勝本町立石の道路脇でタイワンリスが動いているのを見かけた。20年ほど前に「壱岐リス村」が閉園した後、逃げ出し繁殖したものと考えられているが、3年前には年間捕獲数が2万匹を大幅に超えて増加し続けている。
芦辺町の湯岳に興神社がある。付近はかつて壱岐国府があった所と考えられており、社名の「興(こう)」は「国府(こふ、こう)」の意味とされる。国府の蔵の鍵である「印鑰(いんにゃく)」を保管していたことから、近世には「印鑰神社」とも呼ばれていた。
延宝4年(1676)神道家橘三喜が壱岐の式内社を調査した際、当社を式内小社「興神社」に比定した。しかし、これは興と與(与)を見誤ったためと考えられており、近年の研究では、式内名神大社の「天手長男神社」が当社であり、壱岐国一宮であったとする説が有力となっている。
境内案内によれば、兵主神社は弘仁2年(811)創建、仁寿元年(851)正六位に叙せられたとあり、式内名神大社となっている。嵯峨天皇の御代(809-823)山城国日吉山王を勧請し、古号は日吉山王権現とされる。勧請の伝説では、比叡山より村の卯辰の海辺一の瀬に着御し、谷山(今の京徳の丘)に鎮座となった。勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で社家となった。延宝4年(1676)の橘三喜の式内社調査では、当社を聖母神社、現聖母神社を兵主神社とした。その後、延宝7年(1679)箱崎八幡宮祠官吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、聖母神社を正しく聖母神社と戻したが、当社(日吉山王権現)は、そのまま兵主神社となってしまった。
兵主神社の祭神は、素戔嗚尊、大己貴神、事代主神である。兵主の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載があるが、その中で名神大社は、大和国穴師坐兵主神社(桜井市)と近江国にある兵主大社(滋賀県野洲市)と、壱岐国兵主神社のみである。穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。神社では兵主神は御食津神とするが、他に天鈿女命、素戔嗚尊、天富貴命などとする説がある。兵主大社の社伝によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師に八千矛神(大国主神)を祀らせ、これを兵主大神と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、穴太に遷座し、欽明天皇の時代に再び遷座して現在地に鎮座したという。ともかく、壱岐の兵主神社の兵主神は八千矛神という武神に関連があると思われる。中国の『史記』「封禅書」では、中国神話に登場する「蚩尤」という凶暴な神は八神のうちの「兵主神」に相当し、戦の神と考えられている。戦争で必要になる戦斧、楯、弓矢などの武器を発明したのは蚩尤であると伝承されている。因みに「封禅書」に説かれている八神は、天主神・地主神・兵主神・陰主神・陽主神・月主神・日主神・四時主神である。