半坪ビオトープの日記

多久頭魂神社

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多久頭魂神社、参道入口

二日目の午後から台風のため風雨が激しくなった。三日目も天気は不安定だったが、厳原から時計回りで対馬下島を一周する予定で出掛けた。県道24号厳原豆酘美津島線は、照葉樹の深い森の中を南へ南へと進む。対馬下島の東側はリアス式海岸なので、湾内ごとに散在する集落には県道から分岐する道を下るので、県道沿いには人家は極めて少ない。スダジイ、イスノキなどの樹木が林立し、下島で2番目に高い龍良山(たてらさん、558m)原始林は、霊山としても島民に崇められている。その龍良山の南西の麓、対馬の南端に位置する豆酘(つつ)の集落のはずれ、鬱蒼たる森の中に、多久頭魂(タクズダマ)神社他の神社が鎮座している。参道入口脇にはソテツが植えられ、鳥居がいくつも並んでいる。

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参道の鳥居

対馬固有とされる天道信仰は、天道法師という超人と霊山・龍良山を中心に、太陽信仰・母子神信仰・修験道古神道などが複雑に絡み合って、平安時代頃に成立したと考えられている。7世紀後半、豆酘内院に高貴な女性が虚船(うつろぶね)に乗って漂着し、太陽に感精して子を生んだ。「太陽の子」は天道法師と呼ばれ、嵐をまとって空を飛び、天皇の病気を治すなどの奇跡を起こす。豆酘の北東に広がる龍良山中の八丁角という石積みは、天道法師とその母の墓所とされ、多久頭魂神社境内の不入坪(イラヌツボ)と合わせて「オソロシドコロ」と呼ばれ、龍良山という聖域の結界を構成している。

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石段の参道を進む

豆酘は対馬の南端に位置し、陸路による交流が少ない反面、航路の拠点として国内外の文化が流入する地域であり、亀卜や天道信仰、赤米神事など独自の文化・歴史が形成されてきた。神功皇后三韓征伐に際して神々を祀ったと伝えられ、出兵の様子を紅白の小船で再現する「カンカン祭り」が伝承されている。

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鐘楼と梵鐘

多久頭魂神社の梵鐘は、旧豆酘御寺の所蔵で初鋳は寛弘5年(1008)阿比留宿禰良家が奉献。仁平3年(1153)に増鋳、さらに康永3年(1344)再増鋳している。国指定重要文化財である。他にも多久頭魂神社が所有する金鼓(日本の鰐口)も国指定重要文化財である。日本に例がない高麗時代の大型金鼓で、総径81cm、面径78cm、制作は高麗国前高宗32年(1245)とされる。

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境内案内図

三つ目の二の鳥居のところに案内板があったが、まだ入口近くだ。多久頭魂神社の境内は原生林の中に広がっていて、高御魂神社他多くの神社が散在している。左に鐘楼、右には高御魂神社への参道が分かれる。高御魂(タカミムスビ)とは、古事記の冒頭で、原初の神々の誕生の最初に現れる、アメノミナカヌシ、タカミムスビカミムスビの三柱の神が現れる時のタカミムスビである。詳しいことは、後ほど高御魂神社のところで述べる。

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長い坂道の参道

長い坂道の参道の奥に神門が見える。対馬北西部の上県町佐護には神御魂神社があって、カミムスビが鎮座しているが、対馬固有の神である多久頭魂(タクズダマ)は、タカミムスビカミムスビ両神の子神とされている。

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神門手前の鳥居

神門の手前から石段があり、鳥居も手前にある。古くは「魂」字を付さずに多久頭神社と称し、延喜式神名帳に収録される対馬国下県郡13座のうちの多久頭神社に比定されている。

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神門

神門の中を覗くと、左手に境内社が見え、中央奥には多久頭魂神社の社殿が認められた。

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國本神社

左手の境内社は國本神社という。祭神として廰神(庁神)を祀る神社。聖武天皇701756)の勅により斎祀された古社で、政所の神という。対馬には他にも上県町瀬田にも國本神社があり翌日には訪れたのだが、そこの祭神は天乃佐手依姫命である。古事記では、国生みで大八島の6番目に生まれた対馬の別名がアメノサデヨリヒメという女神であるから、多久頭魂神社の境内にある國本神社の祭神も、元は天乃佐手依姫命であった可能性が高いと思われる。國本神社の右手の建物は神庫である。

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下宮神社

神庫のさらに左手先の境内社は下宮神社という。海神を祀る神社で、祭神・豊玉姫は別名を淀姫玉妃命と称し、神功皇后三韓征伐の折、干珠・満珠を皇后に奉ったという。

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多久頭魂神社の社殿

ようやく多久頭魂神社の社殿の左側面にたどり着いた。祭神として天照大神天忍穂耳命、日子穂穂出見尊、彦火能邇邇芸尊、鵜茅草葺不合尊の五柱を祀るが、古くは龍良山を御神体として社殿はなく、本来の祭神は対馬固有のタクズタマ=多久頭魂である。『続日本後紀』承和4年(837)2月5日条に多久頭神を無位から従五位下に叙する旨の記述があり、当社の祭神を指すものとされる。平安中期以降、神仏習合により豆酘御寺と称し、タクズタマは天道法師とされたが、明治の神仏分離により多久頭魂神社を復した際に、現在の天神・天孫系の五柱に変更されたようだ。

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社殿の右手に不入坪

社殿の右側に拝殿入口があるが、その正面、いくつも並ぶ灯篭群の右手奥の鬱蒼たる原生林が、いわゆる不入坪(イラヌツボ)である。「オソロシドコロ」と呼ばれる石積みの祭祀場で、禁足地でもある。

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拝殿正面

拝殿正面に回ると、建物の形にちょっと違和感を覚える。龍良山全体が立ち入り禁止の天道信仰の聖地であり、ここが多久頭魂の遥拝所だったため、明治の神仏分離により多久頭魂神社を復した際に、神仏習合時代の旧豆酘寺の観音堂を社殿としたのである。やはり神社の拝殿とは違った印象を受ける。

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拝殿内

拝殿内には本殿入口の格子扉がある。