郷ノ浦の中心部より北、国道382号線の東、鉢形山の麓に天手長男(あめのたながお)神社の鳥居があり、階段を上るとまた鳥居があって境内に建つ社殿が見える。『延喜式神名帳』に載る式内名神大社で、壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが、現在では疑問視されている。
主祭神として、天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命を祀り、仁徳天皇、仲哀天皇、日本武尊、比賣大神を合祀する。さらに式内社名神大社の天手長比賣神社、小社の物部布都神社を合祀している。天手長比賣神社には栲幡千々姫命、稚日女命、木花開耶姫命、豊玉姫命、玉依姫命、物部布都神社には経津主神(布都主神)が祀られている。さらに若宮神社、豊満神社を合祀している。
福岡県:宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に竹内宿禰が持っていた紅白二本の旗をつけ、それを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(沖ノ島)に立てたという。天手長男の社名は、この御手長に由来するという。弘仁2年(811)に天手長雄神社として創建、後に天手長男神社に。その後、元寇により廃れてしまい、所在不明となった。
江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を、平戸藩の国学者、橘三喜が「たながお」の社名より田中触に所在地を求め、名神大社の天手長雄神社に比定した。田中触の城山竹藪の中で神鏡1面、弥勒如来の石像2座を掘り出し、石祠を作って祀った。延宝5年(1677)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071)の銘があり、重要文化財に指定されて奈良国立博物館に保存されている。元禄元年(1688)には松浦藩主の命により社殿が造られた。芦辺町湯岳興触に興神社があり、興は国府とも考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、その興神社が本来の天手長男神社であり一支国一宮であるとする説が有力となっている。時間が許せば訪れてみよう。
本殿左手には石祠がいくつか並べられ、中央の大きな祠には「天手長男神社」と書かれている。
その左の新しい建物は粟島神社で、中には無病息災を願って幼児の産着がたくさん奉納されている。
郷の浦から壱岐島北端の勝本町に行き、辰ノ島クルーズの前に、勝本浦を散策する。勝本港を囲む防波堤の内側に神功皇后の馬蹄石がある。神功皇后が朝鮮半島へ出兵した際に乗った馬の蹄跡だといわれる。また、この地は文永の役(1274)の際、元軍が上陸した地でもある。
馬蹄石のすぐ東に聖母宮(しょうもぐう)という神社がある。『延喜式神名帳』に載る名神大社で、中津神社の有力論社であるが、現在その社名の別神社が存在する。正面となる西門は加藤清正が朝鮮出兵時の天正20年(1593)に寄進したもので、江戸時代になり捕鯨業で財を成した土肥市兵衛が修理した。
仲哀天皇9年、神功皇后が三韓出兵の際、壱岐で風待ちをしていた時に行宮を建てたのが起源とされる。この時神功皇后は北へ向かうのに良い風が吹いたことからこの地を風本と名づけた。そして三韓から凱旋時に勝利を記念して勝本に改めたという。養老元年(717)異敵襲来、大風全滅の報に、元正天皇が霊験ありと勅使を派遣し、国家鎮護が祈願されて社殿が建てられた。聖母宮ではこれを神社の創建としている。古来より国主の崇敬篤く、壱岐七社の一つとして、また壱岐国二宮とされた。
主祭神として、息長足姫尊(神功皇后)と足仲彦尊(仲哀天皇)と誉田別尊(応神天皇)と、上筒男尊、仲筒男尊、底筒男尊の住吉三神(住吉大神)を祀る。神功皇后の三韓征伐に勝利したことから勝負の神として知られる。また、その折り応神天皇を身籠り、凱旋の後に無事出産したとの伝えから安産の神としても知られる。