厳原町の中心部に広い駐車場があり、清水山の麓に八幡宮神社と天神神社などが並んで鎮座している。社叢にはクスノキなどの巨木が目立つ。右の鳥居と大きな石段が八幡宮神社の参道で、すぐ左の小さな石段が宇努刀神社の参道である。
八幡宮神社は古くから対馬藩主や島民の崇敬を集めてきた古社である。大きな神門は珍しく高床式となっていて、中には随身像がある。
大きな八幡宮の扁額が掲げられた背の高い神門の間から、正面遠くに八幡宮の拝殿が見える。
厳原八幡宮神社とも呼ばれる八幡宮神社は、祭神として神功皇后、仲哀天皇、応神天皇他を祀る。社伝によれば、神功皇后が三韓出兵からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は心霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったという。天武天皇6年(677)天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営し、八幡神を祀ったのに始まると伝える。
拝殿内にも大きな扁額が掲げられ、奥には本殿への扉が見える。
本殿の左側に宝物館があり、拝観料を払うと、藩主が奉納した高蒔絵三十六歌仙額(1644-72頃)や元服時の髪などを拝観できるが、撮影禁止である。その入口に向かう石段から、本殿を間近に見ることができる。
拝殿に向かって左側手前には、小さな境内社が三つほど並んでいるが、詳細は不明である。
その左に高さ3mほどの平神社がある。この平(ひらの)神社は延喜式神名帳に載る式内社である。祭神として天穂日命が祀られ、後に日本武尊、仁徳天皇、皇子の三神が加祭された。記紀によると、天穂日(あめのほひ)命は、天照大神と須佐之男命が誓約した時に生まれた五男三女神の一柱で、天照大神の第二子とされ、天忍穂耳命の弟神にあたる。芦原中国平定のため出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。のちに他の使者達が大国主神の子である事代主神などを平定し、地上の支配に成功すると、大国主神に使えるよう命令され、子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。
八幡宮神社の石段のすぐ左の幅の狭い石段が、宇努刀神社の参道である。
宇努刀(うのと)神社は、延喜式神名帳に載る式内社である。神功皇后が三韓出兵の帰途、上県郡豊村に着いた際、島大国魂神社を拝んだ。その後佐賀村に着いた時、島大国魂神社の神霊を分祀した。延徳3年(1491)佐賀村より厳原八幡宮神社境内に遷座したという。祭神は須佐之男命である。
一番左の苔むした石段が天神神社と今宮・若宮神社の参道である。
天神神社の祭神は安徳天皇である。安徳天皇は「平家物語」では、壇ノ浦の戦いで入水し崩御したと記述されている。しかし、天神神社の社伝によれば、安徳天皇は文治の乱を避けて筑紫に潜み、筑紫の吉井より対馬に下り、久根村に遷居した。対馬にて崩御した後、八幡宮神社境内に祀り、天神神社と称したという。貞治元年(1362)菅原道真の霊を加え祀った。
今宮若宮神社の祭神は小西夫人マリアである。小西行長の長女で対馬藩主・宗義智に嫁いで金石城に入った小西夫人マリアは、信仰心篤く義智をも入信させた。関ヶ原の戦いの後、小西家滅亡と共に慶長6年(1601)追われて長崎に逃れたが、家康に疑われることを恐れて義智はマリアを離縁した。5年後世を去ったが、元和5年(1619)霊魂を鎮めるためにマリアとその子を祀り、今宮・若宮神社と称し、後に天神神社に合祀された。菅原道真と同様、マリアの怨霊が対馬に祟りをもたらすのではないかと恐れたために祀ったと思われる。