道路の海側には目新しい巨大な鳥居があったが、山側には元和7年(1621)年建立の島内最古という古めかしい二の鳥居がある。こちらが最初に建てられた鳥居で、当初は高かったが、風が当たるとのことで土の中に一部埋められて低くなったという。この石鳥居には、大旦那松浦豊後守源信実立之の銘が刻まれている。松浦信実豊後守は、平戸家の壱岐における代官として壱岐亀岡城代に任じられている。
白沙八幡神社の社殿は、宇佐の方向(辰、東南東)を向いていると言われる。最初の創建は奈良時代とも平安時代とも言われるが、大分県の宇佐神宮から勧請したからその方向を向いているという。平安時代にこの周辺は筒城庄と呼ばれ、宇佐弥勒寺の寺領だった。昔は地方の社寺が、領地を力の強い社寺に寄進して守ってもらうことが行われていて、そこから宇佐八幡宮と関係ができている。『壱岐神社誌』によれば、石清水からの勧請で、八幡勧請以前は筒城宮あるいは管城(つつき)社と呼ばれ、玉依姫命を祭神とする海神社だったという。延宝の橘三喜による式内社調査によれば、近くの現・海神社が式内社・海神社に比定されているが、その後の諸説では、当社が式内社・海神社とされている。壱岐七社参拝の一社でもある。
白沙八幡神社の祭神は、三韓出兵にゆかりのある仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、および中比売命、仁徳天皇、玉依姫命、武内大臣である。天井絵は、昭和天皇の大典を記念して昭和4年に氏子有志が奉納したもので、それぞれの絵に奉納者の名が記されている。拝殿中央の案の下に横たわる石は韓櫃石(からひついし)といい、言い伝えでは、昔、拝殿を立て替えようとしてこの石を取り除こうとしたが、石から血水のようなものが流れ出したので人々は恐れて取りやめたという。
拝殿内には、天井絵の他にも、江戸時代に肥前国平戸藩主・平戸松浦氏第29代・松浦鎮信(まつらしげのぶ)が奉納した、三十六歌仙の板絵が掲げられている。36歌仙とは、平安時代に藤原公任の「36撰」に選ばれた歌人のことで、柿本人麻呂、紀貫之、小野小町などがいる。
本殿は重厚に造られているが、建立時期は不明。神紋は左三つ巴。
白沙八幡神社の社叢は、壱岐に昔から遺る鎮守の森で、以前は禁足の地だったため、鬱蒼とした樹林が残る自然暖帯林で、県指定天然記念物となっている。スダジイが優占し、ヤブニッケイ・タブノキ・イヌマキ・ホルトノキ・イスノキ・クスノキなどの高木が林冠を形成する。林内にはヤブツバキ・イヌガシ・ハマビワ・ネズミモチ・コショウノキ・ハクサンボク・クチナシ・ヒサカキなどの常緑低木が生育し、林床にはアリドウシ・ホソバカナワラビ・フウトウカズラ・テイカカズラ・キジョラン・ツワブキ・ムサシアブミが繁茂する。このイチョウは、目通り幹囲4.27m、樹高約21m、島内4位との標識があるが、よく見ると、途中で折れているようだ。
本殿の左手前には、何やら曰くありげな大石があったが、謂れは不明。
本殿の左手に小さな石祠が二つ祀られていた。末社と思われるが、詳細は不明。