半坪ビオトープの日記

一支国博物館1

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一支国博物館、『魏志倭人伝
壱岐島の東南部の平原が、中国の史書に記されている倭国一支国の跡に比定されている。『魏志倭人伝』では、「一大國」と記されるが、他の史書(魏略逸文梁書や隋書・北史など)では「一支國」とされ、対馬國から末盧國の道程に存在することから、『魏志倭人伝』の「一大國」は「一支國」のこととされる。1993年、長崎県教委は壱岐島原の辻遺跡一支国の跡であると発表した。その後、国の特別史跡である原の辻遺跡を整備し、原の辻一支国王都復元公園として公開された。その原の辻遺跡のそばに2010年、壱岐市一支国博物館が開館された。常設展示室に入ると、一支国と東アジア諸国との交易がイメージされる中、『魏志倭人伝』に記された2008文字が示され、その内一支国の記述は57文字含まれる。

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壱岐島ジオラマ
展望室からは原の辻遺跡などの景色が見られる。館内には壱岐島ジオラマもあって、島全体の起伏の様子が実感できる。手前右端が勝本港、天ヶ原セジョウ神遺跡は壱岐の最北端、イルカパークの入口あたりだから、壱岐島を北から眺めていることになる。時計回りにたどると左手(東)の大きな入江が芦辺湾、すぐ上が内海湾、その右手(西南)の平原が弥生時代原の辻遺跡がある一支国王都跡。一番上(南端部)の右手(西)の広い入江が郷ノ浦湾、すぐ下の細長い入江が半城湾。その内陸中央の平地が弥生時代の車出遺跡群、その右手前が弥生時代のカラカミ遺跡。その右手(西)の大きな入江が湯本湾となる。
原の辻遺跡周辺をアップすると、壱岐島で最も広い平地なのがよくわかる。大きな内海湾に流れ込む幡鉾川河口から一支国を訪れる使節団を受け入れたと想定されている。右手前に見える大きな芦辺湾の奥は、古代には沼沢地だったかも知れない。

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原の辻遺跡
展望室から外を見ると、高台にある博物館から南南西に、森の先に平地が広がり、原の辻(はるのつじ)遺跡が認められるが、わかりにくい。

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案内板
案内板で確認するとよくわかる。左彼方(南)に印通寺港と馬渡島、壱岐水道があり、一番右手(南西)に岳の辻がある。

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幡鉾川と船着場跡

右手をアップすると、手前に幡鉾川と船着場跡、彼方に壱岐最高峰の岳の辻(213m)が認められる。

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内海湾
左手(東北東)を眺めると、大きな内海湾が横に広がる様子がわかる。左から伸びる八幡半島の向こう側が玄界灘である。

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笹塚古墳前室の床下
館内には一支国にまつわる弥生時代の遺跡や古墳時代の遺物をはじめ、古代・中世・近世に至る様々な資料が展示されている。ここでは、笹塚古墳前室の床下再現模型により、石室内の様子を垣間見ることができる。

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金銅製亀型飾金具

笹塚古墳からは国内唯一の金銅製亀型飾金具が出土している。これと類似した亀をモチーフにした石像物が奈良県明日香村で発見されていて、ヤマト政権と壱岐島の連携が推定されている。

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墓の副葬品
壱岐島には長崎県にある古墳の約6割にあたる280基以上の古墳がある。壱岐の首長の墓と考えられるのは中心部の巨石古墳群に集中しているが、有力者の墓とされる古墳は首長墓の周りに群集している。また、大塚山古墳・カジヤバ古墳・大米古墳・松尾古墳・鬼屋窪古墳など海人が眠る墓も散見される。首長墓の副葬品は新羅の土器や北斉の二彩陶器など東アジア諸国との交易品が多く、海人の墓からは副葬品が少なく、線刻画が特徴である。

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干しアワビ、塩の生産
干しアワビを作るには、塩や甕、蒸し器などが必要で、煮たり干したり何度も繰り返す。伊勢神宮でも短冊状に切って神前に奉納するなど神聖な縁起物とされる。塩の生産は縄文時代には始まるが、壱岐では古墳時代から古代にかけて勝本の串山ミルメ浦遺跡で塩の生産が行われていた。また、壱岐では弥生時代に鹿や猪の肩甲骨を利用した卜骨の占いが伝わっている。太占(ふとまに)と呼ばれる占いは、鹿の骨から亀甲へと移行した。「延喜式」には伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人の優秀な占い師が選ばれ朝廷で活躍したと記されている。彼らは卜部(うらべ)と呼ばれ、亀卜(きぼく)を用いて吉凶を占う儀式を担当した。

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亀卜

亀卜は主にアカウミガメの甲羅を用いて行う。甲羅を一定の方法で焼き、生じたひび割れ・裂け目の形状を見て吉凶を占う。亀卜は今でも、対馬での祈念祭や宮中での大嘗祭で行われている。同様に、鹿や猪の肩甲骨に焼いた木を押し付けて、ヒビの入り方で吉凶を占う卜骨占いも行われていた。