唯心山の北に広がる沢の池の向こうには小さな砂利島が見え、左手には寒翠細響軒が建ち、右手には五十三次腰掛茶屋、さらに右手に慈眼堂が垣間見える。
唯心山から池に沿って北に進むと、松の木の先に島がある。左手にあるのは御野島、右手にあるのは橋が掛かり島茶屋のある中の島である。それぞれ趣向が凝らされている。
沢の池の北側に建つ慈眼堂は、元禄10年(1697)池田綱政が藩内の平安と池田家の安泰を願って観音像2体を祀り建立した観音堂である。今は空堂となっているが、江戸時代には歴代藩主が篤く信仰していた。脇には稲荷宮や由加神社もある。門の右手に見える巨岩は、烏帽子岩という陰陽石で、高さ4.1m、周囲17mあり、30数個に割って運びここで元通りに組み立てたという。石は瀬戸内の犬島産の花崗岩で、園内には大立石など随所に使われている自然石である。
慈眼堂の先の砂利島の近くに来ると、砂利島の向こう、左手には唯心山、右手奥には岡山城が垣間見える。
今の岡山城の付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があった。その石山にあった城を手に入れた宇喜多直家は岡山の地を戦国の表舞台に立たせた。その子の秀家は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(1597天守完成)。その後城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は拡張され今に至る。岡山城の天守の外壁は、黒塗りの下見板で覆われていて、烏城の別名がある。築城時には城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、金烏城とも呼ばれる。天守は4重6階の複合式望楼型で、戦災で焼失したが、昭和41年(1966)に再建された。
沢の池の周りを大きく回り終えて正門近くの建物群を眺める。この茅葺きの建物は延養亭という。貞享3年(1686)岡山藩主池田綱政が、家臣の津田永忠に命じて、後楽園の築庭に着手し、要の建物として最初に建てられたのがこの延養亭だった。完成後は藩主の静養や賓客の接待、藩校の儒学者の講義場として使われた。後楽園の中でここからの眺望が最も素晴らしく、園内の景勝のほとんどがここに集まるよう設計されている。この建物も戦災で焼失したが、昭和32年の復元工事では正徳2年(1712)の絵図に基づき建築当時の姿に復元された。左手に見える建物は栄唱の間という。その右奥にある能舞台の正面にあり、能を鑑賞する際の見所(けんじょ)となっている。
栄唱の間の南側正面に花葉の池がある。南西岸には元禄時代初期に巨岩を九十数個に割って運び、元の形に組み立てた「大立石」がある。12月も半ば近くなのに赤い紅葉が輝いて美しい。
岡山後楽園の正門の向かいに県立博物館があり、その入り口脇に石棺が二つ安置されている。赤い石棺は八幡大塚2号墳出土の古墳時代後期の石棺である。八幡大塚2号墳は児島半島北東部の児島湾に向かった台地上に立地し、墳丘径は約35mで、児島半島東部最大の円墳である。横穴式石室の奥壁近くに安置されていた長持形石棺の伝統を引いた組合せ式家形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部は赤色に塗られ、風化した人骨とともに金製の垂飾付耳飾り、銀製の鍍金した空玉、太刀などが納められていた。左奥の灰色っぽい石棺は、朱千駄古墳出土の古墳時代前期の石棺である。朱千駄古墳は赤磐市穂崎、両宮山古墳の南西の平野部の西端に位置する全長約65mの前方後円墳である。後円部中央に埋められていたこの石棺は、6枚の石で組み立てられた長持形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部から多量の赤色顔料と勾玉、管玉など多数の小玉や、鉄槍、蛇行状鉄器とともに銅鏡2面が発見されたという。