半坪ビオトープの日記

久々比神社


コウノトリの郷公園の近く、豊岡駅の北東3kmほどの下宮に、日本で唯一コウノトリに縁のあるという久々比神社がある。境内前の下ノ宮川に架かる朱色の欄干の橋を渡ると、石造鳥居が二つ並んでいる。

鳥居の先に見える風変わりな建物は、切妻、桟瓦葺、三間一戸の八脚単層門で、割拝殿風の神門である。社号の久々比とは、「鵠(くぐい)」の意で、コウノトリの古称とされる。

久々比神社の創始は不詳だが、『日本書紀垂仁天皇23年によると、垂仁天皇の皇子・誉津別王は、30歳になっても言葉を喋らなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰った。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命はこれを追い、出雲で捕えたとも、当地の但馬で捕えたとも伝えられ、その功績によって鳥取造の姓を賜ったという。

拝殿は入母屋造桟瓦葺、平入、桁行3間、梁間1間半、正面1間向拝付。

拝殿の奥は開け放たれ、その先の本殿を拝むことができる。コウノトリの親鳥とひなを描いた絵馬が多く奉納されている。

拝殿内には、古色蒼然とした神輿が安置され、久々比神社の由緒書も掲げられている。

拝殿の右手には境内社の鳥居が見え、その手前にコウノトリ銅像が奉納されていた。久々比神社の鎮座する下宮は、昔より鵠村と言われていたように、古来よりコウノトリが数多く大空を待っていた地域である。

右手の境内社は、事代主尊を祀る八幡社である。

久々比神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳式内社として列した但馬国城崎郡21座の内の1座で、近隣6集落の氏神として信仰されてきた。古くから神仏習合し「宗像大明神」などと呼ばれていたが、明治初頭の神仏分離令により仏教色が一掃された。現在ではコウノトリに縁があることから子宝に御利益があるとして信仰されている。

祭神は社号の久々比からか、「久久遅命」あるいは「久久能智命」とされるが、長らく「宗像大明神」と称していたので「多紀理比売命」を祀るという説や、『日本書紀』の話から「天湯河板挙命」とする説もあるという。

現在の本殿は、永正4年(1507)に再建されたもので、三間社流造、杮葺、正面3間向拝付。とりわけ蟇股の彫刻が優れ、東西両側の正面寄りの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻されている。さらに斗、肘木、龍鳳象獅などの彫刻や細部の技法など見所が多く、室町時代中期の大型本殿建築の遺構として国の重文に指定されている。近くの酒垂神社は一間、中嶋神社は二間の流造と規模は異なるが、建築年代は中嶋神社が正長元年(1428)、酒垂神社が文安元年(1444)と接近し、久々比神社もその頃の建造と考えられている。

この本殿は昭和46年の大規模解体修理で永正4年の再建時期が判明したが、棟札により元禄15年(1702)、正徳元年(1711)にも一部修理されたことがわかっている。

社殿の左手には、保食神を祭神とする稲荷社と、少彦名命を祭神とする三柱社が並んで祀られている。