半坪ビオトープの日記

城嶋、丹後古代の里


城崎温泉のある兵庫県豊岡市から東に進むと京都府京丹後市に入る。久美浜町から東北へ進むと丹後半島のある丹後町となる。丹後古代の里の手前の間人(たいざ)集落に小間漁港がある。

小間漁港を囲むように位置する城嶋(城島)は、高さ21m、周囲4kmほどの小島で、戦国時代、一色氏配下の武将・荒井武蔵守知時が天正年間に居城を構えたため城島と名付けられた。漁港に面して三嶋神社・水天宮がある。

古代は陸続きであったといわれるが、現在は間人の町と橋でつながっている。島内を一周する遊歩道が整備され、島全体が自然公園に指定されるとともに、丹後天橋立大江山国定公園に含まれている。
この近くに聖徳太子の母・間人皇后が足を洗ったとされる「足洗いの井戸」がある。そもそもこの間人の集落は「たいざ」と読むのだが、それには古くから謂れがある。聖徳太子の母・間人(はしうど)皇后、つまり穴穂部間人皇女(あなほべのはしうどのひめみこ)は、第29代欽明天皇の皇女として生まれ、皇子橘豊日尊(31代用明天皇)の妃となり、厩戸皇子(後の聖徳太子)を生んだ。血筋としては蘇我稲目の孫だが、実弟穴穂部皇子を立てた物部守屋と大和政権の蘇我馬子との争乱を避けて、今の丹後町間人に厩戸皇子とともに身を寄せたと伝わる。間人皇后がこの地を去る(退座する)際、皇后は自らの名「間人(はしうど)」の使用を許し、「大浜の里にむかしをとどめてし 間人(はしうど)村と世々につたへん」との歌を賜ったという。しかし村人たちは畏れ多いことから、皇后が退座したことに因み、読み方を「たいざ」としたとされる(諸説あり)。

城島のすぐ東に丹後古代の里資料館が建っている。京丹後市内から発掘された考古資料を中心に、縄文時代から古墳時代、中世にかけての石器・土器・玉類や鏡などを展示し、ロマンあふれる丹後の古代史を学べるよう工夫されている。
丹後国は「たにわのみちのしりのくに」と呼ばれ、和銅五年(713)に丹波国から分かれてできたが、分国以前の丹波国の中心はこの丹後にあった。そのことは丹後の弥生時代の遺跡や丹後三代古墳の存在、記紀の記事から裏付けられる。つまり古代のある時期、丹後には丹波国全体を治める「丹後王国」と呼べるような強大な勢力の中心が存在していた。

丹後では縄文時代早期(約8000年前)の裏陰遺跡や前期(約6000年前)の松ヶ崎遺跡、さらには竪穴住居跡もある後期(約4000年前)の浜詰遺跡など、縄文時代の各遺跡から多くの土器や石器などが出土している。
この資料館の北側一帯に広がる竹野(たかの)遺跡は、丹後半島で最初に米作りが始まった場所の一つで、ここから竹野(たけの)川を遡って内陸に弥生時代の村が広がっていった。竹野遺跡の前に広がっていた竹野潟に面して弥生時代中期の石積遺構が見つかり、当時の船着場と推測されている。竹野川中流域にある奈良岡遺跡は、弥生時代中期の水晶玉つくり工房の遺跡である。
弥生時代中期後半には、方形貼石墓が出現し、後期になると方形台状墓が現れる。首飾り、腕飾りなどに使われた青いガラスの勾玉・管玉なども数多く弥生墳墓から出土する。丹後の出土総数は13000点を超え、北部九州以外では群を抜いていて、丹後の王権の伸長を物語っている。

弥生時代後期後半にはさらに大きく多彩な副葬品のある墳墓が造られ、中国交易を掌握していた丹後の王の力が示されている。3世紀前半築造とされる赤坂今井墳墓は、東西36m、南北39mと国内最大級で、この時代にいわゆる丹後王国が成立したと考えられている。
3世紀中葉に古墳時代が始まると、ヤマトを中心に前方後円墳が造られる。丹後の最初の前方後円墳は4世紀中葉の白米山古墳(墳長92m)で、葺石はあるが埴輪はなく、埋葬施設は竪穴式石槨である。3世紀後半の太田南古墳群からは中国製の神獣鏡や方格規矩四神鏡などが出土している。丹後王国の発展は、砂嘴によって外海と隔てられた潟湖が港湾として使われ、大陸・半島の先進的文物が日本海を介していち早く丹後に入ってきたからとされる。この模型は、古墳時代中期の竹野川河口の想像復元模型であるが、こうした潟湖の周辺にはその地方最大の古墳や由緒ある神社が造られていく。

