半坪ビオトープの日記

興神社、兵主神社

ステゴドン象の復元模型
豪ノ浦町にある壱岐文化ホールの中庭に、ステゴドン象の復元模型が展示されている。このステゴドンは鮮新世後期から更新世にかけて(約100万年〜500万年前)アジアに広く分布していて、大陸から渡ってきて小型化している。1971年に勝本町湯ノ本浦の海食崖で化石が発見され、現在、一支国博物館に収蔵されている。

タイワンリス

勝本町立石の道路脇でタイワンリスが動いているのを見かけた。20年ほど前に「壱岐リス村」が閉園した後、逃げ出し繁殖したものと考えられているが、3年前には年間捕獲数が2万匹を大幅に超えて増加し続けている。

興神社

芦辺町の湯岳に興神社がある。付近はかつて壱岐国府があった所と考えられており、社名の「興(こう)」は「国府(こふ、こう)」の意味とされる。国府の蔵の鍵である「印鑰(いんにゃく)」を保管していたことから、近世には「印鑰神社」とも呼ばれていた。

興神社

延宝4年(1676)神道家橘三喜が壱岐式内社を調査した際、当社を式内小社「興神社」に比定した。しかし、これは興と與(与)を見誤ったためと考えられており、近年の研究では、式内名神大社の「天手長男神社」が当社であり、壱岐国一宮であったとする説が有力となっている。

興神社の社殿
延宝4年の調査の際、天手長男神社は郷ノ浦町田中触の若宮社に比定され、壱岐国一宮の称もその神社に移ったが(現 天手長男神社)、それ以降も当社を「一宮」とよぶ通称は残った。摂社の壱岐総社神社は、壱岐国の総社にあたる。

興神社の拝殿内
境内案内によると、主祭神足仲彦尊息長足姫尊で、相殿に應神天皇仁徳天皇天手力男命八意思兼神住吉大神を祀る。芦辺町史によれば、仁徳天皇大鷦鷯天皇
應神天皇は誉田別天皇日本書紀の名で記され、足仲彦尊は帯仲彦天皇古事記の名で記されている

興神社の本殿
本殿は木鼻、蟇股など彩色が施されていたことがわかるが、かなり古くて痛んでいて、覆屋で風雨から保護されている。

兵主神社
芦辺町深江川北に兵主(ひょうず)神社がある。境内案内によれば、壱岐国式内名神大社で、別名、日吉山王権現という。

兵主神社の社殿

境内案内によれば、兵主神社弘仁2年(811)創建、仁寿元年(851)正六位に叙せられたとあり、式内名神大社となっている。嵯峨天皇の御代(809-823)山城国日吉山王を勧請し、古号は日吉山王権現とされる。勧請の伝説では、比叡山より村の卯辰の海辺一の瀬に着御し、谷山(今の京徳の丘)に鎮座となった。勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で社家となった。延宝4年(1676)の橘三喜の式内社調査では、当社を聖母神社、現聖母神社を兵主神社とした。その後、延宝7年(1679)箱崎八幡宮祠官吉野末益が異を唱え、藩もそれを認め、聖母神社を正しく聖母神社と戻したが、当社(日吉山王権現)は、そのまま兵主神社となってしまった。

兵主神社の社殿

兵主神社の祭神は、素戔嗚尊大己貴神事代主神である。兵主の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載があるが、その中で名神大社は、大和国穴師坐兵主神社桜井市)と近江国にある兵主大社滋賀県野洲市)と、壱岐国兵主神社のみである。穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇八千矛神大国主)を兵主大神として祀ったともいう。神社では兵主神御食津神とするが、他に天鈿女命、素戔嗚尊、天富貴命などとする説がある。兵主大社の社伝によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師に八千矛神大国主神)を祀らせ、これを兵主大神と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、穴太に遷座し、欽明天皇の時代に再び遷座して現在地に鎮座したという。ともかく、壱岐兵主神社兵主神八千矛神という武神に関連があると思われる。中国の『史記』「封禅書」では、中国神話に登場する「蚩尤」という凶暴な神は八神のうちの「兵主神」に相当し、戦の神と考えられている。戦争で必要になる戦斧、楯、弓矢などの武器を発明したのは蚩尤であると伝承されている。因みに「封禅書」に説かれている八神は、天主神・地主神・兵主神・陰主神・陽主神・月主神・日主神・四時主神である。

本殿には覆屋
本殿には新しく覆屋が架けられ、風雨から保護されているが、下から覗けるように配慮されている。境内案内では、昭和53年拝殿改築なる、昭和62年神殿上屋、屋根替改修とある。

兵主神社の本殿
そこから本殿を覗いてみると、すっかり風に削られてしまった随身2名に守られ、青くなっているが高欄も設けられ、掠れてはいるが虹梁・木鼻・扉などにも彩色が施され、かなり丁寧に造られていたことがわかる。

兵主神社の本殿
本殿の板壁には、獅子、梅、鶴などさまざまな壁画が描かれている。特に右手奥の壁画には、「朱買臣」の姿が認められる。朱買臣は前漢の人で、貧しくも薪を売りながら独学し、50歳を過ぎてから武帝に見出され、出世したといわれる。二宮金次郎の薪を背負いながら読書をしている姿は、この朱買臣をモデルにしたとの説もあるという。

境内社
社殿の右手後ろに建つ境内社。小さいがしっかりした覆屋の中に可愛らしい社殿が納められている。

石祠
社殿左手の後ろに古びた石祠が祀られている。しめ縄が大き過ぎて祠がよく見えない。

稲荷大明神

社殿の右手には、正一位稲荷大明神が祀られている。これで昨夏の壱岐の島巡りは終わった。

前年の対馬に続き、古代の世界を垣間見るような、記紀の記述を証拠立てるような史跡や資料があればと思って壱岐を訪れた。壱岐古墳群や原の辻一支国王都復元公園、一支国博物館などはたいへん興味深かったが、古い神社には由緒が怪しいものが多かったように思う。殊に月讀神社、國片主神社、天手長男神社、興神社、兵主神社など、延宝4年(1676)の神道家橘三喜の式内社調査での比定が誤っていた事例が多すぎるので、一度、一支国博物館などが中心となって、今のうちに誤りを正しておいた方が良いのにと思った。