半坪ビオトープの日記

竹野神社、神明山古墳


丹後古代の里資料館の向かいに竹野神社がある。境内入口右手に「式内竹野神社」の社号標、左手に摂社の「斎宮神社」の社号標が立つ。その先に三の鳥居が垣間見れる。

参道の右手に丸い池があり、池の中に小さな厳島神社があり、市杵島姫神が祀られている。

三の鳥居の周りには木々が生い茂っている。振り返って二の鳥居は丹後古代の里資料館の脇にあり、一の鳥居は水田の中に続く参道を海に向かって遥かな先にあるようだ。

竹野(たかの)神社は『延喜式神名帳』に大社と記される古社である。文政年間ごろ建造とされる中門(神門)は、神社としては珍しい向唐門の派手な印象を受ける建物で、京都府登録文化財に指定されている。それにしても屋根を支える虹梁上の大瓶束が仰々しく目立つ。

中門の右手には櫛磐間戸神を祀る門斎神社が建っている。その横手から神明山古墳へと続く道が分かれている。

中門の左手には二つの小さな社がある。右が宇賀能魂神と大国主神を祀る稲荷神社であり、左が天児屋根命と社司桜井氏の祖を祀る伊豆神社である。

中門をくぐると石段の上に社殿が見えるが、目の前の拝殿の後ろに本殿があり、その右手に斎宮神社がわずかに見える。

竹野神社は祭神として天照大神を祀る。本殿の右手に摂社斎宮神社が並び、祭神として日子坐大命・建豊波豆良和気命・竹野媛命を祀る。竹野媛は丹波大県主由碁理の娘で、第9代開化天皇の妃となる。『古事記』『日本書紀』にも記され、竹野神社は竹野媛が年老いて天照大神を祀ることに始まると伝えられる。斎宮神社には第31代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承がある。この伝承は「等楽寺縁起」(桃山時代16C)「斎宮大明神縁起」(江戸時代17C)として絵巻に描かれ、京都府登録文化財となっている。
現在の社殿は文政13年(1830)に再建されたものである。本殿は規模の大きな一間社流造で、装飾が抑えられた荘厳な建物である。斎宮神社本殿は対照的に小ぶりな一間社流造で、賑やかな装飾を有している。いずれも京都府登録文化財に指定されている。

この他に竹野区に伝えられ、竹野神社の祭礼に演じられる郷土芸能「竹野テンキテンキ」は、子供6人からなる素朴なものであるが、風流囃子物の古い形を残す芸能で、京都府登録文化財に指定されている。

竹野神社境内でトノサマガエルを見つけた。カエルの代表格であるが、関東地方には住んでいない。それほど太ってはいないが、背中線が白っぽいのでメスと思われる。

中門右手の門斎神社脇から神明山古墳へと向かう。神明山古墳は、丘陵先端部を切断して築造された大型前方後円墳で、網野銚子山古墳・蛭子山1号墳と合わせて「日本海三大古墳」と総称され、国の史跡に指定されている。

この神明山古墳の墳丘長は190mで、古墳時代前期末〜中期初頭の4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。竹野湖という古代の潟湖に対して葺石で覆われた墳丘の横面を見せる形式をとり、当時の丹後地方が潟湖を港として日本海交易を展開した様子が示唆される。

神明山古墳の墳丘から北を眺めやると、竹野川河口砂州の後ヶ浜海岸にある「立岩」が認められる。柱状摂理の玄武岩の自然岩で、高さは約20mで周囲は約1km。間人浦にあるこの巨岩には伝説がある。第31代用明天皇の妃・間人(はしうど)皇后の第3子・聖徳太子の異母弟といわれる麻呂子親王が鰾古・軽足・土車という3匹の鬼を退治した時、2匹は殺し土車だけは見せしめのためこの大岩に封じ込めたといわれる。今でも風の強い、波の高い夜などは鬼の号泣する声が聞こえるという。