文永の役(1274)では、3万数千人の元・高麗軍が博多に来襲し、激戦になったが夜に前代未聞の暴風雨が博多湾を襲い、翌日、元軍の姿は消えていたという。弘安の役(1281)で元軍は、太宰府を落とすために最も便利な良港であった、ここ瀬戸浦を占領せんと襲ってきた。壱岐の守護を勤めていた少弐資時は一軍の将として勇敢に戦ったが、激戦の末、壱岐の守備隊は全滅した。その後、またもや暴風雨が博多湾を襲い、元軍は壊滅した。
拝殿内に元寇碇石が保存展示されている。芦辺港周辺だけで5本の碇石が確認されているという。
昭和19年(1944)に本殿が建設された。壱岐で一番新しい神社である。
芦辺港の南を東に向かい、壱岐の島東部に突き出た八幡半島の先端に左京鼻がある。玄界灘の荒波に削られた断崖と草原が約1kmにわたり続き、沖には玄武岩の柱状節理の石柱を束ねたような奇岩が聳り立つ。海の向こうには男岳や女岳、魚釣崎などの壱岐島北東部が眺められる。
ここも猿岩と並ぶ、壱岐の八本柱(折柱)の一つである。観音岩や夫婦岩とも呼ばれる。左京鼻という名の由来にはいくつか説があるという。江戸時代前期に旱魃が続き、陰陽師の後藤左京らがこの場所で雨乞いを行うと大雨が降り出し、村人が救われたという伝説が残っている。
八幡半島の付け根の南側、海女漁で知られる八幡浦に面して、「はらほげ地蔵」と呼ばれる六地蔵が祀られている。胸に丸い穴が空いていることからこの名で呼ばれる。潮が満ちると頭まで海中に没してしまう。