半坪ビオトープの日記

厳原、万松院

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万松院の山門

対馬中央部から南の対馬下島の中心地、厳原に向かう。厳原は14世紀後半から江戸時代に至るまで、一貫して対馬を治めてきた藩主・宗氏にまつわる史跡をはじめ、幕府から一任された朝鮮通信使が通り過ぎて行った痕跡が、寺院などに残されている。万松院は元和元年(1615)に、対馬藩2代目藩主・宗義成が、初代藩主である父・義智(宗家十九代)の冥福を祈って建立した宗家累代の菩提寺である。その後、数度の火災により、創建当時の姿を残すのは、この山門と仁王像のみであるが、それらは対馬最古の木造建築といわれ、創建当初の桃山様式を今に伝える。

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諫鼓(かんこ)

本殿に向かう途中の塀際に、苔蒸した諫鼓(かんこ)があった。領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓。「諫鼓苔蒸す」とは、諫鼓を用いぬことの久しい意。「諫鼓鳥」とは、諫鼓の上に鳥が遊ぶこと。諫鼓を用いる必要がない程領主が善政を施すことをいう。

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万松院本堂

万松院は創建当時は松音寺という名だったが、元和8年(1622)義智の法号に因んで万松院と改められた。正保4年(1647)に現在地に移り、寛永12年(1635)に臨済宗から天台宗に改めたのは徳川将軍家に倣ったのだという。元禄4年(1691)、享保11年(1726)と2度の火災で焼失し、今の本堂は明治12年(1879)に再建された。

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万松院本堂内

堂内には金銅観音菩薩半跏像、宗義智宗義成・宗義眞・徳川家康肖像画など市指定有形文化財が保管されている。

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三具足の花瓶・香炉・燭台

堂内には他にも、対馬藩主の逝去に際して、朝鮮王国から贈られた三揃いの仏具である、三具足の花瓶・香炉・燭台が展示されている。これらは日光東照宮にも送られており、対馬藩に対する朝鮮王国の信頼を表すものとされている。

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百雁木と呼ばれる石段

本堂の横から百雁木と呼ばれる比較的緩やかな123段の石段が続く。年に一度の祭りでは、石段の両脇にある約350基の石灯籠に火が灯される。暗闇の中で無数の灯火が醸し出す景色は非常に幻想的で見応えがあるという。この石段を上った所に宗家一族の墓所である御霊屋がある。鬱蒼とした森の中に荘厳な雰囲気が立ち込めている。

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万松院の大杉

墓所の手前には樹齢約千年ともいわれる大杉が3本もあり、県指定の天然記念物となっている。

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二十五代・宗方煕の墓と二十六代・宗義如の墓

対馬藩は十万石の格式であったが、御霊屋の規模は数十万石の大名並みの大きさを誇り、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地とともに、日本三代墓地の一つともいわれている。中央に見えるのが二十五代・宗方煕の墓。右端に見えるのが二十六代・宗義如の墓。

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二十二代・宗義倫の墓

中央に見えるのが二十二代・宗義倫の墓。

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二十一代・宗義真の墓と正室の墓

右に見えるのが二十一代・宗義真の墓。左は正室の墓。

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二十代・宗義成の墓と正室の墓

右に見えるのが二十代・宗義成の墓。左は正室の墓。

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十四代・宗義誠の墓と二十三代・宗義方の墓

左に見えるのが二十四代・宗義誠の墓。右端に見えるのが二十三代・宗義方の墓。

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二十一代・宗義真の側室・高寿院の墓

百雁木の石段の中ほど東側に中御霊屋がある。藩主の側室や童子の墓が祀られる墓域である。中央の大きな墓は、二十一代・宗義真の側室・高寿院の墓である。