半坪ビオトープの日記

阿麻氐留神社

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小船越から西の漕手へ

和多都美神社がある豊玉町は対馬上島の南部で仁位浅芽湾を囲んでいるが、浅芽湾の南部は対馬下島の美津島町が囲んでいて、浅芽湾の最も東に小船越の集落がある。この小船越は対馬海峡と浅芽湾を繋ぐ海上交通の拠点で、かつては小さな船を陸揚げして狭い陸峡部を越えていた。

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西の漕手

この狭い陸峡部は160mほどしかなく、越えると浅芽湾に出る。そこを西の漕手と呼ぶ。大船は船を乗り換えた。

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西の漕手

7世紀から9世紀、遣唐使遣新羅使はここを歩いて通り抜け、別の船に乗り換えて進んだという。応永の外寇1419)の折、この地は占拠され、南北の交通路を断たれている。

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阿麻氐留神社

西の漕手の入り口近く、国道382号線沿いに、阿麻氐留(あまてる)神社がある。古代航路の拠点に鎮座する古社である。境内入り口の古びた石造鳥居の扁額に阿麻氐留神社と刻まれている。

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タカサゴユリ

境内入り口近くに白い百合の花が咲いていた。テッポウユリによく似ているが、葉が細いのでホソバテッポウユリの別名がある、タカサゴユリLeucolirion formosanum)である。台湾原産の固有種で、19世紀にイギリスに導入され、日本には1924年に園芸用に移入され、帰化植物として全国に分布し、海岸線から山地に至るまで広く自生する。

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小船越の港

石段を上ると二の鳥居があり、振り返ると、小船越の港が見える。小船越の2kmほど先に鴨居瀬の集落がある。対馬の伝承では、山幸彦が釣り針を探す旅の途中でまずたどり着いたのがこの美津島町鴨居瀬で、しばらく隠れ住んだのが美津島町濃部で、集落奥の天神神社には山幸彦が祀られている。豊玉姫との出会いの場は豊玉町仁位の和多都美神社。その子神である鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)が誕生したのがこの鴨居瀬。豊玉町千尋藻の六御前神社にはウガヤフキアエズ6人の乳母が祀られている。

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二の鳥居

古事記では、ウガヤフキアエズは叔母で乳母だった玉依姫と結ばれ初代神武天皇となるカムヤマトイワレビコが誕生する。一方、海幸彦は九州南部の隼人の祖先とされており、対馬を含めた九州北部の海洋民が信仰していたのが海神・豊玉姫だとすると、天皇家の祖先である山幸彦の一族と、九州北部の海洋民が手を結び、九州南部の隼人勢力を征服したという歴史物語が見えてくる。対馬の神社巡りが面白くなりそうだ。二の鳥居の先にもまだ石段が続く。

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阿麻氐留神社の拝殿

石段を上り詰めるとようやく阿麻氐留神社の拝殿の前に出る。祭神のアメノヒノミタマ(天日神)は日神(太陽神)で、厳原町豆酘に鎮座する至高神タカミムスビの5世の孫とされる。日本書紀によると、顕宗3年(5世紀)遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを盤余(奈良県いわれ)に、壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させている。対馬壱岐の祭祀集団を中央に移動させる政治的意図があったと推測される。中国には、太陽はもともと10個あり、旱魃が起きるため英雄が9つを射落としたという神話があるが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る百手祭という神事が伝えられており、その関連が指摘されている。

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拝殿の中

拝殿の中には太鼓があるのみで、奥に続く本殿は暗い。対馬では、この美津島町小船越にアマテル(阿麻氐留)という太陽神が、厳原町阿連の山中にはオヒデリ(御日照)という太陽の女神が鎮座している。また、対馬固有の天道信仰の中心人物である天童法師は、その母が太陽光に感精して産まれたとされ、太陽の化身と考えられていたという。

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瓦葺の本殿

拝殿後方に瓦葺の本殿が続いている。「延喜式神名帳」の注釈書である「特選神名牒」は、山城の天照御魂神社、丹羽の天照玉命神社等と同じく、当社も天照国照彦火明命なるべし、と考定している。由緒では、貞観12年(870)従五位下の神階を賜るという。神仏習合が盛んな江戸時代には、「照日権現」「三所権現」と称していた。当地ではオヒデリ様、または照日権現と呼ぶ。

日本各地の神社縁起や伝承などは、江戸時代以降、とりわけ明治期の天皇制崇拝・神仏分離により、古事記日本書紀によって上書きされ、多様性を失った。が、対馬は森林が89%を占める辺境の地であったためか、多少なりとも上書き以前の姿が残されている。日本古来の宗教の姿は神仏習合により多くが変容していたが、それがまた明治期の天皇制崇拝・神仏分離により多くが破壊され、祭神が統合され変更されたことを問題視する立場をとる私にとって、対馬は昔の姿がかなり残っていて、大変興味を唆られる所である。

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本殿脇の石祠

本殿の左脇に境内社の石祠があったが、詳細はわからない。

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本殿の裏手の枯れた大木

本殿の裏手にねじれた大木が枯れて崩れかけているのを見つけた。昔は神木とされていたのかと思った。