半坪ビオトープの日記

速玉大社、上三殿・八社殿


参集殿の左手背後の山は千穂ヶ峯で、二つのピークのうち高いほうが北の権現山(253m)で、左手の低いほうが神倉山(199m)である。この神倉山の頂上直下に熊野速玉大社の摂社で元宮とされる神倉神社がある。
熊野速玉祭は熊野速玉大社の例大祭で、例年10月15日の神馬渡御式、16日の御船祭で知られる。主祭神の速玉大神と夫須美大神の神霊が常世から来て熊野川を遡上して御舟島に鎮座した後、乙基河原をへて新宮に遷座したという熊野権現来臨の有様を再現した祭である。神馬渡御式では、①阿須賀神社の神霊を速玉大社第二殿に迎え、②神霊が権現山西北にある杉ノ仮宮(御旅所)へ渡御し、③御旅所での祭儀の後、神霊が第二殿に還御する。御船祭では、①夫須美大神が鎮座する第一殿にて神霊を神輿に移し、②熊野川の河原で神霊を神輿から神幸船に移し、③先導する早船が御舟島の周りを回り、神幸舟は乙基河原に上陸し、神霊は御旅所に渡御して祭儀の後、大社に戻り神霊を第二殿に収めて終わる。この祭の構造は、熊野権現が阿須賀から新宮へあるいは神倉山から新宮へ直接遷座したのではなく、間に阿須賀神社の北側にある石淵谷に勧請されてから新宮に遷座したという、『熊野権現垂迹縁起』等にみられる遷座過程を示している。

大きな拝殿の後ろには、第一殿と第二殿が荘厳に並び建つが、その右手には上三殿の大きな社殿が建ち、その前に鈴門が三つ並んでいる。上三殿の構造は、木造銅板葺流造である。

上三殿とは左から第三殿の証誠殿に家津美御子大神・国常立尊を祀り、第四殿の若宮に天照大神を、神倉宮に高倉下命(たかくらじのみこと)を祀る。熊野権現信仰(三山三世信仰)は奈良朝に起こり、神仏習合の流布に伴い、熊野速玉大神は薬師如来として、熊野夫須美大神は千手観音に、家津美御子大神は阿弥陀如来にというように、本地仏に姿を変えて現れる(権現)と説かれてきた。

玉宮と上三殿との間に小さな奥御前・三神殿が建っている。摂社である奥御前・三神殿には、天之御中主神神皇産霊神(かみむすびのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が祀られている。

上三殿の右隣には八社殿が建っている。八社殿に比べて上三殿の建物が大きいことがよくわかる。

八社殿の前には二つの鈴門が建っているが、第五殿から第十二殿までが、中四社と下四社に分かれているためである。

中四社第五殿の禅児宮には天忍穂耳尊を、第六殿の聖宮には瓊々杵尊(ににぎのみこと)を、第七殿の児宮には彦火火出見尊を、第八殿の子守宮には鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を祀っている。下四社第九殿の一万宮には国狭槌尊を、十万宮には豊斟淳尊(とよくもぬのみこと)を、第十殿の勧請宮には泥槌煮尊(ういぢにのみこと)を、第十一殿の飛行宮には大戸道尊を、第十二殿の米持宮には面足尊を祀っている。八社殿も木造銅板葺流造である。

八社殿の右手に新宮神社と熊野恵比寿神社が並んでいる。

左の新宮神社は、明治40年に新宮町内の十三の末社を境内の金刀比羅神社(祭神、大物主神)に合祀して新宮神社となった。

右の熊野恵比寿神社は、蛭児大神を祀っている。かなり昔に西宮市の西宮神社(西宮えびす)から分霊を勧請したそうだ。

新宮神社・恵比寿神社から神門へと戻る途中、神門の手前に苔のまとわりついたオガタマノキ(Michelia compressa)の巨木が立っていた。樹高21m、目通り幹周1.65mで、新宮市の天然記念物に指定されている。