辰ノ島周遊のあと勝本浦に戻って史跡散歩を続ける。曽良の墓があると聞いて、城山公園に向かった。蕉門十哲の一人である河合曽良の終焉の地である勝本町は、曽良翁の生誕地である長野県諏訪市と平成6年(1994)友好都市の提携を行った。その4年後、無形民俗文化財「諏訪大社の御柱祭」のシンボルである御柱を諏訪市より寄贈され、城山公園の一角に建立された。
平成元年(1989)「曽良忌280年祭」が諏訪市より墓参団を迎えて盛大に営まれた。新しい曽良の句碑には「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原」と刻まれ、城山公園に建てられた。元禄2年(1689)芭蕉と曽良は石川県の山中温泉に辿り着いた。ここで腹痛に苦しみ、芭蕉の足手まといになることを心配した曽良は、芭蕉と別れて、伯父の秀精法師を頼るが、その折の別れの句である。これに対し芭蕉は、「今よりは書付け消さん笠の露」の句を残す。芭蕉の笠には「乾坤無住同行二人」と書かれていたので、曽良と別れるためにこの同行の字を消さねばならないと悲しんでいる。
国の史跡である勝本城址には、勝本港を望む城山の山頂部に本丸跡の石垣や礎石群が残されている。勝本城は、秀吉が天正19年(1591)、文禄・慶長の役に際して、本陣の名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐と対馬に兵站基地となる城を築くことを命じ、壱岐では島の領主・松浦鎮信が築城した。城山公園には城山稲荷神社が鎮座している。
築城と同時に戦勝が祈願され、城山稲荷神社には稲荷大明神が祀られている。
城山の山麓に曽良の墓がある。河合曽良は、慶安2年(1649)に上諏訪に生まれ、若い時に両親を亡くし、伯父がいた伊勢長島の元で成人し、伊勢長島藩主・松平土佐守亮直、松平佐渡守忠充に仕官し、河合惣五郎として活躍した。その後江戸に移り、神道家・吉川惟足に入門し国学を学んだ。その時松尾芭蕉と出会って弟子入りした。木曽川と長良川に挟まれる長島の地に因んで「曽良」の俳号を賜った。『奥の細道』の旅に随行した後、宝永6年(1709)に幕府の巡検使隋員となり、九州を周り、翌年壱岐国風本で病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は勝本の能満寺。
再び勝本浦の古い街並みに戻る。細い路地に入ると、左手に印鑰神社がある。昔、勝本浦が可須浦と本浦に分かれていた頃、本浦の氏神だった。「印」は官印、「鑰(やく)」は郡官庁兵庫の鍵を示す。本浦城跡に防人司の兵庫が置かれ、神社は兵庫の印と鍵を保管する所であった。鳥居は弘化4年(1847)に建立。