半坪ビオトープの日記

天手長男神社、聖母宮

f:id:hantubojinusi:20210804085554j:plain

天手長男神
郷ノ浦の中心部より北、国道382号線の東、鉢形山の麓に天手長男(あめのたながお)神社の鳥居があり、階段を上るとまた鳥居があって境内に建つ社殿が見える。『延喜式神名帳』に載る式内名神大社で、壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが、現在では疑問視されている。

f:id:hantubojinusi:20210804085303j:plain

天手長男神社の拝殿
主祭神として、天忍穂耳尊天手力男命、天鈿女命を祀り、仁徳天皇仲哀天皇日本武尊、比賣大神を合祀する。さらに式内社名神大社の天手長比賣神社、小社の物部布都神社を合祀している。天手長比賣神社に栲幡千々姫命稚日女命木花開耶姫命豊玉姫命玉依姫命物部布都神社には経津主神(布都主神が祀られている。さらに若宮神社、豊満神社を合祀している。

f:id:hantubojinusi:20210804085320j:plain

拝殿内
福岡県:宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に竹内宿禰が持っていた紅白二本の旗をつけ、それを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(沖ノ島)に立てたという。天手長男の社名は、この御手長に由来するという。弘仁2年(811)に天手長雄神社として創建、後に天手長男神社に。その後、元寇により廃れてしまい、所在不明となった。

f:id:hantubojinusi:20210804085517j:plain

本殿
江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を、平戸藩国学者、橘三喜が「たながお」の社名より田中触に所在地を求め、名神大社の天手長雄神社に比定した。田中触の城山竹藪の中で神鏡1面、弥勒如来の石像2座を掘り出し、石祠を作って祀った。延宝5年(1677)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071)の銘があり、重要文化財に指定されて奈良国立博物館に保存されている。元禄元年(1688)には松浦藩主の命により社殿が造られた。芦辺町湯岳興触に興神社があり、興は国府とも考えられ、境内社壱岐国総社もあることから、その興神社が本来の天手長男神社であり一支国一宮であるとする説が有力となっている。時間が許せば訪れてみよう。

f:id:hantubojinusi:20210804085426j:plain

石祠と粟島神社
本殿左手には石祠がいくつか並べられ、中央の大きな祠には「天手長男神社」と書かれている。

f:id:hantubojinusi:20210804085456j:plain

粟島神社
その左の新しい建物は粟島神社で、中には無病息災を願って幼児の産着がたくさん奉納されている。

f:id:hantubojinusi:20210804093922j:plain

馬蹄石
郷の浦から壱岐島北端の勝本町に行き、辰ノ島クルーズの前に、勝本浦を散策する。勝本港を囲む防波堤の内側に神功皇后の馬蹄石がある。神功皇后朝鮮半島へ出兵した際に乗った馬の蹄跡だといわれる。また、この地は文永の役1274)の際、元軍が上陸した地でもある。

f:id:hantubojinusi:20210804094021j:plain

聖母宮
馬蹄石のすぐ東に聖母宮(しょうもぐう)という神社がある。『延喜式神名帳』に載る名神大社で、中津神社の有力論社であるが、現在その社名の別神社が存在する。正面となる西門は加藤清正朝鮮出兵時の天正20年(1593)に寄進したもので、江戸時代になり捕鯨業で財を成した土肥市兵衛が修理した。

f:id:hantubojinusi:20210804094057j:plain

聖母宮拝殿
仲哀天皇9年、神功皇后三韓出兵の際、壱岐で風待ちをしていた時に行宮を建てたのが起源とされる。この時神功皇后は北へ向かうのに良い風が吹いたことからこの地を風本と名づけた。そして三韓から凱旋時に勝利を記念して勝本に改めたという。養老元年717)異敵襲来、大風全滅の報に、元正天皇が霊験ありと勅使を派遣し、国家鎮護が祈願されて社殿が建てられた。聖母宮ではこれを神社の創建としている。古来より国主の崇敬篤く、壱岐七社の一つとして、また壱岐国二宮とされた。

f:id:hantubojinusi:20210804095103j:plain

拝殿内
主祭神として、息長足姫尊神功皇后)と足仲彦尊仲哀天皇)と誉田別尊応神天皇)と、上筒男尊、仲筒男尊、底筒男尊の住吉三神住吉大神)を祀る。神功皇后三韓征伐に勝利したことから勝負の神として知られる。また、その折り応神天皇を身籠り、凱旋の後に無事出産したとの伝えから安産の神としても知られる。

f:id:hantubojinusi:20210804095032j:plain

拝殿から本殿
本殿は、3枚の棟札と建物の様式から宝暦2年(1752)に平戸藩主・松浦誠信(まつらさねのぶ)により再建されたとみられる。三間社流造・柿葺、桁行3間、梁間2間。柱筋に板唐戸三扉を設けて内陣と画する。細部にも極彩色や彫刻を多用するなど壱岐の地方色を表し、重要な建物である。

f:id:hantubojinusi:20210804094220j:plain

本殿側面と境内社
本殿は県内最古の部類に属する貴重な建造物である。側面は覆いにより雨風から保護され、屋根のみ露出している。聖母宮境内には天満神社、八坂神社、疫神社、稲荷大明神などが祀られている。

f:id:hantubojinusi:20210804094541j:plain

聖母宮南門
南門は鍋島直茂が西門とほぼ同時期に寄進したもので、構造は同じだが一回り小さい。

f:id:hantubojinusi:20210804094702j:plain

大シャコ貝の手水鉢

手水鉢はパラオ島産の大シャコ貝で、昭和14年(1939)に勝本町出身の立石孝信氏が寄進したものという。

f:id:hantubojinusi:20210804095149j:plain

大名宿舎と稲荷社
聖母宮の斜め向かいに古い石垣に囲まれた大名宿舎がある。文禄・慶長の役で勝本浦は兵站基地となり、加藤清正らの大名宿舎が作られ、裏の高台には物見台が築かれた。その一角に稲荷社がある。昭和37年(1962)の家の改造中に縄文遺跡を発掘。人骨、黒曜石、摺石、土器片、貝殻片など三内丸山遺跡と同様の遺物が出土し、正村遺跡と名付けられた。