半坪ビオトープの日記

沙流川歴史館


平取町二風谷は沙流川流域の文化的景観の中心区域だが、二風谷アイヌ文化博物館のすぐ裏手、二風谷ダムによってできた二風谷湖に面して、沙流川歴史館が建っている。

アイヌ文化博物館内にあった沙流川流域のアイヌ伝承地マップによると、平取町内の地名はほとんどアイヌ語起源であることがわかる。平取はアイヌ語で「ピラウトゥル」(崖と崖の間の村)といい、二風谷はアイヌ語で「ニプタイ」(木の生い茂るところ)というが、二風谷付近は桂の木の密林だったといわれる。沙流川アイヌ語で「シシリムカ」(河口が砂で埋まる川)というように、大雨が降ると上流から大量の土砂が流れてきて河口が塞がったという。

館内には、沙流川流域の遺跡で発見された縄文時代や続縄文時代、擦文時代、江戸時代以前のアイヌ文化の時代の出土品、土器のほか金属器などが展示されている。
太古の昔、北海道は南から流れてきた二つの島が日高山脈で衝突し続け、溶岩が海水と接触してできた黒曜石の露頭が方々にある。北海道では黒曜石四大産地(白滝、十勝、置戸、赤井川)全てで「十勝石」と呼ぶように十勝山脈周辺に多く産する。石槍、スクレイパー、石鏃など、平取町内の遺跡からも多くの黒曜石が出土している。

北海道の中央部を南北に連なる中生代白亜紀地層(約1億3000万年前〜6500万年前)から、アンモナイトなどの化石が産出されている。沙流川流域の急流で川底が削られ、多くのアンモナイトが露出した。

展望ギャラリーからは裏手の沙流川が眺められる。二風谷湖の対岸の町有林は「イオルの森」と呼ばれ、オプシヌプリなどのアイヌの伝説地として語り継がれる露出岩があり、山菜・キノコ類の採取地として町民に親しまれてきた。

沙流川流域の遺跡は非常に多く、埋蔵文化財包蔵地とチャシ跡だけでも現在114ヶ所ある。縄文時代の土器も早期、中期、後期、晩期〜続縄文時代までと、8千年前から1400年前まで連綿と続いているが、土器形式に急激な変化はあまり認められず、同じ住民が長い間住み続けていて、文化や環境に変化が少なかったと考えられている。左端から右手へと時代順に展示されている。

左端の縄文早期〜後期、8千〜3千年前の土器の数は少ないが、石槍、スクレイパー、石鏃などの黒曜石が多く出土しているのは盛んな狩猟生活を想像させる。

カンカン2遺跡は、縄文時代の土器から擦文時代の鉄器や青銅器などが出土している。擦文時代(1400~800年前)は、7世紀〜13世紀頃(飛鳥〜鎌倉時代後半)にかけて本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化に取って代わられた。続縄文時代には土器に縄目の模様があったが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。木のヘラで擦って付けたと考えられて擦文と呼ばれた。

擦文時代には鉄器が普及し、刀子(ナイフ)は木器などの加工道具として用いられ、ほかに斧、刀、装身具、針などがある。

二風谷遺跡は、15世紀〜17世紀にかけてのアイヌ文化の遺跡で、北側にポロモイチャシ跡があり、南側のダム堤近くにユオイチャシ跡がある。建物跡が11軒見つかり、そのうち6軒で炉があった。ほかに道跡や送り場跡も見つかっている。

二風谷遺跡1号墓からは、漆器椀が出土している。遺跡全体の出土品は、漆器3点、陶磁器2点、金属製品77点、骨角製品37点、ガラス玉4点の計、123点となっている。
これでGWに出かけた北海道、道南一周の旅は終わった。白老から二風谷までアイヌ関連施設の見学が多かったが、北海道には縄文時代の遺跡・遺物も多くあり、アイヌ民族とのつながりに関心をそそられた。