半坪ビオトープの日記

手力男神社・八咫烏神社


速玉大社の神門を出て大鳥居までの参道を歩いていく。すぐ右手にある大禮殿は、鉄筋コンクリート瓦葺入母屋造である。

左手には、野口雨情の詩碑がある。「国のまもりか 速魂さまの 御庭前まで 神さびる」

その先右手に後白河法皇御撰梁塵秘抄所載の歌碑が建っている。後白河法皇の熊野詣では33回と天皇の中で最多回数を誇る。「熊野へ参るには 紀伊路伊勢路のどれ近しどれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀伊路伊勢路も遠からず」

後白河法皇の歌碑のすぐ左には、梛(なぎ)の巨木がある。樹高20m、幹周4.61m、推定樹齢1,000年の日本最大とされる梛で、国の天然記念物に指定されている。平治元年(1159)の社殿落成の際に、熊野三山造営奉行であった平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられる。ナギ(Podocarpus nagi)は、暖地の山地に自生する常緑高木で、5〜6月に開花する。針葉樹で平行脈のある葉は横に裂けにくく、男女の縁が切れないとの、縁結びの印とされていた。御神木としての梛の葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれると信じられている。

梛の向かいには熊野神宝館があり、約1,000点もの古神宝類が一括して国宝に指定されている。大半は明徳元年(1390)の遷宮に際して、当時の天皇上皇室町幕府将軍足利義満及び諸国の守護により奉納されたものとされる。速玉・夫須美・家津美御子・国常立神像のほか、祭神用の神服、彩絵檜扇、蒔絵手箱、銅鏡、太刀や弓矢、染織用具類などが含まれる。神宝館の玄関には武蔵坊弁慶が勇ましい姿で立っている。

梛の大木の左には、検校法親王の歌碑が建っている。「なぎの葉にみがける露のはや玉を むすぶの宮やひかりそふらむ」(夫木和歌抄より)

中世から近世にかけての熊野詣では、熊野本願寺院に所属する熊野比丘尼達が「熊野那智参詣曼荼羅」と「熊野観心十界曼荼羅」を携えて全国を巡り歩きながら、絵解きをして熊野への勧誘を行ったことが隆盛に貢献した。この熊野速玉大社参詣曼荼羅は、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのを機に作られたものである。

神宝館の先に小さな石造りの「熊野詣 奉八度の記念碑」が立っている。以前は神倉神社境内にあったこの参詣碑は、岩手県久慈市の住人・吉田金右衛門が熊野詣八回を遂げた記念に宝永5年(1708)に奉納したものである。

さらにその先左手に、手力男神社と八咫烏神社が並び建っている。手力男神社は鑰宮(かぎのみや)ともいう。延喜式神名帳に「紀伊国牟婁郡手力神社」とある式内社で、天岩戸の扉を開けた天手力男神を祀っている。元は神門内にあったが、弘仁4年(813)に勅命により現在地付近に遷され、明治40年に新宮大社に合祀された。八咫烏神社は古くから新宮大社の末社として熊野川右岸の丹鶴山麓に奉祀されていたが、昭和37年に現在地に移された。(賀茂)建角見命を祀っているが、八咫烏はこの神の化身とされ、熊野神の使者ともいわれる。

これは詩人であり、童謡・民謡作詞家の野口雨情の句碑である。「梛の実の紫白に遊ぶ鳥もなし」

こちらは佐藤春夫の句碑である。「秋晴れよ丹鶴城址児にみせむ」大社の駐車場脇には、新宮出身の詩人・作家である佐藤春夫の東京の自宅を移築した記念館がある。

ようやく大社境内入口に建つ大鳥居に着いた。真言系の仏教家により説かれた神道両部神道といい、密教金剛界胎蔵界を二つ合わせて両部という。朱色が鮮やかなこの鳥居は、柱の下部を四脚で支える形にして両部を表す両部鳥居であり、神仏習合の名残を示している。権現鳥居とも呼ばれる。鉄筋コンクリート造で、扁額には「熊野権現」と書かれている。