豊岡市内を北に流れる円山川の東岸に柱状節理で有名な玄武洞があり、一帯は玄武洞公園として整備されている。玄武洞へ向かう遊歩道には石が敷き詰められているが、ほぼ5角形や6角形のこの石は柱状節理が横に割れてできたもので「六角石」あるいは「灘石」と呼ばれている。
公園の中心にある最も大きな洞窟が玄武洞であり、青龍洞とともに国の天然記念物に指定されている。一帯は山陰海岸国立公園に含まれ、日本ジオパーク(山陰海岸ジオパーク)及び世界ジオパークの認定を受けている。
玄武岩の柱状節理によって、洞窟内では亀甲状の天井や5〜8角の石柱が見られる。江戸時代の文化4年(1807)幕府の儒学者・柴野栗山がここを訪れ、伝説上の動物・玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付けた。
「玄武岩」の名称は、明治17年(1884)東京大学の地質学者・小藤文次郎が岩石の日本名を制定する際に、玄武洞の名に因んで命名した。
約160万年前の噴火によって噴出されたマグマが冷却され、玄武岩溶岩の厚い層が形成された。その後、河川による侵食により玄武岩塊がむき出しとなった。玄武洞の玄武岩は、マグマが冷却される際に体積が小さくなることでできる割れ目(節理)が顕著で切り出しやすかったこともあり、これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残った。つまり洞窟は天然のものではなく、坑道・採掘跡地である。
大正15年(1926)京都大学の地球物理学者・松山基範博士がここの玄武岩の持つ磁気が現在の地磁気と反対の向きを示すことを発見した。つまり世界で初めて地磁気の逆転を発見した。現在では260万年前から78万年前までは現在と反対向きであったことが認められており、この時期を松山期(松山逆磁極期)と呼んでいる。
玄武洞の洞窟は、右手(南)から青龍洞・玄武洞・白虎洞・南朱雀洞・北朱雀洞と五つ並んでいる。ここは玄武洞の右の青龍洞である。
青龍洞は、高さが33mあり、15mにも及ぶ見事な柱状節理が見られる。
ここで切り出された玄武岩は周辺地域で漬物石や石垣とか庭石の石材として使われており、現在でも豊岡の石積みなどで見ることができる。大正14年(1925)に発生した「北但馬地震(北但大地震)」によって壊滅的な被害を受けた城崎温泉街の復興時に、地震で崩れた大量の玄武岩が円山川を船で運ばれ、城崎温泉の大谿川護岸整備に使われた。現在は天然記念物に指定されているため、持ち帰ることは禁じられている。
玄武洞の左に白虎洞がある。この白虎洞では水平方向に伸びた柱状節理の断面を見ることができる。玄武洞の垂直方向に伸びた節理と比べると細いことに気づく。一般に柱状節理はゆっくり冷えた所ほど太くなるので、この付近では溶岩が速く冷えたこと、つまり溶岩の周縁部に近いことがわかる。
白虎洞の左に南朱雀洞がある。入口脇の岩石には節理がなくコブ状となっている。溶岩流の先端部分で後から来る溶岩に押し出されて塊状の岩石になっていて、ガスの抜けた穴が見られるというが、残念ながら苔に覆われてよく見えない。
一番左手の北朱雀洞は、垂直方向の摂理が上部に向かって徐々に水平方向に変化していく様子を観察できるという。しかし、崩落の危険でもあるのか手前に柵が置かれ、生い茂る草に覆われてほとんど見えなかった。
玄武洞から少し北に城崎温泉がある。平安時代から知られる温泉で1300年の歴史を持つ。コウノトリが傷を癒していたことにより発見との伝説がある。養老元年から四年(717-20)道智上人が千日修行を行なった末に湧出したことが城崎温泉の始まりという。駅前通りの突き当たりにはモダンな建物、外湯巡りの一つ・地蔵湯が見える。
城崎温泉駅前から7つの外湯につながる大谿川沿いに温泉街を形成し、川べりの柳に風情がある。江戸時代の温泉番付によると西の関脇にランクされる。ちなみに西の最高位の大関は有馬温泉であった。すでに江戸時代にも近郊の藩主や藩士が多数訪れ賑わっていたが、明治以降も文人墨客に愛され、『城の崎にて』を書いた志賀直哉、作家・有島武郎をはじめ多数の文豪が来訪した。大正14年(1925)の北但馬地震で町は全焼するが、震災まで全ての旅館に内湯はなく、客は各所の外湯に通っていた。復興時に三木屋旅館が城崎初の内湯を設けたところ、伝統を壊すと司法も巻き込んだ20年以上の紛争に発展した。昭和25年になってようやく和解し、内湯の設置が認められたが規模は制限され、広い浴場を希望する客は外湯に通うこととされた。旅館宿泊者は全外湯の入浴料を免除される制度が採用されて、浴衣姿で7つの外湯をめぐる「外湯巡り」が名物となった。
現在7つある外湯の筆頭である「一の湯」は江戸時代には「新湯(あらゆ)」と呼ばれていたが、江戸時代中期の古法派の漢方医・香川修徳が泉質を絶賛し、「海内一(かいだいいち)」(日本一)の意を込めて一の湯に改名した。「海内第一泉」の碑は近代温泉学の泰斗・藤浪博士の書である。
「日没を円山川に見てもなほ 夜明け目きたり城の崎くれば」(与謝野晶子)
柳通りから城崎温泉の中心地、一の湯の前の湯の里通りに入ると、正面に大師山が見える。昭和38年(1963)には温泉街と大師山山頂を結ぶロープウェイが開通した。高度成長に合わせて温泉ブームが到来し、城崎温泉は巨大な観光地となった。