半坪ビオトープの日記

碧雲荘、志々岐神社

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原の辻・石田地区
原の辻・石田地区マップをみると、壱岐南東部の石田地区には、壱岐空港やフェリー発着の印通寺港、海水浴場など現在も賑やかな観光地となっているのがわかる。松永安左エ門記念館も後で立ち寄ることにする。その裏に碧雲荘がある。

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碧雲荘の門
印通寺港を見渡す豪邸・碧雲荘の入口は、巨大な柱で組まれた間口6mの木造の門である。

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碧雲荘
この碧雲荘は、朝鮮半島で財をなした印通寺浦出身の資産家・熊木利平が昭和初期に建てた邸宅で、木造の母屋と門と石垣が国の登録文化財になっている。

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松永安左エ門記念館
長崎県対馬から壱岐島を貫通し佐賀県唐津市に至る(海上)国道382号に沿う石田町松永安左エ門記念館がある。石田町出身の「日本の電気王」「電力の鬼」とも称された松永安左エ門1875-1971)は、慶應義塾福沢諭吉の教えを受け、明治43年(1910)九州電気設立を契機に電気事業に着手し、明治から昭和にかけて、日本の電力の歴史を牽引し続けた。

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福博電気軌道の路面電車と松永夫婦の胸像

入口には松永が設立した福博電気軌道(後の西日本鉄道)の路面電車が置かれ、館内には犬養毅後藤新平福沢諭吉からの書などが展示されている。中庭には彫刻家・北村西望が製作した、松永夫婦(安左エ門・一子)の胸像が設置されている。

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マリンパル壱岐
印通寺で昼食をとることになったが、めぼしい店が臨時休業となっていたので、地場産品の直売所兼土産売り場のマリンパル壱岐で、イートインにした。刺身は「ヨコワ」という天然マグロの幼魚。わさびと醤油もサービスしてもらった。

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志々岐神社
昼食後、印通寺港のすぐ東にある小さな志々岐神社を訪れることにした。人気のない道を海に向かって進むと、大きな石造鳥居を潜ることになった。昭和期の鳥居という。残念ながら逆光で、扁額の文字は読み取れない。

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亀崎
海に出たところに灯明台が一組あり、そこから東(左手)に進み、(右手を)振り返ると銭亀崎という小さな岬が見える。小さな白浜もひっそりしている。その向こうが印通寺港である。

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行き止まりにニの鳥居
行手の東は行き止まりで、江戸時代のものといわれる二の鳥居のところに、軽自動車が止まっていた。人気がなく静かな休憩所だ。志々岐神社は志自岐神社、志々伎神社とも書かれる。

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志々岐神社の二の鳥居
小さな石造鳥居と灯籠があり、急な石段の上に社殿らしき建物が見える。

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淡嶋社
石段の途中左手に、淡嶋社が祀られていた。珍しく金属製と思われる鳥居が立っている。

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志々岐神社の社殿
急な石段を上り詰めると、ようやく社殿らしき建物が現れた。

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拝殿、本殿、稲荷神社
社殿は拝殿で、その奥に本殿の屋根だけが見えた。主祭神十城別王(トオキワケノミコ)で、他に武加比古王、日本武尊、帯彦天皇、稲依王、稚武王(ワカタケノミコ)、稚武彦王も祀られ、異常なほど祭神が多い。主祭神十城別王は平戸の志々岐神社に祀られていて、そこが本社で対馬の厳原など九州にいくつか分社があるという。『日本書紀』によれば、十城別王日本武尊と吉備穴戸武媛の子で伊予別の祖という。日本武尊は最初、垂仁天皇の娘・両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、帯彦天皇(足仲彦ともいい、後の仲哀天皇)、稲依王、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(ワカタケノミコ)という子があり、また、吉備武彦の娘・吉備宍戸武姫(きびのあなとたけるひめ)とも結婚し、武加比古王と十城別王という子があり、さらに、忍山宿禰の娘・弟橘姫と結婚し、稚武彦王という子がある。十城別王は、神功皇后新羅遠征(三韓征伐)に軍大将として従軍し、帰還後も外敵防御のため平戸に留まり生涯を終えたという。神社の伝承によると、神功皇后壱岐に寄った時、従軍の十城別王は戦争が怖くなって途中で引き返した。神功皇后は命令に違反しているといって、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、過たずに王を射通した。その後、この地を「射通し」と言い、訛って「印通寺」となったという。本殿の神紋は、神功皇后の三五の桐の紋である。末社は稲荷神社。

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動物の石像
拝殿の左手にはいくつかの記念碑が立ち、その上に龍や鷹と思われる動物の石像が安置されていた。