半坪ビオトープの日記

中ノ島、三郎岩、宇受賀命神社、明屋海岸

中ノ島、三郎岩

知夫里島で昼食後、隠岐4島目の中ノ島に向かう。海士町の菱浦港に着くとすぐに島巡り。といっても時間が限られているので北部を時計回りする。菱浦の東の諏訪湾に沿って北へ向かい、東に折れる辺りで海が見える。手前に三郎岩、向こうに西ノ島、その右はずれに僅かに繋がっているのが冠島である。三郎岩は奥の大きい方から太郎、次郎、三郎と呼ばれ、島民に親しまれている。

宇受賀命神社の第一鳥居
東に向かってすぐの宇受賀(うずか)集落のはずれ、田園地帯に参道があり、こんもりとした森に宇受賀命神社の社殿が見える。第一鳥居から拝殿、その裏の本殿の屋根も見通せる。

宇受賀命神社の二の鳥居

貞享5年(1688)の『増補隠州記』に、嘉吉年中(1441-43)に炎上して縁起を焼失したとあり、創始年代は不詳。『続日本後記』の仁明天皇承和9年(842)の条に、「隠岐国智夫郡由良比女命神、海部郡宇受賀命神。隠地郡水若酢命神並預官社」とある。延喜式神名帳では名神大社であり、由良比女命神社、水若酢命神社、伊勢命神社と並ぶ隠岐国の4大社に挙げられていた。

宇受賀命神社の社殿
大正頃の社蔵記録によると、遷座の時期は不詳だが、かつては現在地より北150間(約270)隔たった、海面から10m強の高さの断崖上に鎮座し、島前湾の入り口を下ろすところにあったという。主祭神宇受賀命という隠岐独自の神で、家内安全、領土・領海防衛、縁結び、安産の神として信仰を集めている。「宇受賀命と大山祇命の力比べと妻争い」という伝説がある。宇受賀命は、西ノ島の比奈麻治比賣命の美しさに惹かれ、結婚を申し込んだが、比奈麻治比賣命から良い返事がもらえなかった。諦めず求愛の手紙を送り続けると、比奈麻治比賣命は「大山神社の神様と力比べをして、勝った方に従いましょう」と言った。石を投げ合う力比べの結果、宇受賀命が勝利し夫の座を勝ち取ったとされる。大山神社の神とは、西ノ島の大山祇命のことで、一説には焼火山の神とも言われる。

拝殿入口の出雲式しめ縄
中世を通じて国衙守護職から重きを置かれ、文明7年(1271)の寄進状には、当地の田荘と目代から祭祀料として国衙領の中の田地2段(720坪)が寄進されるとの記載がある。拝殿の入り口には大きな出雲式しめ縄が掲げられている。

拝殿内部

拝殿内は整然と厳かに設えられている。海士町有形文化財として、応永5年(1398)などの奥書を持つ「大般若経284巻」が保存されている。『隠州風土記天保4年(1833)に、「五穀豊穣の祈祷として、海士の真言一派相集、大般若転読仕候」との記載がある。また、御座替神事や御座入神事の記載もあるが、両神事は断絶したという。御座替神事は松江市の左太神社のものが有名で現在も行われているという。御座入神事は現在も島後の神社では行われている。両神事が当神社で以前行われていたことは貴重とされる。現在、元旦には「あご石神事」が行われる。豊作豊漁を願う神事で、あごとはトビウオのこと。トビウオに似た石を宇受賀の海岸から24個拾ってきて、元旦当日に奉納し来年まで保管する。前年奉納したあご石を「大漁(だいりょー)!」と叫びながら海の方角に向かって投げて豊作豊漁を願う。投げた石は不思議と消えてなくなり、あごとなって海に帰るとも言われる。

隠岐造の本殿
本殿は拝殿後ろの小さな幣殿より一段高い位置にある。妻入の本殿に平入りの向拝を付した、三間社隠岐造(春日造ないし日吉造の系統)構造で、島前では最も大きい。内々陣・内陣・外陣とに仕切られ、外陣には戸はなく、内陣は正面に蔀戸、両側は開き戸、内々陣は三前に御扉が付けられている。

本殿の蕪懸魚

現在は銅板葺となっているが、建造時から昭和37年までは茅葺きであった。旧来の様式に従って、大正6年(1917)に再建されたときの大工棟梁は、中野房太郎という。妻を見ると、蕪懸魚に鰭が付いて奥の妻飾がよく見えないが、かなり趣向を凝らしているようだ。

明屋(あきや)海岸
さらに東へ進み、中ノ島の北東端近くの明屋(あきや)海岸に着く。1kmにわたり続く明屋海岸の絶景は、約280万年前の火山が風と波で浸食されて形成された。

明屋海岸

鮮やかな赤色の岩壁は、火山ガスと同時に噴出して飛沫となって飛び散った溶岩に含まれる鉄分が高温で空気に触れ、素早く酸化して赤く変色した岩石(スコリア)に由来する。

明屋海岸の屏風岩
噴火によってできた赤い岩は、屏風岩という。ある角度から見るとハートに繰り抜かれたように見えることから、通称ハート岩と呼ばれる。この地は伝説では、西ノ島の比奈麻治比賣命が宇受賀命の子「柳井姫(奈伎良比賣の別称)」を産んだ場所とされる。お産の穢れを祓い、七五三の注連縄をあげて「産屋が明けた」との意味で行ったことから、明屋という名がついた。比奈麻治比賣命がお産の時に使用した屏風とたらいを捨てたところ、それぞれ「タライ岩」「屏風岩」になったとされる。この伝説に見える奈伎良比賣命を祀る奈伎良比賣神社が明屋の南の集落豊田にある。延喜式式内社であるが、創建年代は不詳である。