4世紀中葉から5世紀初頭にかけて、時の天皇陵に匹敵する丹後三大古墳が築造され、丹後王国の最盛期を迎える。蛭子山古墳(145m)、網野銚子山古墳(198m)、神明山古墳(190m)はいずれも墳丘が三段に造られ、全ての斜面に葺き石が積まれている。三大古墳全てに丹後特有の「丹後型円筒埴輪」が使われ、特に網野銚子山古墳では2000個以上の円筒埴輪が立てられていた。
初期ヤマト政権は桜井市天理市など奈良県東南部にあったが、4世紀後半に奈良市北部の佐紀楯列古墳群に、5世紀に大阪の古市古墳群百舌鳥古墳群に移動したとされる。佐紀楯列古墳群で最初に造られた佐紀陵山古墳(207m)は、丹後出身の日葉酢媛の御陵とされ、丹後の網野銚子山古墳はそれと相似形で、初期ヤマト政権と丹後王国との密接な関係が考えられている。

5世紀前半には大型古墳は作られなくなり、丹波全体では兵庫県篠山市の雲部車塚古墳、亀岡市の千歳車塚古墳など、王国の中心は丹後から丹波南部へと移っていった。それでも5世紀の丹後には、長持形石棺を用いる古墳が5基確認されている。この長持形石棺は、大仙古墳(仁徳天皇陵)など畿内中心に5世紀の巨大古墳に使用され、「王者の棺」と呼ばれるもので、丹後にこれが多く分布するということは、衰退したとはいえ、依然、ヤマト政権と密接な関係が続いていたと考えられている。

古墳時代後期(6世紀)には横穴式石室を持つ古墳が出現し、7世紀前半に古墳造りが終わる。丹後ではこの時期、古代の製鉄コンビナートとして有名な遠處遺跡や、金銅装双龍環頭太刀の優品が出土した湯船坂2号墳などが存在する。ただし、すでに丹後王国は消滅して、遠處遺跡もヤマト政権直営の製鉄工房だったとされ、金銅装双龍環頭太刀もヤマト政権服属の証として下賜されたものと考えられている。

和銅六年(713)丹波国から5郡を割いて丹後国が誕生した。奈良時代に入り、大和朝廷が全国を分国して力を弱め支配しやすくした政策で、越後国から出羽国備前国から美作国などと同じ措置である。平城宮や藤原宮出土の木簡に丹後国丹波国の表記がある。

古事記』や『日本書紀』には天皇と丹後の媛との婚姻に関する記事が多く記載されている。「9代開化天皇と旦波大県主由碁理(たにわのおおあがたぬしゆごり)の娘竹野媛(たかのひめ)との婚姻」、「10代崇神天皇の御世、四道将軍丹波道主王(たにわのみちぬしのおう)の派遣」、「丹波道主王と川上摩須郎女との婚姻と日葉酢媛などの御子たち」、「11代垂仁天皇と日葉酢媛他4人の媛たちとの婚姻」、「垂仁天皇と皇后日葉酢媛の間にできた御子が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、12代景行天皇、大中姫命、倭姫命たち」
これらの記事は丹後王国がヤマト政権の成立に大きな役割を果たしたことを示すもので、門脇禎二が提唱した「丹後王国論」の大きな根拠となっている。
ちなみに日葉酢媛の葬儀に際し、垂仁天皇は殉死の風習に心を痛め、他の方法を群臣に問うたところ、野見宿禰が陵墓に土製の人馬などを代わりに埋めるよう進言した。これが埴輪の起源とされる。

丹後国風土記」にわが国最古の伝説といわれる浦嶋子羽衣天女の話が載っている。羽衣天女の話では、天女が最後に住み着いたという奈具村の奈具神社にはこの天女が豊受大神として祀られている。また、伊勢神宮に伝わる『止由気宮儀式帳』(804)によると、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、この豊受大神を自分の食事を司る御食神とするよう告げたので、天皇は丹後にいた豊受大神伊勢神宮に移し下宮に祀ったという。このように古代の丹後の地とヤマト政権との密接な関係を示す話が多く残されている。
下の展示ケースには、神明山経塚出土の平安時代末期とされる経筒と銅鏡(双鳥鏡)が展示されている。末法の世が近づき正しい仏教がなくなるというので、人々はこぞって経典を模写し、経筒に封入して山中などに埋納し、来たるべき時に備えたという。

丹後地方はヤマト政権の成立前後には大きな役割を果たしたが、奈良時代以降は大和朝廷に服属して中世には見るべきものは少ない。これは丹後町大石の薬師堂に安置されていた十二神将である。