半坪ビオトープの日記

箱崎八幡神社、女嶽神社

箱崎八幡神社
次に向かったのは、壱岐の北東部、芦辺町箱崎にある箱崎八幡神社。道路に面してがっしりした一の鳥居が建つ。

二の鳥居

40段ほど石段を上ると少し広くなって、二の鳥居の先にまた石段が続く。苔も草も多い。

三の鳥居と社殿
石段を上り詰めたところに三の鳥居が建っていて、その先にようやく社殿が見える。豊玉毘古命や玉依姫命など海の神様を祀る箱崎八幡神社は、航海安全や大漁祈願などにご利益があるとされ、古くから海の男たちの守り神として親しまれている。社伝によると、桓武天皇延暦六年(787)の外寇の際、壱岐箱崎八幡神社、本宮八幡神社、白沙八幡神社、印鑰神社、聖母宮の五社を勧請したうちの一つという。境内には捕鯨発祥の地である紀州熊野浦の日高弥吉が奉納した「明応二年(1493)」の銘が刻まれた一基の金灯籠が安置され、壱岐で最も古い狛犬が本殿の後ろに安置されているという。

拝殿

さらに数段上って色鮮やかな拝殿を眺めると、小さく高欄が設けられている。式内月讀神社と高御祖神社の論社である。現在、月讀神社と称する式内論社が他に存在し、高御祖神社と称する式内論社も他に存在しているが、両社の査定は江戸時代の橘三喜による誤りであるとされている。また、箱崎八幡神社壱岐七社の一つでもある。七社とは、白沙八幡、興神社、住吉神社、本宮八幡、箱崎八幡、国片主神社、聖母宮とされる。この壱岐七社に、月読神社も天手長男神社(壱岐国一宮)も入っていないことに留意したい。

吉野氏(壱岐氏の裔)文書によれば、原初オンダケ山に鎮座し、その後山を下りて上里の東屋敷、下里の辻、新庄村の宮地山と遷座し、元禄13年(1700)現在地、箱崎村根低(もとかぶ)山へ落ち着いた。オンダケ山は男岳山と書かれ、現在猿田彦を祀る男嶽神社がある。また、イヲトリ(五百鳩)山、磯山とも呼ばれ、『和漢三才図会』には、当社は「磯山権現 磯山にある。祭神一座 竜神 聖武天皇神亀年中に現れる」と記されている。現社名、箱崎八幡は、正慶元年(1332)に筑前筥崎宮を勧請した結果。この地が筑前箱崎宮神領になっていたからで、社号の変更にともない、村名も椙原村から箱崎村に変わったという。八幡神により地主神が消されることは各地で見られることだが、それ以前から遷座を繰り返し、祭神の変更や合祀が何度も行われて、現在も祭神も数多く、どれが本源の神だったかわかりにくいが、この後訪ねる男嶽神社でもう一度考えてみたい。

本殿

拝殿の背後には簡素な幣殿が続き、本殿も質素な感じがする。祭神として、海裏宮には豊玉毘古命(または豊玉姫命)、玉依姫命が祀られ、八幡宮には品陀和気命応神天皇)、仲日売命(中津姫命)、帯中津日子命仲哀天皇)、息長帯日売命(神功皇后)が祀られ、月讀神社には天月神命が、高御祖神社には高皇産霊神が祀られる。別殿には、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られる。天一柱神=天比登都柱とは、伊邪那岐神伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つで、伊伎嶋(壱岐)の別名である。

日本書紀』巻八、仲哀天皇九年二月条に、仲哀天皇の急逝に際し、皇后と大臣竹内宿禰天皇の喪を天下に知らしめず、皇后の気長足姫(後の神功皇后)は、大臣及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連に、百姓(人民)に知らせてはならないと断った上で、百寮を率いさせ、宮中を守らせた、とある。つまり、中臣烏賊津は、古墳時代の豪族・中臣連の祖とされる。別名、雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)は、神功皇后と共に新羅から帰還した後、対馬県主となって豆酘に館を構え、太古の亀卜の術を伝えたとされた。そのことは対馬の雷神社を訪れた際にも触れたはずである。

日本書紀顕宗天皇三年二月条に、阿閉臣事代が任那に使し、壱岐を通過した際、月神が人に著(かか)りて託宣した。「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔ひ造せる功有します。宜しく民地を以て我が月神に奉れ。若し請の依に我に献れば、福慶アラム」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。『式社略考』には、「高御祖神社は箱崎村にありて、八幡神社の別殿に高皇産霊を祀る」とあるように、月神がその祖高皇産霊は同じ場所に祀られていた。

境内社
社殿の右手奥には境内社がいくつか合祀されているが、詳細はわからない。『芦辺町史』には、摂社として亀丘大神宮、椿山神社、丘坂神社、塩釜神社、小松原神社、貴船神社の6社、末社として男岳神社、大神宮、恵美須の3社が載るが、どれかはわからない。

境内社
別殿に、天一柱神、烏賊津連、武内大臣、乙魂神が祀られるとあったが、もしかしたらこの4社が別殿なのかもしれない。ちなみに、天一柱神は壱岐島の国魂である天比登都柱命(あめひとつはしらのかみ)で、『古事記』神代巻の大八洲生成の段で、伊伎島(壱岐島)の亦の名は天比登都柱とされている。烏賊津連は、対馬の雷命神社に祀られている雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)のことで、卜部の祖として祀られ、橘氏はその直裔とされる。武内大臣は、武内宿禰のことで、『日本書紀応神天皇9年4月条に壱岐での出来事が書かれている。乙魂神については残念ながら何もわからない。

女嶽神社
箱崎八幡神社から北東に男嶽神社に向かうが、途中、左の女岳山(149m)の山頂付近に女嶽(めんだけ)神社があるので寄ってみた。深い林の中の細い道路を進んでいくと、人気のない場所にようやく女嶽神社の社殿が現れた。男嶽神社と並び壱岐島でも古い神社なのにも関わらず、鳥居も社殿も真新しい。最近改築されたのであろう。

拝殿内部
拝殿内部も真新しく質素である。祭神として、アメノウズメノミコト(天鈿女命)を祀る。記紀神話で、天岩戸に隠れたアマテラスを踊りで誘い出した女神で、最古の踊り子として芸能の始祖神としても祀られる。

本殿
アメノウズメノミコト(日本書紀では天鈿女命、古事記では天宇受賣命)は、後に男嶽神社の祭神である猿田彦命と結婚し夫婦神になることから、男嶽神社と女嶽神社を合わせて巡ると良縁に恵まれるという。

稲荷神社
社殿の脇に境内社があった。小さな狐の置物があるので稲荷神社であろう。参道の途中に、女嶽神社の神体とされる巣食石(すくいいし)という巨石があるというが、見過ごしてしまった。