昨夏の対馬に続き、今夏は8月上旬に壱岐の島を巡った。魏志倭人伝に「一支國」と記された壱岐には、弥生時代の遺跡や古墳、神社など、歴史的な史跡が多い。博多からフェリーで着いた東の芦辺港で車を借り、一周約40kmの壱岐の島を西へ向かうと、すぐに月読神社に着く。神社の由緒では、祭神は月夜見尊、月読尊、月弓尊の三柱を祀るがいずれも同神である。延宝4年(1676)に橘三喜が当社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、式内社とされたが、現在では疑問視されている。延宝以前の由緒来歴は不明。古くは「山の神」と称し、社もなかったという。
現在、月読神社に比定されているのは、箱崎八幡神社であり、元は月読神社として創建された男岳神社から遷座され、その後、海裏神社、八幡大神海宮、箱崎八幡神社と改称されたという。詳しいことは、箱崎八幡神社も男岳神社も後日訪れるのでそこでまた述べる。「日本書紀」顕宗天皇3年(487)阿閉臣事代が任那に使いに出された時、壱岐島で月神が憑りついて宣託をしたので天皇に奏上し、壱岐の県主の先祖・忍見宿禰が壱岐島から月神を勧請して山城国葛野郡歌荒樔田の地に葛野坐月読神社を創建したとあり、その本宮とされる。京都の松尾大社摂社月読神社の本社とされる。
いろいろ曰くがあるけれども、壱岐の観光案内では、依然として有名な神社とされる。境内入口の案内では、忍見宿禰が壱岐島から月神を勧請して、京都に月読神社を創建したとあるので、壱岐島が神道発祥の地であるという。さらに伊勢神宮内宮に月讀宮、外宮に月夜見神社があり、壱岐島の月読神社が全国の月読社の元宮ともいう。本殿は拝殿の後ろに一体となって続いていて、外からは確認できない。
祭神は月讀命、月夜見命、月弓命の三柱を祀っている。
社殿の右手に赤い鳥居があり、二つの石祠には月読神社と彫られているが、右の石祠には月弓命、左の石祠には月夜見命の札が掲げられている。
月読神社の西500mに國片主神社がある。壱岐島のほぼ真ん中に位置する神社で、すぐ近くには島の真ん中を意味する「へそ石」も置かれ、100mほど北には国分寺跡もあり、このエリアが壱岐の中心地だった時期があったと思われる。滅多にお目にかかれないような壮大な石鳥居が聳え立つ。由緒には、元禄14年(1701)石鳥居造替とあり、その後に鳥居の記事がないことから、これが元禄時代の鳥居と思われる。
國片主神社の境内には多彩な願掛けがある。左のミニ鳥居が三つ並ぶのが「願掛け鳥居」で、厄除けや合格祈願、商売繁盛などのご利益があるという。右手の小さな小僧が、「撫で小僧」という。
由緒によると祭神は、少彦名(スクナヒコナの)命で、相殿には菅贈相國(かんそうじょうこく、菅原道真)も祀られていて、別名、国分天満宮、国分天神とも呼ばれている。嵯峨天皇弘仁2年(811)の創建とされ、延喜式内社で、壱岐島大七社・五大天神の一つ。國片主(くにかたぬし)の名は、祭神・少彦名命が大国主命と二人で国土経営を行なったことによる。壱岐島大七社とは、白沙八幡・興神社・住吉神社・本宮八幡・箱崎八幡・國片主神社・聖母宮。