半坪ビオトープの日記

白嶽神社、上見坂公園

 

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洲藻から見る白嶽

翌朝、今度は白嶽の東麓、白嶽神社のある洲藻の集落に行く。白嶽登山口の駐車場の先に白嶽がよく見える。青空に向かって聳える双耳峰の勇壮な姿は、昔から対馬山岳信仰の総社として崇められた歴史を十分に納得させる存在感をもってどっしりと輝いている。白い岩盤そのものが巨大な磐座とされ、遠くから拝むために麓に社が建てられてそこから遥拝するというのが、古神道の原型でもある。

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白嶽

白嶽は登山口から山頂まで1時間半ほどで到着できるというが、山頂付近は険しい岩場があるので十分な装備が必要だろう。山頂付近は、対馬の固有種・シマトウヒレンの唯一の自生地である。白嶽全体が神山として信仰の対象だが、左の雌岳の岩峰の根元にある岩窟は特に神聖視されて居る。

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白嶽神社

白嶽神社は、祭神として大山祗神と多久頭魂神を祀る。神社の由緒によると、神籬磐境(ひもろぎいわさか)の上古制の社にして津島七岳の宗社として森林鬱蒼峻岳秀麗の地なり、古来蛇淵を中の御所と称し、緑原を遥拝所となし、茲に神殿を設けたり。国主の崇敬ありし神社にて、洲藻の総鎮守神なり。大正12年須茂乃久頭神社合併編入せらる、とある。摂社として五王神社、若宮神社が祀られている。拝殿右手前にイチョウの巨木が聳え立つ。

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白嶽神社拝殿

珍しく、賽銭箱は拝殿の中にある。古くは米が神仏に供えられていたが、社寺に金銭が供えられるようになったのは、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透し始めた中世以降であり、現在のように賽銭箱が置かれるようになったのは近世以降とされる。

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拝殿の背後に本殿

本殿は拝殿の背後に続いて建っている。社殿の周りは草が生い茂っている。

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ボタンヅル

垣根に這い上がっているつる植物が白い花を咲かせていた。本州、四国、九州に分布するキンポウゲ科センニンソウ属のボタンヅル(Clematis apifolia)という蔓性の半低木。和名は、葉が1回3出複葉でボタンに似て、つる性であることに由来する。センニンソウと同様、有毒植物である。十字形になる4枚の花弁に見えるのは萼片で、花弁はない。

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ヌマガエル

ボタンヅルの根元に小さな蛙がいるのを見つけた。房総半島でよく見かけたヌマガエルに間違いあるまい。対馬には元々、ニホンアマガエル、ツシマアカガエル、チョウセンアカガエルの3種類のカエルが知られていたが、2003年にヌマガエルの対馬での生息が学会発表されて以降、年々増加していることが報告されるようになった。なぜ、対馬に入ってしまったのか謎のままだが、繁殖力が旺盛なので、元々住んでいたカエルたちへの影響が出ないか、とりわけ、国内では対馬にしか生息していなかったツシマアカガエル、チョウセンアカガエルへの影響が心配されて調査が進められている。

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上見坂公園から眺める白嶽

白嶽神社のある洲藻の集落から雞知に戻り、そこから南下して上見坂(かみざか)公園に向かった。標高358mのこの丘陵からは、東に対馬海峡、北西に霊峰白嶽(515m)を望む。

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上見坂公園から眺める白嶽

先ほどは東麓から白嶽を眺めたが、今度は南東方向にある上見坂公園から眺めるので白嶽山頂の様子が少し違い、双耳鋒の巨大な岩肌がはっきり認められる。

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城山、浅芽湾

北を眺めると、白嶽から金田城跡のある城山、そして浅芽湾が東にくびれながら食い込んでいく様が見て取れる。この地は「在庁落し」の名称も伝わる。寛元4年(1246)、時の対馬統治者阿比留氏を筑前より入唐した惟宗重尚の軍勢が、当地で激戦の上で討ち、宗氏が対馬島主の座に就いたとの歴史が永く語られてきたが、これは史実ではないことが研究により判明している。

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上見坂公園から対馬空港

浅芽湾が終わると、対馬空港の滑走路が一筋認められ、その右に対馬開渠東水道の海が認められる。明治35年(1902)、緊迫する東アジアの国際情勢に対処するため、上見坂砲塁が築かれた。その堅固で壮大な遺構は、この展望台の背後に現存し、当時の国家の危機意識の強さが窺われる。

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浅芽湾のリアス式海岸

日本の代表的な溺れ谷、入江と島々が作り出す浅芽湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がり、対馬の地形を再確認できる。好天に恵まれると、遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望である。