半坪ビオトープの日記

熊野那智大社


熊野那智大社へ行くには、石畳が美しい苔むした大門坂の熊野古道をゆっくり歩いて登っていくこともできるが、車でバスターミナル脇駐車場まで行っても、やはり石段の参道を上らなければならない。

土産物屋が立ち並ぶ表参道を10分ほど上っていくと、左手に大社経営の宿泊所・龍泉閣の庭園がある。百十余度も行われた熊野行幸の際、上皇法皇の宿泊所となった実方院(実報院)の跡である。実方院はかつて、那智山の社僧・御師の僧院・僧坊として大勢力を誇っていた。

右手のオウバイが咲き乱れる石垣の上には、青岸渡寺の建物が見えてくる。

青岸渡寺のすぐ右下には、観世音菩薩が祀られている。熊野三山神仏習合の強い修験道場でもあった。明治初期の廃仏毀釈本宮大社・速玉大社では仏堂全てが廃されたが、那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに青岸渡寺として復興した。そのため熊野三山中最も神仏習合の名残を残している。ただ、この観音堂が昔からあったものかはわからない。

やがて表参道から青岸渡寺への道が右に分かれ、まっすぐ進むと左手に熊野那智大社那智山熊野権現の朱色が眩しい一の鳥居が構えている。

石段の参道を上り始めるとすぐ右手に、小さな摂社の児宮が祀られている。九十九王子の一社で、熊野詣での途上、奉幣や読経などの儀礼を行う場所とされる。

最後の石段を登りつめると、二の鳥居が近づいてくる。そこをくぐれば社殿が立ち並ぶ広い境内となる。

熊野三山の一つである熊野那智大社は、熊野夫須美大神を主祭神とし、かつては那智山熊野権現那智権現、那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと称した。創祀は不詳だが、元来、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後であり、熊野三山との記述は永保3年(1083)の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、三山共通の三社権現を祀っていたという。

平安時代後期には十二所権現を祀るようになるが、那智だけは別格の滝宮を加えて十三社権現と称した。大きな拝殿の後ろには、第一殿の滝宮から第五殿の若宮までの本殿が構えている。

拝殿の左手には、本殿の第六殿とされる八社殿が建っていて、その左手に並んで御縣彦(みあがたひこ)神社が建っている。八社殿は八間社流造で、祭神は禅児宮が忍穂耳尊、聖宮が瓊々杵尊、児宮が彦火火出見尊、子守宮が鵜葺草葺不合命、一万宮・十万宮が国狭槌尊・豊斟淳尊、米持金剛が泥土煮尊、飛行夜叉が大戸道尊、勧請十五所が面足尊を祀っている。

御縣彦神社は、一間社流造で、祭神は建角身命、別名・賀茂建角身命を祀っている。神武東征の際、道案内をしたことから八咫烏と同一視されている。鈴門に掲げられた幔幕には「ナギの小枝をくわえた2羽の八咫烏」が描かれている。

御縣彦神社の左手前では、八咫烏像を間近に見ることができる。古来より三本足のカラスとして描かれるが、『記紀』には八咫烏が三本足とは記述されていない。古代中国では三足烏の伝承は広く見かけられ、平安時代中期に同一視されて八咫烏が三本足になったとされる。
八咫烏像の左手には宝物殿がある。日本三大経塚の一つといわれる那智経塚から出土の「御正体」「御懸仏」「本地仏」「経筒」などの埋納品、「那智山参詣宮曼荼羅」「熊野権現曼荼羅」「那智大社文書」等の古文書絵画類や旧神像・仏像・古鏡等の工芸類など、貴重な資料がたくさん陳列されていて興味深い。

拝殿の右手には、平重盛の手植えと伝わる樹齢約800年、樹高27mの大楠がそびえ立っている。裏に回ると、根元の胴内をくぐり抜けられるようになっている。

大楠を回り込むと、拝殿後ろに並び建つ本殿の第一殿から第五殿を、左手の瑞垣越しに垣間見ることができる。祭神は一番右の第一殿滝宮が大己貴命飛瀧権現)、第二殿證証殿が家津御子大神・国常立尊、第三殿中御前が御子速玉大神、第四殿西御前が熊野夫須美大神、第五殿若宮が天照大神を祀っている。第一殿から第六殿までは、天正9年(1581)の堀内氏善との戦いで焼失した後の再建で、嘉永7年(1854)までに竣工している。各社殿の屋根はいずれも桧皮葺。第一殿から第五殿までの本殿は熊野造と呼ばれ、切妻造妻入りの社殿の正面に庇を設け、四方に縁を巡らした形式で、正面は蔀とし、簾を釣って鏡を掛けている。第四殿のみやや規模が大きい。これら六殿と御縣彦神社、鈴門及び瑞垣が国の重文に指定されている。