半坪ビオトープの日記

見附島、九十九湾


須須神社の高倉宮の祭神が高倉彦神とする考えがある一方、同じ珠洲市内の蛸島町に高倉彦神社があり、こちらが三代実録貞観15年に記載の高倉彦神であると由緒ではいう。今では能登一番の華麗さを誇る総漆塗りのキリコが繰り出される、秋祭りで知られる高倉彦神社だが、江戸時代から続くユーモラスな早船狂言も演じられる。
その蛸島の町並みをやりすごし、珠洲の市街地をさらに南に向かうと、町外れの海岸に見附島が現れる。浜辺には縁結びの鐘があり、「えんむすビーチ」と呼ばれている。

歩いて近づけるよう大き目の踏み石を首尾よく並べてあるが、この踏み石は見附島が永年風により削り取られ周りの海に埋もれていた岩を集めたものである。

島の姿が軍艦に似ているため、別名軍艦島とも呼ばれる。見附島は長さ約150m、幅約50m、高さ約30mの小島で、全体が珠洲市の特産物である七輪の原材料として知られる珪藻土でできており、島上に黒松、ナラ、クリ、カエデ、ツバキなどが生え、鵜やカモメの絶好のねぐらとなっている。島の左には文字通りの小島を携え鳥居も配置されている。

浜辺には見附の社がある。見附島は、空海弘法大師)が佐渡島からやってきて最初に見つけたことから命名されたという地名伝承がある。その昔、空海が唐から授かった密教伝来の三杵を探し求めて海路佐渡より能登沖を通ったとき、波の音とともに法華経を誦する声が聞こえてきたので島を頼りに着岸した。山の桜の木に、探し求めていた三杵の一つ五鈷杵(ごこしょ)が光り輝き白夜法華経を唱えているのを見つけた。空海は深く喜び、ここに一宇を創建して吼木山(ほえぎさん)法住寺と名付けた。それより島を見附島と呼び、縁結びの神を祀り、海難の守り神とともに小社を安置し、祭りには舟を繰り出し島上に上がり祝詞を奉じてきたという。

見附島の南に能登町の九十九湾がある。大小の入り江からなるリアス式海岸で、日本百景の一つに数えられている。東西1km、南北1.5kmの小さな湾だが、海岸線は13kmに及び屈折が多い。

箱庭のような九十九湾の海岸線美を楽しむ遊覧船は2ヶ所から出ている。湾の中央に蓬莱島という景勝地があるが、その島には鬱蒼としたスダジイや松や桂樹が繁茂している。穏やかな入り江のあちこちにイカ釣り船がいくつも停泊している。