半坪ビオトープの日記

木坂の海神神社

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木坂の海神神社

木坂の集落の東の外れに海神神社の鳥居がある。周辺の木坂山(伊豆山)は県指定天然記念物の原生林で「野鳥の森」となっている。伊豆山の伊豆とはイツ(稜威、厳)の意で、心霊を斎き祀ることを意味する。鳥居脇には「國幣中社海神神社」との社号標があるが、明治4年(1871)に旧社格の國幣中社に列格した。創祀年代は不詳だが、対馬国一之宮として崇敬される大社で、式内名人大社の「和多都美神社」、同「和多都美御子神社」、式内国幣小社の「胡禄神社」、同「胡禄御子神社」の論社である。

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境内社の祭魂社

社伝によれば、神功皇后三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。旗は後に現在地の木坂山に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現、厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。明治3年、和多都美神社に改称し、明治4年、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、海神神社に改称した。境内に入ると、左側に境内社の祭魂社がある。

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苔むした石碑

海神神社の南にある木坂の集落は、旧社人が居住していたので、穢れを忌む意識が強く、家屋は川の北側にあって、女性は出産に際しては川の南側に移って小屋の中で出産し、産後しばらく忌が開けるまで滞在したという。墓は参り墓が川の南岸にあり、埋め墓は南方の山をこえた海岸部にあるという両墓制の形態をとっていた。産穢と死穢を忌む意識が強い。境内には、苔むした石碑が建っているが、風雨にすっかり削られて何の石碑かわからない。

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苔むした石碑

こちらの石碑も同様に古く苔むしていて、何も読み取れない。

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石段の参道

海神神社が八幡神を祀っていたのは、母子神信仰が基盤にあるからで、太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰が習合していた。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命鵜葺草葺不合命とも解釈された。しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していたのである。元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、さらに明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読み替えられ、式内社に比定する動きが強まった。参道は石段が連なって鬱蒼とした原生林の中を進んでいく。

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磐座のような大岩

参道の途中に大きな岩にしめ縄が巻かれていた。よく見ると磐座を思わせるような大岩である。辺りに人影は全く見かけられない。

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延々と続く長い石段

長い石段が幾つにも折れ曲がって続き、ようやく最後らしい鳥居が見えてきた。

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最後の鳥居

長い石段を上り切ると、最後の鳥居の扁額には海神神社の銘が認められる。しかし「海」の字は見たことがない漢字で、「毎」の下に「水」がある。水は「氵」と同じだから、海となる。宗重望(海神神社宮司を務めた宗義和の孫)の揮毫という。石段はもう一つありそうだ。

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最後の石段と社殿

ようやく社殿が見えてきた。現在の社殿は1921年に建造されている。江戸時代までは八幡神を祀っていた。

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拝殿内部

明治になって主祭神豊玉姫命となり、配祀神として彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜葺草葺不合命が祀られている。道主貴(みちぬしのむち)神とは、宗像三女神のことで、記紀においてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神とも呼ばれる。九州から朝鮮半島、大陸への海上交通の平安を守護する玄界灘の神で、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫の海人族が古代より集団で祀る土着神であったが、4世紀以降、国家神として祀られるようになったとされる。

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境内には摂社・末社が17座ある

境内には摂社・末社17座あるとされ、主に社殿の右側に並んでいる。社殿に一番近く一番左に見える社は、摂社で行先殿・濱殿御子・乳母を祀っている。その右の社では、一宮神・白髭神・御先駈神・飛崎神を祀る。その右の社では、五三神・ 瓊宮(たまみや)神・若宮神を祀る。その右の社では、貴船神・金倉神・新霊神を祀る。一番右の社では、天道神・美女神・在廰神・濱○神・寶満神・今宮神を祀る。

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境内には摂社・末社が17座ある

○の字は見たことがない漢字なのだが、「殿」と読むようだ。濱殿だとすると、厳原と豊玉町仁位にある濱殿神社の祭神、海神である豊玉彦尊であり、豊玉姫命の父神である。寳満神とは玉依姫命のこと。在廰神の在庁とは、国衙行政に従事する地方官僚を在庁官人と呼んだ例から推測すると、海神神社が対馬一之宮という惣社の役目を担ったとすると、領域内のその他大勢の神々を総称して在庁神と呼んだのではないかと思われる。これほど多くの摂社・末社を集めて祀っていることから推測すると、海神神社はやはり、惣社の役目を担ったと思われる。和多都美神社の論社であるが、これだけ規模の大きい神社が、式内社に海神神社という名で現れないのは謎であり、海神信仰が定着している対馬ならではの事情が隠れているのであろう。神社の再編、祭神の変更、由緒書の編纂等、明治初期に行われた神社の統廃合の影響を取り除く困難の大きさを改めて痛感する。

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本殿

社殿の造営は、古くは対馬国から太宰府に納める税が充てられ、不足分は神領の民戸の手で補われていたが、遷座の時は特別に太宰府より御料が進められた。建長4年(1252)に社殿の修理が行われ、嘉暦2年(1327)再建、永和4年(1378)宗澄茂により社殿の造営がされて以来、宗氏によりたびたび修造が行われた。

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拝殿

改めて拝殿を眺めてみると、その瓦屋根の重厚さが際立っている。

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祭魂社

帰りがけに祭魂社を横から見たが、拝殿の奥に離れて本殿が建っているのがわかる。