耕地を開き水利を管理する水稲農耕は、縄文時代晩期後半に列島西部の沿岸地域に到来した。しばらくの定着期間の後に、本州北端にまで広がっていく。奈良盆地での弥生時代の始まりは、縄文ムラの生活圏のはずれに移住してきた弥生ムラが、縄文人との交流の中で、縄文ムラを弥生ムラに変化させながら進んでいった。その様子が、縄文晩期から弥生前期への遺跡の移り変わりを見るとわかる。
こちらには石庖丁や磨製石鎌、鋤の柄、片刃石斧、蛤刃石斧などの農耕用具が並ぶ。
橿原市内には弥生時代の遺跡が70ヶ所近くある。その多くが当時の生活と密接なつながりを持つ河川流域に位置する。寺川流域の坪井大福遺跡、曽我川流域の一町遺跡、飛鳥川流域の四分遺跡などは河川流域の平坦地や微高地上に位置している。一方、上ノ山、忌部山遺跡など丘陵上に位置する遺跡は高地性集落と呼ばれる。それらの遺跡の中で、弥生時代前・中・後期を通じ生活が営まれていた遺跡は「中心的集落」とされる。奈良盆地内には盆地南東部に7ヶ所想定され、5ヶ所が橿原市内に存在する。萩之本遺跡からは水田跡や川の流れを管理する灌漑施設が見つかっている。
左下には、弥生時代後期(2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の穂摘具、弥生時代前期(前3世紀〜前2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の石包丁、弥生時代中期(前1世紀〜後1世紀)御所市鴨都波遺跡出土の大形石包丁が、左上には、弥生時代前期(前3世紀〜前2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の長柄鋤未成品や広鍬などが、右手には流紋岩製石庖丁の製作工程が示されている。