別府港の正面に見える、こんもりと緑に覆われた無人島は見附島という。西ノ島に配流となった後醍醐天皇を隠岐守護・佐々木清高の警護兵が見張る武士の屯所があったという。見付とは警護兵が見張りをする場所を指す。江戸時代には立山(藩有林)として村人の立ち入りは禁止されていた。現在も上陸は不可という。「太平記の里」との看板あり。
見付島の向かいにある小さな旅館(みつけ島荘)に泊まった翌朝、別府港へ向かう途中に美田八幡宮に立ち寄った。桜が咲く短い参道の先に石段があり、その上に社殿が見える。
拝殿の前にも鳥居がある。美田八幡宮の祭神は、誉田皇命、足仲彦命、気長足媛命の三柱である。明治以前には仏体も祀られていたという。内陣が3面に仕切られているのは、古くは一柱ずつ奉斎されていたか、または仏体と御神体別々に奉斎されていたためかと推定されている。美田八幡宮の裏の丘の上にある美田尻古墳は、直径約20mの大型の円墳である。古墳の斜面には石が見られ、元は古墳を覆っていたと考えられている。
美田八幡宮では西暦奇数年の9月頃に例大祭が催される。美田八幡宮に伝わる田楽・十方拝礼(しゅうはいら)では、「神の相撲」、「獅子舞」、「田楽」が奉納される。色鮮やかな衣装に身を包み、胴(太鼓)と独特の掛け声の音に合わせ踊る古式の田楽は、
法師の踊り、山伏姿の鳥のスッテンデ踊り、子ザサラ踊り、総踊り、沈めの踊りからなる。天正18年(1590)が最古の記録だが、伝承では後白河法皇時代に島に伝わったという。「獅子舞」は二人立ちの獅子で、囃子に合わせて様々の技巧的な所作を演じる。この田楽が、平成4年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
明治24年(1891)建造の本殿は、二間流造、向拝付。隠岐島前地区の神社建築はほとんどが「春日造変態」であるが、当社は唯一の流造であり、社殿規模は大きく二間三面社で、このようなものは他にはない。西ノ島町の有形文化財に指定されている。
拝殿の右脇には小さな境内社があるが、詳細はわからない。
例大祭で行われる「神の相撲」は、二人の稚児が行司役の指示によって簡素な相撲の所作を演じるものである。この参道脇の土俵で行われるのだろう。
小さい船だが、原始林に覆われた見付島を後にして勢いよく進む。
船は別府港に向かうフェリー「どうぜん」とすれ違い、すぐ向かいの海士町の中ノ島に向かう。
左手には西ノ島と中ノ島の間の瀬戸がみえ、正面には中ノ島の家督山(あとどさん246
内航船は中之島の菱浦港を経由して西ノ島と中ノ島の間を南下していく。振り返ると、右手に中ノ島、左手と突き当たりに西ノ島が見える。
内航船が進む右手には焼火山があるのだが、断崖絶壁によって遮られて見えない。その断崖の左端が焼火山の南東麓にある文覚窟である。陸伝いにいく道はなく、漁船をチャーターして海岸から岩伝いによじ登ることになる。
文覚窟は、源頼朝に仕えた真言宗の高僧・文覚上人が頼朝の死後に流されて居住したと伝えられる窟である。『平家物語』では、海の嵐をも鎮める修験者として描かれる。後鳥羽上皇の政を批判したために隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとされる。しかし、史実との食い違いが多く、『平家物語』の脚色とされる。
やがて知夫村の知夫里島に近づくと、左手には中ノ島の岬の先端が見える。そこには木路ヶ埼灯台や展望台がある。