初日の國片主神社のすぐ西にあった壱岐国分寺跡は、別名・壱岐嶋分寺跡という。奈良時代、聖武天皇は全国に国分寺を建てるよう指示した。壱岐国では新たに建てず、統治者・壱岐直が建てた寺を壱岐国分寺に昇格させたと「延喜式」に記されている。寺の名も壱岐嶋分寺といった。当時、九州各地の国府、大寺などは太宰府と同じ瓦を使っていたが、壱岐嶋分寺の瓦は奈良の平城京と同じ瓦を使って建てられ、しかも大極殿の軒丸瓦とも同じことが判明し、壱岐国と平城京との強い結びつきが指摘されている。
足利尊氏は僧の夢窓疎石の勧めにより、亡き後醍醐天皇を弔い、戦乱で死んだ武士を供養するため、全国66ヶ所と2島に安国寺を建てるよう指示した。壱岐島では以前からある海印寺を安国寺に改めた。現在、老松山安国寺と呼ばれ、京都の大徳寺を本山とする臨済宗の寺院となっている。安国寺には高麗版大般若経初彫本(1046)が残されていて、国の重要文化財に指定されている。
勝本浦にある聖母宮(しょうもぐう)は、延喜式に式内社・名神大と記される古社で、神功皇后の三韓出兵が創建の起源とされるが、養老元年(717)に社殿が建てられたことを神社の創建としている。聖母宮には、天正20年(1592)銘のある日本最古の唐津焼・飴釉三耳茶壷が所蔵され、長崎県の有形文化財に指定されている。
一支国の王都である原の辻を再現した巨大なジオラマの一支国トピックでは、160体の一支国人(弥生人フィギア)が、弥生時代の暮らしを楽しく伝えている。左側の祭祀のシーン、右側の生活のシーンなど七つのシーンが再現されている。
一支国トピックの周りにも各地の弥生遺跡からのさまざまな出土品が展示されている。これは弥生時代後期(約2000〜1700年前)のカラカミ遺跡から出土した日本最古のイエネコの骨である。文献資料からイエネコの伝来は、8世紀に経典などをネズミの害から防ぐために遣唐使が中国から持ち込んだのが始まりとされていた。それが弥生時代の遺跡からイエネコとネズミの骨が発見されて、渡来が500年以上も遡るとは驚きである。
こちらは弥生時代後期(約2000〜1700年前)の原の辻遺跡から出土した人面石。石製の人面石は国内唯一の発見例。凝灰岩で作られ、両目は彫り込んで表現し、口は裏まで貫通させ、目の間には鼻が、目の上には眉が彫られ、頬は凹みで表現される。宗教が存在しないと考えられる弥生時代でも、先祖の霊などが信仰の対象だったのかと思われる。
こちらの遼東系瓦質土器は、弥生時代後期(約2000〜1700年前)のカラカミ遺跡から出土した日本最古の「周」文字線刻土器で、中国大陸との交流が確認され、文字のない弥生時代の土器に「文字」が存在したことを裏付ける貴重な資料である。
左の楽浪系瓦質土器は、あな窯で焼かれて硬く、灰色に仕上がっているのが特徴である。右の朝鮮系無文土器は弥生土器と同じ野焼きの製法で製作されている。
原の辻遺跡から西に5kmほどにある車出遺跡群からは大型の甕や壺が多く発掘された。甕を支える石製支脚=クドも多い。このクド石には、持ち運びしやすいように突起が付けられているのが特徴である。壱岐では竈のことを「クド」という。車出遺跡では、土器を廃棄した土器溜まり遺構から、丹塗り土器が大量に捨てられていることから、日用品ではなく祭祀用の祭器=威信具と考えられている。青銅鏡以外にも中国製の銅銭、青色ガラス玉、橙色のガラス玉、切目丸玉なども見つかっている。
原の辻遺跡から北西に6kmほどにあるカラカミ遺跡からは、4枚の青銅鏡が発見されている。墓からではなく大溝内からなので、個人の威信具ではなく、祭器の一つとして大溝に廃棄されたと考えられている。墓の中から副葬品として発見される原の辻遺跡とは異なり、同じ弥生人でも青銅器の価値が違うことがわかる。車出遺跡同様、ここでも見つかる切目丸玉は、原の辻遺跡からは見つからないので、集落の関係が考慮される。カラカミ遺跡からは、1箇所だけでなく3箇所、4箇所と穴が開けられた穿孔土器が数多く発見されていて、孔が空いたから捨てたというより、祭祀を行った後に孔を開けて大量に廃棄する習慣があったと推測されている。また、鉄製品の他、地上式炉の跡や製作用具も発見されている。