ヒシアゲ古墳から西へ向かう道は狭く、一度平城宮跡まで戻って、佐紀盾列古墳群の西群に向かう。佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵墓)、五社神古墳(神功皇后陵)と共に西群を構成し、その最も南に位置するのが佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)である。墳丘長が127mの前方後円墳で、前方部を西方向に向け、南北を主軸とする西群の他古墳とは直交する。この写真では、正面に前方部、森の奥に後円部が位置する。
佐紀高塚古墳の築造は古墳時代前期後半の4世紀代と推定されているが、被葬者は不明である。宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として称徳天皇陵に治定されている。『続日本紀』によると称徳天皇は宝亀元年(770)に崩御し「高野山陵」に葬ったとされる。『延喜式』では「高野陵」と記載される。『西大寺資材流記帳』を基にすると、西大寺の東方に位置するこの古墳ではなく、西大寺の寺域西限に存在したと推定される。しかし陵に関する所伝は後世に失われ、陵の所在には諸説あるのが実情である。
佐紀高塚古墳のすぐ北に、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(垂仁天皇皇后・日葉酢媛陵墓)が並んでいる。西にある佐紀石塚山古墳は、墳丘長218mの前方後円墳で、3段の墳丘に葺石が多用されている。被葬者は不明だが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」として成務天皇陵に治定されている。築造は古墳時代前期末頃の4世紀後半と推定されている。東に隣接している佐紀陵山古墳は、墳丘長207mの前方後円墳で、後円部中央に造られた竪穴式石室は主軸をほぼ南北にする巨大なものである。その構築法は特異で大阪府柏原市の松岳山古墳に類例があるだけである。被葬者は不明だが、宮内庁により「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」として垂仁天皇皇后の日葉酢媛命陵に治定されている。石室内の出土遺物として、流雲文縁変形方格規矩鏡仿製鏡等三面の鏡などがあり、築造は古墳時代前期末頃の4世紀後半と推定されている。しかし、この二つの古墳は、佐紀高塚古墳や住宅に囲まれて近づくのが困難だったので、残念ながら割愛してさらに北にある五社神古墳(仲哀天皇皇后・神功皇后陵)に向かった。
五社神古墳は、佐紀盾列古墳群の西群の最北に位置し、奈良盆地北部の佐紀丘陵の丘尾を切断して築造された巨大前方後円墳である。五社神(ごさし)の古墳名は、かつて後円部墳頂に存在した祠の名に由来する。墳丘長は推定復元で267mと佐紀盾列古墳群中で最大規模、全国で第12位の規模である。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)」として仲哀天皇皇后の神功皇后の陵に治定されている。築造は古墳時代中期初頭の4世紀末頃と推定されている。奈良盆地北部の巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵墓)、宝来山古墳(垂仁天皇陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)に後続する築造順とされる。特に五社神古墳はヤマト王権の大王墓と目される他、造出での祭祀の初期事例となる点が注目されている。
『倭の五王の秘密』を著した石渡信一郎によれば、倭の五王が記述された『宋書』および『日本書紀』『古事記』等の史書を読み解いた結果①を簡単に記すと、崇神天皇が前期百済系倭国を建国し、応神天皇が後期百済系倭国を建国したことを隠すために、藤原不比等が倭の五王の記事を原日本書紀から排除したり、架空の天皇を挿入したりして書き直した、という説である。『宋書』および『日本書紀』『古事記』等の史書から解読した、非公式に記録された倭の五王の在位年代を、倭王名・天皇紀・元年・死亡年・在位年数の順で記すと、讃・景行紀・410-437・28年、珍・成務紀・438-442・5年、済・仲哀紀・443-461・19年、興・神功紀・462-477・16年、武・応神―武烈紀・478-506・29年、となる。さらに五王の前の崇神(旨)、垂仁(高)を含めた陵墓は、崇神・箸墓古墳、垂仁・渋谷向山古墳、讃・行燈山古墳(伝崇神陵)、珍・五社神古墳、済・仲ツ山古墳、興・石津丘古墳、武(応神)・誉田山古墳と比定している。石渡は、不比等が珍(ワカキニイリヒコ)を隠すために『日本書紀』に成務天皇・神功皇后という虚像を作ったので、両者の陵墓は実在せず、伝神功皇后陵という五社神古墳は、珍の陵墓であるとする。
2008年、宮内庁は日本考古学協会などの要請に応じ、五社神古墳(神功皇后陵)への立ち入り調査を許可し、各団体の代表16人が初めて陵内に入った。なお、発掘は認められなかった。しかしその後も毎年、奈良や大阪などの陵墓で墳丘などへ立ち入り調査が実現している。2022年に実施された「古墳時代の大王が眠る、佐紀古墳群を航空レーザ測量し真相解明へ」というクラウドファンディングが目標金額に達し、軽飛行機によるレーザ測量が行われ、2023年にオンライン説明会が開催された。従前に比べれば進歩だが、表面を公開しているだけで、発掘が許可されないのは考古学上残念な状況である。写真の森が五社神古墳の南の前方部と北の後円部の境目の造出部あたりを西側から眺めた様子である。
以上の4つの古墳が西大寺駅の北にある佐紀盾列古墳群の西群とされる主な古墳だが、西大寺駅の南にも宝来山古墳や周辺の小円墳があり、南支群として佐紀盾列古墳群の西群に含める説もある。宝来山古墳はかつて「蓬莱山」とも称され、嘉永2年(1849)には盗掘があり、竪穴式石室で内部に長持形石棺が据えられていたという。宮内庁採集の埴輪により古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定されている。被葬者は不明だが、宮内庁では第11代垂仁天皇菅原伏見東陵に治定している。近くの菅原東遺跡出土の布留1式後半〜2式の土器から4世紀前半の築造とも見られている。しかし、石渡の研究による土師器の型式と編年表では、布留0式は380〜409年で崇神天皇(旨)の時代とし、布留1式は410-437年で420年代前半が垂仁天皇(高)の時代としている。そして垂仁天皇(高)の本当の墓陵は、墳丘長300mと古墳時代前期では全国最大規模の、纏向にある渋谷向山古墳(伝景行天皇陵)であるとする。ちなみに布留2式は438-461年で450年中頃が五社神古墳(珍)の時代としている。
宝来山古墳の墳丘長は227mで、国内20位。後円部直径123m、高さ17.3m、前方部幅118m、高さ15.6m。後円部も前方部も3段築成で、大王の墓と推定されている。
宝来山古墳の墳丘南東の周濠内に浮かぶ小島・湟内陪冢は、宮内庁により田道間守墓に仮託されているが、『記紀』には叙述がなく、後世の周濠拡張の際に残された外堤の一部と推測されている。