半坪ビオトープの日記

造山古墳

ビジターセンターより造山古墳を見る
倉敷から岡山へ戻る途中、北回りで吉備の南西にある造山古墳を訪れた。吉備は7年前にも同じく大原美術館の後に、吉備津神社吉備津彦神社、総社宮などを巡ったが、造山古墳は見逃した。造山古墳の駐車場には造山古墳ビジターセンターがあり、造山古墳と周辺の中小規模の6基の古墳を合わせた造山古墳群や、日本遺産に認定された「桃太郎伝説」を紹介している。立ち入りできる古墳としては日本最大であり、世界最大の登れる墓といっても過言ではない。駐車場から眺めても前方後円墳の大きさがよくわかる。左が前方部、右が後円部である。

造山古墳
吉備には古墳時代前期から大型古墳が築かれ、古墳時代中期には巨大古墳も築かれたが、造山古墳は全長約350mと全国4位の超巨大古墳である。エジプトのクフ王のピラミッド本体より長く、始皇帝陵の墳丘と同じくらいである。手前には田んぼと民家が並んでいる。

右手が後円墳
民家の間を抜けると、黄色いセイタカアワダチソウの群落の向こうになだらかな丘が横たわっている。右手が後円墳で左手の前方墳との境目あたりが、崩落地のように土が削れて抜き出しになっている。

古墳の周りには石垣
よく見ると古墳の周りには新しく石垣が組まれていて、古墳の崩落を防いでいるのがわかる。

後円部の手前のくびれ部
崩落地の左手に登り口があり、上がると後円部の手前のくびれ部が平らに整備されていた。この平坦部は安土桃山時代羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために平らにしたことによるという。その時、後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭を2カ所、縦堀を3カ所設けている。

平坦部から後円部
後円部からは讃岐の安山岩でできた板石が発見され、前方部の上には阿蘇山の溶岩でできた石棺や、陪塚の千足古墳には天草千穂の砂岩で作られた石障がある。熊本県香川県からはるばる運ばれてきたもので、造山古墳に葬られた王は、吉備だけでなく、九州、四国まで影響を及ぼすことができた大王だったことがわかる。

三段築成の後円部
墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設け、墳丘表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪が巡らされていた。ほかに盾・靭・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪も発見されている。

整備工事中の後円部
令和5年から後円部の崩れた部分を修理する整備工事に着手している。最近の発掘調査では、後円部の中心には大王の埋葬施設が保存されていることがわかってきている。

後円部の上から前方部を眺める
後円部の上から前方部を眺めると後円部の方が若干高いように見える。

後円部の彼方には吉備の平野
振り返って後円部の彼方を眺めると、吉備の平野が広がっているのがわかる。大王が大きな墓を作れたのは広い平野からの収穫も必要だったに違いない。

前方部には石の鳥居
今度はくびれ部を通り越して南西方向にある造山古墳の前方部に向かうと、石の鳥居が建っている。
 

前方部に建つ荒(こう)神社
つまり、前方部の墳丘は破壊されて、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。ちなみに墳丘全体の長さは約350mだが、前方部の幅は約215m、高さは約25m、後円部の復元直径は約190m、高さは約29m。造山古墳と荒神社の主軸方向は一致していて、荒神社の拝礼方向は北西にある雲南市や奥出雲になっている。荒神社の前面方向の南東には直島近くの鬼ヶ島伝説のある女木島・男木島がある。
 

荒神社の鐘撞堂の向こうに石棺
荒神社の鐘撞堂の向こうにある手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜式の長持型石棺の身部分であり、随分風に晒されている。
 

荒神社の右横後ろに石棺の蓋
荒神社の右横側後ろの杉の木の根元に、石棺の蓋の破片が放置されている。

石棺の蓋
石棺の蓋の表面に直弧文の線刻があり、内側には赤色顔料が明確に残る。大正時代に国指定史跡に指定されている。