新城神社のすぐ東に元寇「新城の千人塚」がある。千人塚は、「少弐の千人塚」(弘安の役・瀬戸浦古戦場)、「浦海海岸の千人塚」(文永の役の戦死者を葬った場所)など、壱岐島内に6ヶ所確認されているが、この文永の役新城古戦場の千人塚が最も代表的な場所である。
文永11年(1274)の元軍上陸地、勝負坂、唐人原、射場原(いやんばる)、射矢本、勝負本、対陣原(たいのはる)という地名、合戦があった高麗橋、鯛の原など、勝本町新城一帯が激戦地だったことから、ここに文永の役新城古戦場の碑が建てられている。
初日に訪れた掛木古墳は、休館日だった壱岐風土記の丘の敷地内にあった。その壱岐風土記の丘をようやく訪れた。国史跡「壱岐古墳群」を紹介する古墳館と、江戸時代の百姓武家屋敷を移築復元した古民家園が併設されている。
江戸時代中期の旧冨岩家住宅は、百姓武家屋敷の「オモヤ(母屋)」が移築され、隠居の老夫婦が暮らす「インキョ」、倉庫や作業場の「ホンマヤ」、牛小屋の「ウシノマヤ」が復元されている。
オモヤは主人夫婦とその子が住む建物で、ホンケ、ホンケヤとも呼ばれる。寄棟造の屋根は小麦藁葺きで、内部は喰違六間取りで、式台構えの玄関や仏間は他の武家住宅にも見られる。
郷ノ浦で一番の繁華街である「ふれ愛通り」の湊川の入口近くに塞神社がある。