半坪ビオトープの日記

熊野速玉大社、結宮・速玉宮


丹鶴城跡の1kmほど西の熊野川淵に熊野速玉大社がある。境内右手の駐車場から神門に向かうとすぐ右に小さな熊野稲荷神社がある。境内末社の稲荷神社では、2月に初午祭が行われる。

横から参道に出るとすぐ前に麗しい佇まいの神門が建っている。神門には巨大なしめ縄が掲げられ、扁額には「全国熊野神社 總本宮」とある。全国に3,000社以上あるという熊野神社総本宮であるが、熊野本宮大社も同じように総本宮を名乗っている。延喜式神名帳(927)では、本宮は熊野坐(くまのにいます)神社、新宮は熊野速玉神社と記載され、那智神社は式内社になっていない。奈良時代から平安時代にかけては熊野速玉神社の方が熊野坐神社よりも上に見られていた。第46代孝謙天皇の時代(749~58)に、「日本第一霊験所」の勅額が速玉神社に下賜されている。9世紀半ばから諸国の神々に朝廷から位階が授けられるようになったが、神階でも速玉神の方が上だった。両社に正一位が授けられて同格となったのは天慶3年(940)以降である。

神門をくぐると瑞垣に囲まれた神庭には12社を祀る社殿が棟を並べて建っている。向かって左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿・第四殿・神倉宮の三社相殿、第五殿から第十二殿までの八社相殿である。当初は、結(むすび、夫須美)・早玉(速玉)の2神を祀っていたが、本宮・新宮・那智熊野三山として連携される11世紀末頃に、家津美御子(けつみみこ)を勧請し、熊野三所権現として三山共通の3柱を祀るようになり、その後、さらに多くの諸神を祀るようになり、熊野十二社権現と呼ばれるようになった。紀伊藩主の命により安政元年(1854)までに建てられた旧社殿は、明治16年(1883)に花火の火災で焼失した。その後は仮殿。平成9年(1997)に第一殿の結宮、その他は昭和27年(1952)から昭和42年(1967)にかけて現社殿が再建された。第一殿と第二殿の拝殿が一番大きく、鉄筋コンクリート造である。

拝殿の扁額には「日本第一大霊験所 根本熊野権現拝殿」とある。速玉神社の創祀は不詳だが、『熊野速玉大社略記』では以下のようにいう。その昔、熊野信仰の原点である神倉山に熊野三所大神が天下り、山頂の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)を神体として祀っていた。のちに現在の社地に社殿を造営し遷座した。それ以来、神倉山の元宮に対しここを新宮と呼ぶようになったという。長寛元年(1163)頃編纂の『熊野権現垂迹縁起』では、遷座の時を景行天皇58年(128)としている。主祭神の結(夫須美)大神は第一殿の結宮に、速玉大神は第二殿の速玉宮に祀られ、別名はそれぞれイザナミノミコトとイザナギノミコトとされる。穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党の一つ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。

木造熊野速玉大神坐像・木造夫須美大神坐像・木造家津美御子大神坐像は国宝に、木造伊邪那岐神坐像・木造伊邪那美神坐像は重文に指定されている。それぞれ9世紀後半の制作と推定されている。扁額では「結霊宮」「速霊宮」とある。

拝殿の裏に鎮座する本殿は、木造銅板葺熊野造で、きらびやかである。左の千木は夫須美大神が女神なので内削ぎ(平行)であり、右の千木は速玉大神が男神なので外削ぎ(垂直)となっている。

結宮・速玉宮の拝殿の左手には、鉄筋コンクリート造の参集殿が建っている。

参集殿の右手には後鳥羽天皇の歌碑が建っている。後鳥羽上皇は熊野に29回も行幸しているとされる。
「岩にむす 苔ふみならす三熊野の 山のかひある行末もがな」

参集殿の左手、授与所の奥に大きな石碑があって、熊野御幸の記録が刻まれている。最多は後白河上皇で33回、後鳥羽上皇の29回に次ぐのは鳥羽上皇の23回、さらに白河上皇の12回、待賢門院9回と続く。延喜7年(907)の宇多上皇から乾元2年(1303)までの396年間に上皇女院親王を含め23方、140回に及ぶ皇室の参詣があり、それを熊野御幸という。白河上皇から後鳥羽上皇に至る100年だけでも97回もの御幸があったという。上皇の熊野御幸には千人ほどのお供がつくのがならいで、その行列が「蟻の熊野詣で」といわれる所以だという。鎌倉時代には北条政子北条時政の妻も参詣したが、室町時代には衰退したそうだ。