半坪ビオトープの日記

金石城跡、清水山城跡

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濱殿神社

対馬下島の北部は美津島町が占め、東部、南部、西部を厳原町が占める。最大市街地の厳原地区以外は、西部の佐須川流域を除き、平地がほとんどない。市役所付近は7世紀には対馬国国府が置かれた地と考えられているが、いまだその遺構は見つかっていない。鎌倉時代対馬を治める宗氏が城下町を造って以来、対馬の中心地である。市役所のすぐ東、国道沿いの今屋敷家老屋敷跡の向かいに、濱殿神社という小さな神社を見つけた。今屋敷家老屋敷跡の発掘調査の報告書(2004)を読むと、享禄元年(1528)の金石城築城以降に当時の海岸を埋め立てて家老屋敷を造成したようだ。祭神は豊玉彦命を祭る。浜殿神社の由緒によると、神功皇后新羅遠征時に豊玉彦を殿守として祭祀したという。対馬のほぼ中央には豊玉町があり、和多都美神社などヒコホホデミ(山幸彦)や豊玉姫伝承が満ち溢れている。しかし、対馬豊玉彦を祀る神社は豊玉町仁位の浜殿神社と厳原町今屋敷の浜殿神社の2社に過ぎない(和多都美神社境内社の波良波神社もあるが)。一方、豊玉姫とヒコホホデミを祀る神社は十数社知られている。豊玉姫の父神である豊玉彦が祀られている神社が少ないことにはなんらかの事情があるようだが、よくわからない。豊玉姫神武天皇の父であるウガヤフキアエズノミコトを産んだ地の伝承は宮崎県鵜戸神宮にもあるが、対馬の伝承との関係もよくわからない。機会があれば、また触れることにしたい。

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池神社

同じ今屋敷という街区に、池神社という小さな神社を見つけた。祭神として、建彌己己命(タケミココノミコト)と弥都波能売神(ミツハノメノカミ)と佐須景満を祀る。説明板によると、神武天皇の時代、津島(対馬)の県主だった建彌己己命がこの地に館を置き、この地に大池があったため水の神の弥都波能売神を合わせ祀って本主神社また池神社と称した。大永6年(1526)宗将盛は館を中村より池の地に移したので池の城、あるいは池の館という。これより今屋敷の名起れり。今、大池埋まりて無し、という。

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金石城跡、櫓門

市役所から西北西に進むと金石城跡がある。この東の櫓門は大正期まで現存していたが、今は復元されたものである。金石城は近世にかけて宗氏の居館が置かれた城である。享禄元年(1528)、一族の内紛で池の屋形を焼失した14代宗盛賢(将盛)は、この金石原に金石屋形を建てた。その後大火が相次ぎ、寛文5〜9年(1669)頃、整備されて金石城と称し、対馬治世の拠点となった。

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旧金石城庭園

城の西にある国指定名勝の旧金石城庭園は、元禄3年(1690)から3年かけて築庭された近世庭園で、池の形状が「心」という字に見立てられていることから通称「心字池」とも呼ばれる。池底に漏水防止のため、種類の違う粘土を交互に重ねて叩き締めた「版築」という工法による底打ちを施しているなど、希少な構造を持つ近世庭園遺構として注目されている。2008年に復元工事が終了し一般公開されている。

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李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑

旧金石城庭園の手前には広い公園が整備されていて、そこに「李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑」が建っている。1931年、朝鮮国王高宗の娘・徳恵姫が、旧対馬藩主当主の宗武志(たけゆき)伯爵と結婚したことを記念し、当時対馬に住んでいた韓国人により建立された。

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誠信之交隣、雨森芳洲先生顕彰碑

公園前を北西に進むと道端に、「誠信之交隣、雨森芳洲先生顕彰碑」が建っている。雨森芳洲滋賀県長浜市に生まれ、元禄2年(1689)、対馬藩に仕官した儒学者である。長崎で中国語を学習し、さらに朝鮮語習得のため釜山倭館で勉学に励み、語学教育など幅広い分野で多大な貢献をした。江戸幕府将軍の就任祝いとして派遣された朝鮮通信使の江戸行きに2回随行した。宝暦5年(175588歳で没し、長寿院に墓がある。

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清水山城跡へ上る石段

雨森芳洲顕彰碑のすぐ先に清水山城跡へ上る石段がある。右手の赤い実をたわわにつけている木は、サンゴジュ(Viburnum awabuki)である。関東以西、四国、九州、沖縄、朝鮮南部の沿海部の山地に自生する常緑樹で、高さは5〜15mになる。枝は灰褐色、葉は対生し、長さは8〜20cm、厚くて光沢がある。6月頃、枝先に白い花を多数つける。

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モンキアゲハ

ランタナの花の蜜を吸っている蝶は、モンキアゲハPapilio helenus)。関東以西、四国、九州、沖縄、インド、東南アジア、中国、台湾、朝鮮南部と広く分布する。低山地に生息し、食草は主にカラスザンショウを食べる。黄白色の大きな紋が印象的な大型のアゲハチョウ。ランタナLantana camara)は、クマツヅラ科の常緑小低木で、南米が原産、観賞用に栽培されている。

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清水山城跡の三の丸

入口から10分程上ると、急に視界が開けてくる。ここが清水山城跡の三の丸である。厳原市街地や厳原港が一望できる。山城跡の東端に位置し、標高95105mの尾根の両肩部に石垣を築き、尾根に沿って細長い形状の曲輪を構成する。東西約80m、南北約30mである。豊臣秀吉朝鮮出兵の準備のため、1591年に築かれた山代で、出兵の拠点である肥前唐津名護屋城から、壱岐の勝本城、対馬の清水山城・撃方山、そして釜山へと連なる平坦線となる駅城の一つである。

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曲輪の塁線上

曲輪の塁線上には六箇所の横矢枡形がある。ここから急傾斜の稜線を進んでいけば、二の丸、一の丸(本丸)にたどり着くが、視界が開けていないので陰気な山道である。全山がシイやカシなどの常緑樹で覆われていて、山頂部には岩盤が露出する。

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コベソマイマイ

道端で大きなカタツムリを見つけた。対馬にはカタツムリの仲間では、ツシマケマイマイという茶色の殻の周りに毛が生えた対馬原産のカタツムリのほか、ツシママイマイというカタツムリがいるが、それはツクシマイマイ(Euhadra herklotsi)の地域種とされる。このカタツムリも大型だが、ツシママイマイより殻の色が淡い赤褐色で、殻には黒い斑紋が見える。断定しにくいが、コベソマイマイ(Satsuma myomphala)と思われる。

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二の丸に近づく

間もなく二の丸に近づいてきたが、道が不鮮明になってきたので、左手の遊歩道を経由して戻ることにした。

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大歳神社

厳原町の中村地区に大歳神社がある。祭神として大歳神、興津彦神、興津姫神を祀る。大歳神は須佐之男命と山神の娘神・大市比売との間に生まれた神で、十六柱もの多くの御子神をつくった神で、「子宝の神」であり、「穀物の神」で五穀豊穣、商売繁盛の神である。興津彦神、興津姫神は大歳神の御子で、興津彦神は「火の守護神」であり、興津姫神は「竈の神」で火から守ってくれる。初めは桟原などにあったが、貞享3年(1687)にこの地で大火事があったことを機に、防火の神、火の守護神として現在地に移されたという。