半坪ビオトープの日記

橋杭岩、太地の鯨


串本町紀伊大島に面した海岸に、橋杭岩という奇石群があり、国の天然記念物に指定されている。海岸から南西方面へ大小約40の岩が、約850mにわたって連続してそそり立ち、橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれる。あまりにも横に長く連なっているので、近づくと一枚の写真には収まらないと思い、堤防が邪魔しているが手前の橋杭海水浴場から一枚撮っておいた。

「道の駅くしもと橋杭岩」の駐車場の目の前に、やはり橋杭岩はずらっといくつも並んでいた。ちょうど引き潮なのだろうか、かなり砂地が干上がっているように見えた。橋杭岩を通して見る朝日はとりわけ美しいと評判で、日本の朝日百選の認定も受けている。毎年秋にはライトアップも催され、多くのカメラマンが押し寄せる。橋杭岩は、約1500万年前の火成活動により、泥炭層の間に流紋岩が貫入し、貫入後に差別侵食により柔らかい泥炭部が早く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に残されたものである。

橋杭岩には次のような伝説がある。昔、弘法大師が天邪鬼と串本から沖合の島まで、一晩で橋を架けることができるか否かの賭けをした。弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで、天邪鬼はこのままでは賭けに負けてしまうと思い、ニワトリの鳴き真似をして弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせた。弘法大師は諦めて作りかけでその場を去ったため、橋の杭のみが残ったという。

紀伊大島の右手には串本大橋が見え、その右手には串本港がある。この辺りの串本湾・串本港は、古来より暴風雨を避けて入港する避難港、風待港として、多くの菱垣廻船や樽廻船で賑わっていた。アメリカのペリーが浦賀に入港する62年前の寛政3年(1791)、アメリカの商船2隻が串本に入港している。また、慶応2年(1866)イギリス軍艦セル・ヘン号が、改税約書(江戸協約)による灯台建設場所の調査のために串本の入江にやってきた。さらに、明治19年(1886)には、ノルマントン号遭難時に生き残った数少ない乗組員のボートが、串本の砂浜に漂着している。

橋杭岩を間近に見ながら、連なる岩に沿って半ばあたりまで遊びながら歩いている若者も多く見かけられた。遊ぶには干潮時がよいのだろうが、写真に撮るのは満潮時のほうが美しいといわれる。

昼食は太地の鯨を食べたいと思い、評判の「くじら家」に寄ったがあまりの混雑に「いさなの宿、白鯨」のレストラン「漁火」に変更した。いさなとは、鯨の古名で、万葉では海にかかる枕詞として使われる。太地は昔から捕鯨で知られ、日本の古式捕鯨発祥の地といわれる。慶長11年(1606)和田一族の和田頼元が太地浦を拠点として組織的な捕鯨を行ったのがはじまりとされる。その後、延宝3年(1675)に三代目頼治が鯨を網に追い込んでとる網捕法(網掛突捕法)を発明し、大きな鯨方を形成した(最盛期は千人という)。窓から外を眺めると、昔から変わらないだろうと思われる太地湾が見える。 

メニューには、鯨の肉の部位別の説明書きがある。鯨のミニコースと鯨のお造りを頼む。フルコースだと小鉢が増え、お造りが尾の身と鹿の子にかわり、鯨のたたきも加わる。

こちらが鯨の赤身と皮のお造りの単品。

こちらはミニコースの尾羽毛の小鉢、赤身と皮のお造り、ベーコンとさえずりの洋菜、竜田揚げ、本皮の赤出汁である。

ミニコースには、さらにハリハリ鍋がつく。竜田揚げや赤身の刺身以外は珍しく、鯨料理の本場で美味しくいただき満足した。