半坪ビオトープの日記

神倉神社


熊野速玉大社の南西、千穂ヶ岳(権現山、253m)の南端に位置する神倉山(199m)の山頂より少し下ったところに神倉神社が鎮座している。太鼓橋の傍らに古めかしい下馬標石が建っている。これは寛文12年(1672)に奥州の大銀与兵衛盛道が、熊野三山に7度参詣した記念に寄進したものである。高さ1.59m、幅43cm、奥行17cm、黒雲母花崗班岩製の石柱である。

太鼓橋を渡った正面奥に猿田彦神社と神倉三宝荒神社がある。祭神の猿田彦は、高天原から地上に降りる天孫瓊々杵尊を日向の高千穂まで導いた国津神である。三宝荒神社の祭神は、火産霊神誉田別命であり、高野山の奥社とされる立里(たてり)の三宝荒神を勧請したものである。

猿田彦神社の前で左に折れる参道のすぐ右手に、野口雨情の歌碑がある。「見せてやりたい 神倉山の お燈まつりの 男意気」三度新宮を訪れた雨情は、最初の昭和11年(1936)、10番まである「新宮歌謡」を作っている。

これから登る神倉山には、新宮の街中からも見える神倉神社の御神体とされるゴトビキ岩があり、この巨岩と崖は、『日本書紀』の神武天皇紀の五瀬命の死と丹敷戸畔の誅殺の間に記されている天磐盾(あまのいわたて)に比定されている。「熊野の神邑に至り、すなわち天磐盾に登る」

右手に曲がる参道の朱塗りの両部鳥居をくぐると、自然石(花崗岩)を組み合わせて積み重ねた「鎌倉積み」の急峻な石段を登らなければならない。この石段は、源平合戦における熊野の功労を賞して、建久4年(1193)に源頼朝が寄進したものと伝えられるが、『熊野年代記』の記事のみである。

勢いよく登り始めたが、どこまで続くのか、今まで体験したこともないあまりの急勾配に、しばし天を仰ぐ。石段は全部で538段あるそうだ。参拝帰りに降りてくる老人は、足元がおぼつかないのか休み休みだ。事実、上を眺めるより、下を見下ろす方が急坂に見える。

200段ほど登ったところで一度平らになり、右手に中ノ地蔵堂と火神社が祀られている。毎年2月6日夜に行われる神倉神社の例大祭、お燈まつりは、白装束に荒縄を締めた約2,000人の上り子(のぼりこ)達が御神火を燈した松明を持ち、我先にと石段を駆け下りる。その様子は日本有数の勇壮な火祭りとして有名だが、その日だけは女人禁制になる。神倉神社では神職が火をつけた神事の後、中ノ地蔵堂にその火が置かれ、上り子は松明に火をつける。それから山上の玉垣内に入り、山門が開かれると同時に、松明を持って神倉山の538段の石段を駆け下りる。新宮出身の中上健次もよく参加したという。

この葉に白い斑が入っている可憐なスミレは、フイリシハイスミレ(Viola violacea f.versicolor)と思われる。本州中部地方以西の山野に生えるシハイスミレの斑入り品種である。

中ノ地蔵堂からは勾配も普通になった参道を登っていくと、ようやく二の鳥居と玉垣が見えてくる。玉垣の内側右手に見える手水鉢は、新宮城第2代城主の水野重良から寄進されたもので、寛永8年(1631)の銘がある。横1.9m、奥行91cm、高さ60cmの黒雲母花崗班岩の一枚岩からできている。阿須賀神社にも同様のものが奉納されている。

二の鳥居のすぐ右手前の高台に末社の満山社が建てられている。満山社は本宮大社にもあるが、結びの神、八百万の神を祀っている。

玉垣内に入ると、大きな一枚岩の岩盤の斜面を登っていくことになる。この一枚岩の岩盤そのものも驚嘆に値する大きさである。

岩盤の先端の上に数個の巨岩が乗っかっているが、この巨岩群が神倉神社のご神体とされるゴトビキ岩と呼ばれている。ゴトビキとは熊野地方の方言でヒキガエルのことで、最も大きな巨岩の形がヒキガエルに似ることによる。この岩の根元を支える袈裟岩といわれる岩の周辺から経塚が発見され、平安時代の経筒が多数発掘され、さらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。神話時代にさかのぼる古くからの伝承があり、創建は景行天皇58年(128)頃といわれる。熊野信仰が盛んになると、熊野三所権現が最初に降臨したのがこの神倉山とされ、そのため熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。熊野速玉大社を新宮と呼ぶのに対し元宮とされる。建長3年(1251)には火災により社殿が焼失したが、北条時頼の助成で再建された。南北朝時代の荒廃後は麓にある妙心尼寺が勧進権を掌握し再興に尽力した。近世以降は紀州徳川家や新宮領主の浅野氏・水野氏の崇敬を集めた。

近世の境内には社殿と並宮のほかに崖上に懸造りの拝殿があり、大黒天を祀る御供所、末社として満山社、子安社、中ノ地蔵堂などがあったが、明治3年の台風で倒壊した。その後、明治40年には熊野速玉大社に合祀された。大正7年(1918)岩下に祠を再建したのを手始めに、昭和期に社務所、鳥居などが再建され、社殿、玉垣、山上鳥居、鈴門などが新築された。現在、社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外摂社の扱いである。
祭神として高倉下命(たかくらじのみこと)、天照大神を祀る。高倉下命は、瓊々杵尊の兄、饒速日命(にぎはやひ)の御子神で、早くから熊野を統治し、のちに熊野三党、三山祠官の祖となった神である。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は神武天皇が東征の際に登った天磐盾であり、このとき天照大神の子孫の高倉下命は神武に神剣を捧げ、これを得た神武は天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされる。

神倉神社からは新宮市街および熊野灘が一望できる。幅広い熊野川河口には、こんもりとした蓬莱山(40m)が認められる。麓から見上げると、ゴトビキ岩は神倉山の中腹、麓から60mの高さでそそり立つ崖の上にあるのがわかる。ゴトビキ岩の後ろにも巨石群があるというが、登っていくのは難しそうだった。