乳房が強調された小さなものだったが、早期(11,000〜7,000年前)から前期(7,000〜5,500年前)になると、板状の土偶に変化する。釈迦堂遺跡出土の7点の前期土偶は、人の形を意識した板状土偶で、中でも頭部の4つの孔は顔の表現と考えられ、資料的価値が高いとされる。
この有孔鍔付土器とは、平らな口縁で、口縁下部を一周する鍔があり、鍔上部に均等に孔が穿たれた土器である。縄文時代中期の土器で、関東地方のものより中部地方のものが大型なので、山梨県や長野県が中心地と見られている。用途は太鼓説と酒樽説があり決着していない。このカエルの姿を貼り付けたような文様は非常に特異な意匠として注目される。右に見える釣手土器は、縄文時代のランプと呼ばれ、釣手が付いている。内面に煤がついているものもあり、儀礼時に使用されたと推測されている。