半坪ビオトープの日記

橿原考古学研究所附属博物館4、縄文時代から弥生時代へ

縄文晩期から弥生前期への遺跡の移り変わり
耕地を開き水利を管理する水稲農耕は、縄文時代晩期後半に列島西部の沿岸地域に到来した。しばらくの定着期間の後に、本州北端にまで広がっていく。奈良盆地での弥生時代の始まりは、縄文ムラの生活圏のはずれに移住してきた弥生ムラが、縄文人との交流の中で、縄文ムラを弥生ムラに変化させながら進んでいった。その様子が、縄文晩期から弥生前期への遺跡の移り変わりを見るとわかる。

弥生時代前期の稲束と炭化米など
左下には、弥生時代前期(前3世紀〜前2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の稲束と炭化米が展示されている。他にも籾殻圧痕の残る土器や炊飯に使われた土器、壺や甕とその蓋が展示されている。

石庖丁、石鎌や石斧など
こちらには石庖丁や磨製石鎌、鋤の柄、片刃石斧、蛤刃石斧などの農耕用具が並ぶ。

石斧、石皿、石棒、サヌカイトなど
左手には打製石斧、敲き石、石皿、石棒が、右手には二上山産及び香川県金山産のサヌカイト原石、及び紀伊地域、東海地域の土器が並ぶ。

橿原市萩之本遺跡から見つかった灌漑施設
橿原市内には弥生時代の遺跡が70ヶ所近くある。その多くが当時の生活と密接なつながりを持つ河川流域に位置する。寺川流域の坪井大福遺跡、曽我川流域の一町遺跡、飛鳥川流域の四分遺跡などは河川流域の平坦地や微高地上に位置している。一方、上ノ山、忌部山遺跡など丘陵上に位置する遺跡は高地性集落と呼ばれる。それらの遺跡の中で、弥生時代前・中・後期を通じ生活が営まれていた遺跡は「中心的集落」とされる。奈良盆地内には盆地南東部に7ヶ所想定され、5ヶ所が橿原市内に存在する。萩之本遺跡からは水田跡や川の流れを管理する灌漑施設が見つかっている。

弥生時代後期遺跡出土の穂摘具、弥生時代前期遺跡出土の石包丁など
左下には、弥生時代後期(2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の穂摘具、弥生時代前期(前3世紀〜前2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の石包丁、弥生時代中期(前1世紀〜後1世紀)御所市鴨都波遺跡出土の大形石包丁が、左上には、弥生時代前期(前3世紀〜前2世紀)田原本町唐古・鍵遺跡出土の長柄鋤未成品や広鍬などが、右手には流紋岩製石庖丁の製作工程が示されている。

弥生時代の土器や食器などの木製品
左上には、弥生の土器が、右上には弥生時代の食器、梯子、杵、泥除けなどの木製品が展示され、ケースの手前には、弥生時代中期〜後期の井戸発掘の様子や、木材の水漬け貯蔵、鍬と鋤などの土木具、ドングリ貯蔵穴の様子が説明されている。

鉄斧やスクレイパー、弓と鏃などの狩猟具など
左手には、新たな加工具である鉄斧や打製石斧、磨製石斧、スクレイパー、右手には、弓と鏃などの狩猟具やシカ、イノシシの骨などが並ぶ。

装身具や紡錘車、台付壺や水差形土器など
左手には、勾玉などの装身具や織物の製作に使われる紡錘車(土製、石製)など、中央から右手には、流水文のある台付壺や水差形土器など様々な形の弥生時代の土器が並ぶ。