半坪ビオトープの日記

和多都美神社

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和多都美神社の鳥居

対馬を縦断する国道382号から烏帽子岳展望所へ向かって分岐する道沿いには、和多都美神社があるのだが、はるか手前に大きな鳥居が建っていた。対馬の細かい資料が手元にないので、旅行前に対馬市より歴史観光資料を取り寄せたところ、対馬神社ガイドブックが含まれていた。それを読むと、「延喜式神名帳927年)」に記載された神社(式内社)が九州全体で98社あるが、対馬29社、壱岐24社と、壱岐対馬で九州の半分以上を占めている。大陸航路の拠点であり、国防の最前線として、朝廷からも重要視されていたためと考えられている。非常に多くの古社が残る対馬を巡る旅では、神社ガイドを頼りに出来る限り多くの神社を訪ねておきたいと思う。

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和多都美神社

和多都美神社は、豊玉町仁位の集落から離れた、南にある入江に鎮座する、延喜式式内社名神大社である。豊玉町中心部の仁位川沿いには古くから集落が形成され、弥生時代後期には対馬の中心地だったとされる。烏帽子岳展望所に近く、古代の海女族がこの地こそ海神に守られた竜宮だと考えたことが推測される。周りに集落はなく、元々は船でしか行けない聖地であった。

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拝殿前に並ぶ鳥居

日本の神話は日本書紀古事記、いわゆる記紀に集約されるが、対馬にも日本神話に対応する伝承・異伝が数多く残されている。この和多都美神社主祭神は、彦火火出見尊(山幸彦)と豊玉姫命であり、対馬の伝承では、ここで山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。古事記上巻は、その豊玉姫の子神(鸕鷀草葺不合尊=ウガヤフキアエズの命)が、乳母である豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれ、カムヤマトイワレビコ神武天皇)を生むところで終わる。

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拝殿前に並ぶ鳥居

拝殿前に並ぶ五つの鳥居の内、二つは海の中にそびえ、満潮の時は社殿近くまで海水が満ち、その様は竜宮を連想させるという。ところがこの神社を訪れた翌月、台風10号の余波で最も海側の平成元年の鳥居が倒壊してしまった。すぐさま再建プロジェクトによって寄付を集め、本年中には再建されるそうだ。

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土俵殿と拝殿

和多都美神社の縁起によれば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、「海宮(わたつみのみや)」と名付け、この地を「夫姫(おとひめ)」と名付けた。そして彦火火出見尊(山幸彦)と豊玉姫命の二神を奉斎したという。正面奥に拝殿と本殿が建ち、左手には土俵殿が建つ。本殿後方には夫婦岩があり、その手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)という。また、西(左手)奥の山下に豊玉彦尊の墳墓(御陵)があるという。

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拝殿

和多都美神社は、貞観元年(859)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、三代実録によれば永徳元年(1381)に従一位を叙せられ、名神大社の一つに数えられた。

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拝殿内

海神である豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神穂高見尊、二女神は豊玉姫命玉依姫命である。和多都美神社の縁起では、山幸彦(彦火火出見尊火遠理命)と海幸彦(火照命)の伝説はこの地から生まれたという。

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拝殿に続く本殿

本殿の千木は外削ぎであり、鰹木は8本と多い。以前は外削ぎ(先端が垂直)が男神、内削ぎ(先端が水平)が女神を祀るとされていたが、現在では俗説とされる。同じく鰹木も奇数が男神、偶数が女神を祀るとされていたが、これも神社本庁ではそうとは限らないという。

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境内社と三柱鳥居

本殿の左手には、二つの境内社があるが、どんな摂社か末社か、詳細はわからない。

左手前にあるのは、珍しい三柱鳥居で、何か霊石らしきものを祀っている。有名なのは京都太秦木嶋神社の石造三柱鳥居である。東京向島の三囲神社のものは木嶋神社の三柱鳥居を原型としている。他にも十ヶ所ほど知られるが、ほとんどは模したものか、近年設置のものである。和多都美神社には境内入口近くの池にもあり、どちらもかなり古そうだ。

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波良波神社

本殿の右手には波良波神社がある。「延喜式神名帳」に登載される式内社。昔は仁位の「波浪」と呼ばれた場所に鎮座していたとされる。いつの頃からか当神社境内に移され、祭神は豊玉彦命(大綿津見神)である。豊玉彦命の直裔は穂高見命で、社家である長岡家・平山家の祖先神とされ、両家は系図や秘伝書に穂高見命之神孫と記してその系譜を伝え、代々仕えてきたという。

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三柱鳥居と磯良恵比須

境内左手にある池にも三柱鳥居が立ち、磯良(いそら)恵比須という霊石が祀られている。背面に鱗状の亀裂が見られるこの岩は、今なお神聖な霊場として祀られている。この岩を磯良の墓とする伝説があり、ここに社殿が営まれる以前の古い祭祀における霊座か御神体石だったのではないかと札にある。磯良は神功皇后伝説に登場する海神で、古代の有力な海洋民族・安曇(あずみ)氏の氏神だが、豊玉姫の子=磯良という伝承があるという。イソラは記紀には登場しないが、「太平記」では、海底に住む精霊として描かれ、神功皇后三韓出征の際に招かれたものの、海藻や甲斐が顔に貼り付いて醜いことを恥じて現れず、住吉の神が舞を奏したところそれに応じて三条市神功皇后の水先案内を務めたとされる。ちなみに安曇氏の拠点は福岡の志賀島だが、遠く信州まで勢力を伸ばし、安曇野という地名を残し、白村江の戦いで戦死したと伝えられる将軍・安曇比羅夫は長野県安曇野穂高神社の祭神となっている。