半坪ビオトープの日記

真脇遺跡縄文館


九十九湾のリアス式海岸を西にたどると、最後の入り江の奥に真脇遺跡がある。縄文時代前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)までの約4000年にも及ぶ長期間営まれた遺跡で、国の重文に指定された多くの出土品を展示する真脇遺跡縄文館が建てられている。

遺跡は入り江奥の沖積低地の約1m下からさらに約3m下に亘って年代順に層を成し、発掘する資料が豊富なことから「考古学の教科書」とも呼ばれる。特に前期末から中期初頭(約5000年前)の層においては、300体を越える大漁のイルカの骨が出土し、イルカ量が盛んに行われたことが分かる。

イルカ層やその下から舟は出土しなかったが、ヤチダモ材の舟の櫂が出土している。同じ層からは、長さ2.5m、最大径45cmもあるトーテムポールのような巨大な彫刻柱も出土している。クリ材の丸太には、抽象的な彫刻が施され、イルカ送りの儀式などに使われたと想像される。

長期定住型遺跡である真脇遺跡では、土器型式でいうと23型式も存続し続けた。従来北陸で知られていた全ての型式が含まれ、新たに真脇式土器群も出土した。日本最大級の有孔鍔付土器(中期)、ランプ型土器(中期)、マムシを形象する装飾突起(前期)なども特徴がある。

2001年に出土した上山田式の把手付ランプ型土器は、長さ15.2cm、最大幅6cm、高さ3.5cmある完形品で、内側に煤状の付着があり、ランプに使われたことが分かるが、この写真のランプ型土器ではなく、もっと細長い皿形のものである。

「お魚土器」の愛称で知られる真脇式深鉢土器は、大きな筒型の波状口縁と粘土紐による細かい装飾が特徴の、縄文前期末葉の土器である。真脇遺跡の調査で初めて全型式がわかった北陸独特の土器だが、同時期に似た土器が関東や、遠くは秋田県あたりまで出土しており、縄文人の交流の様子をうかがわせてくれる。

こちらは縄文中期初頭の新保式鉢で、動物を形象した装飾突起が付いた、ご飯茶碗ほどの小さな土器である。小さな鳥に見えることから、愛称は「鳥さん土器」という。どちらの土器も国の重文に指定されている。

真脇遺跡では、縄文中期の貼床住居跡が見つかっている。いずれも床面に凝灰岩質の粘土が敷き詰められ、湿気を防いでいたと思われる。そうした住居跡近くの、中期中葉(約4500年前)の粘土層からは、東西南北に配置された、全国でも類例のない板敷土壙墓が4基発見されている。土壙墓にも凝灰岩質の粘土が一面に敷き詰められていた。敷かれていた板は、主にスギ材でクリやアスナロも認められたが、縄文時代では板そのものが珍しい。そのうち1基の土壙墓からは、大きな板の上に漆塗りの装身具とともに壮年期(20~30代)男性の人骨が出土している。

真脇遺跡から出土する石製品も、石棒、石刀、磨製石斧、石鏃、石槍、岩偶など種類も数もきわめて多い。中期竪穴式住居のそばに立てられていた大型石棒、後期初頭の最古の土製仮面、晩期の環状遺構などは、呪術的な精神活動の一端を示している。

真脇遺跡の縄文晩期の地層からは、巨大な環状木柱列が出土している。直径90cm以上のものから30cmくらいのものまで、真円配置で線対称形に並べて立てられていた。全てクリ材で、半分ではないかまぼこ状に割られ、平らな面を外側に向けている。さらに、少なくとも6回は同じ場所に立て替えられているので、なんらかの祭祀施設だったのだろうと推定されている。