厳原町日吉の長寿院には雨森芳洲の墓がある。雨森芳洲(1668-1755)は、朝鮮王朝から幕府に派遣された外交使節団「朝鮮通信使」に随行し、日本と朝鮮との親善外交に尽力した対馬藩の儒学者である。裏山を登ると芳洲の墓があるのだが、今回は先を急いで省略した。
長寿院のすぐ右隣に、半井(なからい)桃水の生誕の地と伝わる半井桃水館がある。桃水関連の資料が展示されている。半井桃水は、万延元年(1860)対馬の厳原に生まれた。家は代々藩医で宗家に仕えた。幼名・泉太郎は、父の任地・釜山で働いた後に帰国し、明治8年(1875)16歳の時上京し、英学塾「共立学舎」に学んだ。明治21年(1884)東京朝日新聞者に入社し、その前後より新聞小説を書き始めた。樋口一葉は明治24年に指導を仰ぐため桃水のもとを訪れた。
半井桃水は、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在した。日露戦争にも従軍記者として関わったジャーナリストとして、日鮮関係の歴史の一コマを成す亀浦事件に顔を出す活動家でもあった。長唄や俗曲の作詞作曲者、劇評家と活動は多彩だった。大正15年67歳で福井県敦賀の病院で死去するまで、300編以上の小説を書いた。墓は東京都文京区駒込の養昌寺にある。
厳原町の中心地から少し南に行った、久田浦に注ぐ久田川の河口に対馬藩お船江跡がある。現在の遺構は寛文3年(1663)の造成という。対馬藩の御用船を繋留した船溜りで、「お船屋」とも称した。築堤の石積みは当時のままで、正門・倉庫などの遺構も残っていて、遺構例の乏しい近世史上貴重な遺構として、県指定史跡に指定されている。
近くに「1800年頃の町割図」が掲示されていたが、それを見ると厳原港で荷揚げする藩船の格納庫として、少し離れていて開発されなかった入江にあったことが、保存された理由と考えられる。
厳原町には2泊したので、ここで食事のいくつかを拾い上げておく。これはサザエの刺身。大きなサザエだったので、コリコリした食感が楽しめる。肝も新鮮で安心して美味しく食べられた。
お酒は対馬唯一の酒造、河内酒造の「白嶽純米酒つしま」と対馬麦焼酎「対馬やまねこ」を買い求め、毎晩、部屋飲みした。どちらも美味しく楽しめた。
こちらは対馬のご当地グルメ「とんちゃん」。戦後、在日韓国人から伝えられた焼肉料理を地元の精肉店が工夫を重ねて地域に広まったとされる、上対馬の定番料理。豚ロース肉を醤油や味噌をベースにニンニク、ごま油などの調味料に漬け込んで焼いたソウルフード。柔らかくて美味しい。
こちらは「豆腐入り鹿肉ハンバーグセット」。島の9割が山地という対馬では、近年、猪や鹿が増え、今では対馬の人口より多い4万頭以上の猪や鹿がいるという。駆除された猪や鹿のジビエ料理を扱う店もいくつかある。
以上は、観光案内所「ふれあい処つしま」の食堂での様子。こちらは売店で、対馬の鹿と猪の肉を使ったピスタチオ入りソーセージとガーリック風味のソーセージ。部屋飲みのつまみに買って、美味しくいただいた。
観光案内所では、「国産み神話と対馬」などの解説がある。古事記の国産み神話では、イザナギ・イザナミ2神の国産みにより、対馬は大八島の一つとして6番目に誕生する。対馬は古事記では「津島」と表記され、別名は「アメノサデヨリヒメ(天之狭手依比売)」という。名の語義は不詳だが、「サデ」を魚をすくい取る漁具の「小網(さで)」と考えると対馬の形を小網に例えた神名と考える説もあるという。
和多都美神社のところでも説明した「九州最多の式内社」の解説がここにもあった。対馬を一周しながら、名神大社とされる6社全てを含め、29座の式内社の約半分を見て回る計画である。
厳原の有名な割烹は休業中だったので、2日目の夕食は新鮮な魚が地元で評判の食堂「めしや」で。こちらは刺身の盛り合わせ。サザエ、ヒラマサ、タイ、タコ、アワビとどれも新鮮で美味しい。
こちらはアナゴの白焼き。タレ焼きとは違って、上品なアナゴそのものの味を味わえた。