半坪ビオトープの日記

高御魂神社

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多久頭魂神社の社殿

あらためて参道突き当たりの多久頭魂神社の社殿を見ると、左側面で拝殿の入口ではないことが確認できる。多久頭魂神社は前に述べたように、古くは龍良山を御神体として社殿はなく、本来の祭神は対馬固有のタクズタマ=多久頭魂であるが、それは紀国造の祖神である多久頭神であるともいわれる。どちらにしても天神・天孫系の神々より古いと推測される。奥の鬱蒼たる原生林である龍良山全体が立ち入り禁止の天道信仰の聖地であり、禁足地であることも、原始的な宗教形態を今に残している貴重な遺産であることを示している。日本古来の自然崇拝ないし神霊崇拝の原初的な様相を感じられる極めて特異な場所である。

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五王神社

多久頭魂神社社殿の右側面の向かいに五王神社があり、その左に大楠が聳えている。五王神社は、國本神社の相殿に祀られていた神社で、元の鎮座地・伽藍原は、護法原とも呼び、牛王原と書くようになって、五王と変化したとされる。

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多久頭魂神社の大楠

多久頭魂神社の大楠は、幹周7.1m、樹高20m対馬最大といわれ、「お堂のクス」とも呼ばれる。おそらく神木であろう。

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神住居(かみずまい)神社

境内最奥の大楠から戻りながら、参道の東側を見て回る。左の森の中に二つ建物が見える。左の社殿が神住居(かみずまい)神社である。神功皇后の行宮として一時的な宮殿だった場所。ここに伝わる豆酘の船浮(ふなうかし)神事は、別名カンカン祭りと呼ばれ、赤船と白船に分かれて子供たちを捕まえる祭り。神功皇后新羅の軍勢を捕虜にした伝承に因むと言われる。

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姫神

神住居神社の参道脇の木の根本に名札が見えるが、正面に見えるのは神住居神社の右手の淀姫神社である。淀姫神社の祭神は神功皇后の妹と言われる淀姫である。三韓征伐に出かけた神功皇后に、妹の淀姫・豊姫も同行していたのではといわれている。

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高御魂神社への参道

元の大きな参道を下っていくと、左手に石段が続く参道が分かれ、なおもまた左右に分かれている。鳥居が並ぶ左側の参道が高御魂神社に向かう。

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高御魂(タカミムスビ)神社

高御魂(タカミムスビ)神社の祭神は、タカミムスビで、『古事記』では高御産巣日神と書かれ、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる。また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神、高木大神の名で登場する。産霊(むすひ)は生産・生成を意味し、『古事記』によれば、天地開闢の時最初に天之御中主神が現れ、その次に神産巣日神とともに高天原に出現し、造化の三神と呼ばれる。中でもタカミムスビ天皇家の祖先神とされるアマテラスに天孫降臨を指示したり、初代天皇とされる神武天皇の東征を助けたりするなど、天皇家・朝廷にとって重要な神である。原初の神々のうちでも重要なタカミムスビが、対馬南部の厳原町豆酘の海沿いに鎮座し、『日本書紀』によれば5世紀、遣任那使の神託により、対馬から大和の磐余に遷座している。磐余は神武天皇の名・カムヤマトイワレビコ(大和の磐余の尊い日子)に表れているように、大和朝廷の起源とされる土地であり、対馬古神道の源流の一つとされる所以である。

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師殿(いくさどの)神社

古事記』では神武天皇の本名を若御毛沼(ワカミケヌ)命とし、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ)を別名とするが、『日本書紀』ではこれを本名とする。九州で生まれたのになぜ大和地名を名前にしたのか。欠史八代と呼ばれ、系譜だけしかない記・紀の綏靖(すいぜい)天皇から開化天皇までと神武天皇の時代の伝承は、後で付加されたとする説が有力である。イワレヒコの名が定まったのも磐余に宮を設けた継体天皇時代以降であろう。地方から大和に入って即位した天皇神武天皇の他に応神天皇継体天皇がある。継体天皇応神天皇の五世の孫で、武烈天皇で絶えた血統を守ろうとする大伴金村に求められて、越前から大和入りし即位した。神武天皇応神天皇の大和入りの物語は、史実としての継体天皇の大和入りをモデルとして形成されたという説が興味深い。

話が広がってしまったが、「『日本書紀』によれば5世紀、遣任那使の神託により、対馬から大和の磐余に遷座している、」との説明については、またの機会に検討を加えたい。

豆酘は亀卜など独特の民俗が伝わる古い集落であり、高御魂神社の近くには古代米・赤米の神田がある。もともとは現在の豆酘中学校の所に位置していたが、学校建設に伴い現在地に遷座したという。しかし、本来の場所に戻ったのではないかという地元の人もいるという。延喜式神名帳に記載される対馬に6つある名神大社の一つである。

高御魂神社の社殿のすぐ右手にある小さな社は、師殿(いくさどの)神社という。祭神として、豆酘郡主であった兵部少輔宗盛世を祀っている。

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現在の観音堂

観音堂は昭和31年(1956)に焼失したので、現在の観音堂はその後再建されたもの。

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毘沙門、普陀山、瑠璃堂

堂内には、毘沙門、普陀山、瑠璃堂の名札が見える。普陀山は、中国仏教の聖地の一つで、観音菩薩が祀られている。

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地蔵堂

観音堂の左隣には地蔵堂が建つ。はっきり見えないが地蔵菩薩が安置されていると思われる。