半坪ビオトープの日記

熊野本宮大社、結宮


新宮の神社を後にして熊野本宮に向かう。本宮に着く前に、熊野川の河畔で昼食をとった。幅広い河原が続くが、この先の上流に本宮大社がある。本宮大社明治22年(1889)の大洪水まで大斎原という熊野川の中洲にあったというが、これだけの幅広い河原をもつ熊野川が氾濫したのだから、想像を絶する大洪水になったのだろうと思われる。

熊野本宮大社は、熊野三山の中心で三山の中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気を漂わせる大社であり、新宮・那智とともに全国に3,000以上ある熊野神社総本宮である。一の鳥居の左手前にある八咫烏の大きな幟が目を引く。八咫烏は『記紀』の神武東征の際、熊野から大和まで神武天皇の道案内をした話から、熊野三山に共通する「熊野権現の使い」とされている。

一の鳥居の近くに前登志夫の歌碑が建っている。「那智瀧の ひびきをもちて 本宮に むかづくわれや 生きむとぞする」

本殿へと続く158段の石段の両脇には「熊野大権現」の幟がなびき、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせる。

参道を進み始めるとすぐに功霊社がある。日露戦争および第二次世界大戦戦没者を祀っている。

参道の左手には、祓戸大神が祀られている。祓戸とは祓を行う場所のことで、祓戸大神は祓を司る神である。

これは旧本宮社殿の絵図である。このように昔は長い間、熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲に鎮座していた。そこには12の社殿やいつくかの境内摂末社、神楽殿能舞台などがあり、現在の本宮大社の8倍の規模を誇っていた。1000年以上も経て、明治22年(1889)にはじめて大水害に見舞われた原因は、熊野川上流の十津川での明治に入ってからの急激な森林伐採とされる。紀伊半島南部を襲った大雨が、十津川の森林伐採後の山々で山津波を起こし、その土砂が川をせき止め天然のダムを造り、それが決壊して大洪水となり十津川の村々を押し流し、濁流が熊野本宮大斎原の社殿をも呑み込んだ。いくつもある熊野古道だが、十津川沿いに参詣道はなく古代から原始林に覆われていた。その十津川沿いの急激な森林伐採による森林破壊が未曾有の大災害をもたらしたのだった。2年後の明治24年に、流失を免れた上四社を現在ある祓殿王子社跡近くの山中高台に遷座した。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地大斎原の2基の石祠に祀られている。

ゆったりとした158段の石段を上りきるとどっしりとした神門に至る。神門の左手にも八咫烏の紋が入った大きな幟が立てられている。桧皮葺の神門をはじめ築地塀、瑞垣・鈴門などの屋根葺き替え等の保存修理工事は平成24~26年度に実施された。この神門は明治の大洪水による流失を免れた元の東門である。

神門には注連縄と菊の紋を染め抜いた大きな幕がかかり、その上には今年の干支である申の絵馬が掲げられ、その両脇には三本足の八咫烏と思われる飾り藁が掲げられている。

神門に「熊野坐神社」の扁額が掲げられているように、熊野本宮大社は昔、熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)と呼ばれ、熊野の神といえば本宮のことを指すと推測されている。

熊野本宮大社の創祀は不詳だが、神武東征以前に熊野坐大神がすでに鎮座していたと伝承され、社殿は飛鳥時代の615年に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されている。平安朝以後は熊野権現と称し、熊野本宮大社は上・中・下社の三社からなるため熊野三所権現と呼ばれ、十二殿に祭神が鎮座することから熊野十二社権現とも仰がれる。
神門をくぐると桧皮葺の社殿が、左から第一殿・第二殿の相殿、第三殿、第四殿と3棟並んでいる。一番左の第一殿と第二殿の相殿は結びの宮とも呼ばれ、他の社殿より一回り大きい。第一殿は西御前とも呼び、熊野牟須美神(くまのむすびのかみ)と事解之男神(ことさかのおのかみ)を祀り、第二殿は中御前とも呼び、熊野速玉之男神伊弉諾尊を祀っている。第一・二殿は、享和2年(1802)の建立で、入母屋造平入り、桁行5間、梁間4間、正面に庇を付し、正面の2箇所に木階を設ける。内部は桁行3間、梁間1間の内陣とし、3室に分け、左右の室に熊野牟須美大神と速玉之男神をそれぞれ祀る。第一・二殿は1棟の建物として、国の重文に指定されている。