半坪ビオトープの日記

青岸渡寺


那智大社のすぐ右隣に青岸渡寺がある。天台宗の寺院で山号那智山熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であるが、那智大社及び青岸渡寺の創建時期は不詳である。伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺から渡来した裸形上人の開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。後に推古天皇勅願寺となり、生仏聖が伽藍を建立したという。中世から近世にかけて神仏習合修験道場であり、如意輪観音堂と称された堂舎は、社家や那智一山の造営・修造を担う本願の拠点だった。明治になり神仏習合が廃された時、那智大社では如意輪堂が破却を免れ、後に青岸渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青厳寺に由来するといわれる。

青岸渡寺那智大社のすぐ右隣にあるので、那智大社の本殿をこちらの境内からも垣間見ることができる。青岸渡寺には、一千日(3年間)の滝篭りをされた花山法皇が永延2年(988)に御幸され、西国三十三所第一番札所として定められたとされる。その頃から「蟻の熊野詣で」といわれるほど熊野信仰が盛んになった。

青岸渡寺ご詠歌は「補陀落や岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝つ瀬」という。

那智山」の扁額のすぐ下にわずかに見える大きな鰐口は、天正18年(1590)豊臣秀吉の命により本堂が再建された際に、秀吉より寄進された日本一の大鰐口で、直径1.4m、重量は450kgあり、その再興の趣旨が刻まれている。本尊の如意輪観世音菩薩は秘仏で、2月の節分会に開扉される。普段は代わりにお前立ちが安置されている。

本堂は桁行九間、梁間五間、一重入母屋造、向拝一間、屋根は柿葺、高さは18mで、国の重文に指定されている。

本堂の右手には水子堂が建ち、その右手奥には鐘楼が建っている。鐘楼の手前には宝篋印塔が安置されている。鐘楼の石段左手に咲く椿の花は、赤、白、ピンク、絞りと色鮮やかで、五色椿とも呼ばれる。

この宝篋印塔は流紋岩製で、元亨2年(1322)に建立され、高さは4.3m。国の重文に指定されている。

宝篋印塔のすぐ右手の鐘楼の梵鐘は、元亨4年(1324)に鋳造されたものである。

大黒天堂には、大黒天を中心に七福神も安置されていて、如法堂とも呼ばれる。

本尊の大黒天は伝教大師の作と伝えられ、高さ1.3mの「蓮華の葉上大黒像」というが、よく見分けられなかった。

大黒天堂手前の境内は南側が開け、展望台ともなっていて太平洋まで見渡せる。東の山沿いには那智の大滝が見える。左手には青岸渡寺の三重塔も見え、滝と一緒の構図が面白い。三重塔の手前の建物は、那智最古の家柄を誇った青岸渡寺の宿坊・尊勝院であり、開山の裸形上人像と仏頂如来像を安置しているのだが、数年前に閉院されて今は宿泊できないようだ。